65.決めた居場所

「今日のところはいいと思うんですよ」
 張り切って深緑さんの前に資料を並べようとしたら、深緑さんは待って、と手のひらを翳して私を止めた。
「もういいの。今日はそれを伝えに来たの」
「もう……って?」
 私は深緑さんの顔を覗き込む。あまりに私の紹介する場所が外ればかりで、呆れられたのかもしれない。
「私、館に住むわ」
「えっ……本当ですか?」
 しかし、予想と違う言葉が返ってきて、目を瞬いてしまった。深緑さんは目を逸らし、髪をいじりながら言う。
「最初は、怖い人たちばかりだと思ってたけど……お茶に誘ってくれたし……。いろいろと話してみたら、悪い人じゃないってわかって……。だから、もういいの」
「でも……湖の方が、暮らしやすくないですか?」
 深緑さんの心変わりに追い付けなくて、おずおずと訊ねる。深緑さんは遠くを見るように顎を上げた。
「もちろん、一番はもとの湖に帰ることだけど……それはできないでしょう? だからといって……知らないところに行くのはやっぱり怖いから……」
 だから、ここにいるわ、と深緑さんは言った。心はもう決まっているようだった。
「……ごめんなさい。私が、ちゃんといい場所を見付けられなくて、諦めさせてしまって……」
「そうじゃないわ」
 肩をすぼめて俯いた私に、深緑さんは顔を向けて首を振った。
「そうじゃないの。あなたが私の願いを受け止めてくれたから、すぐに湖に帰らず、館に残ってもいいって思えたのよ。最初はいやいやだったけど……でも、ここでの暮らしも悪くないって知って……。だから、諦めたわけじゃないわ」
 深緑さんは、声音こそ弱弱しいけれど、言葉尻には明確な意思のある人だ。
「ありがとう。探してくれて。感謝してるわ……」
「深緑さん……」
 深緑さんは肩にかかった髪をはらって、居住まいを正した。
「无限大人のことも、いろいろ聞いたわ。悪い人じゃなかったみたい……。あなたが好きな人でもあるし……」
「そうなんです! 无限大人はいい人で……ってええっ!?」
 思わず聞き流しそうになってしまったけれど、今確かに、好きな人って言った?
「ど、どうしてそうなるんですか!?」
「あら……違うの……?」
「ちが……いえ、なんでそう思ったんですか……」
 違う、とは言えなくて、もごもごと確認すると、深緑さんは小さく笑った。
「館で、みんな言ってるわ……。最近、无限大人と一緒に過ごしてる人がいるって……」
「み、みんな……!?」
 そんなばかな。確かに、近頃よく一緒に出かけたりしてるけれど、噂になってたなんて……! まさか、その噂、无限大人の耳に入ってたりしない……よね!?
「ふふ……。恋って、楽しそうね……。本で読んだわ……」
「こっ、こここ恋とか、そんなんじゃあないですけど……!」
「いいじゃない……。誰かと一緒にいたいって思うのって、いいことだわ……」
 深緑さんの笑顔、初めて見れたかもしれない。それに気付いて、少し心が落ち着く。
「私も、初めてそのことを知れたから……だから、ありがとう……」
「……いいえ。私は何もしてません。深緑さんが、館の人々と向き合ってくれたからですよ」
「そうね……でも、あなたがいなければ、私は館に留まらなかったから……」
 ありがとう、ともう一度言って、深緑さんは帰っていった。結果として、新しい住処は見つけ出せなかったけれど、深緑さんが自分で居場所を見つけられたから、きっとよかったんだろう。
 少しでも、その役に立てていたなら嬉しい。心が温かくなって、自然と笑みがこぼれた。あとで、みんなに報告しよう。それから、无限大人にも。深緑さんの言葉を思い出して、かっと顔が熱くなる。いつの間にそんな噂が流れてしまったんだろう。困ったな。
 无限大人の耳には入っていませんように。

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