46.微熱風に吹かれ

 彼女は、館に馴染めない妖精のために住処を探すという大仕事に取り掛かっていた。その妖精は、少し前に私が任務で捕えた妖精だった。湖に近づいた人間がその妖精に怪我をさせられていた。殺しまではしていなかったが、人間たちが大がかりな討伐を検討し始めたのを知って、その前に保護するため私が向かうことになった。彼女は抵抗したが、どうにか確保し、館に連れて行った。どうしても少々手荒になるから、妖精たちに憎まれることは理解している。今回の彼女も、涙を流しながら、私を恨み深く睨んでいた。湖は彼女の住処だ。そこから無理矢理引き離した私は憎いだろう。いままで他の妖精たちと関わることも少なかったようだから、館での暮らしも馴染まないのかもしれない。そんな彼女の思いを受け止めようと、奮闘してくれている小香には頭が下がる。彼女は人間だが、妖精たちへの印象はいいようだ。日々の生活での困りごと全般を解決するのが彼女たちの仕事だから、信用を得ることが大事だ。彼女たちのような人間の協力があるからこそ、館はやっていけているのも事実だ。
 夏のところで用事を済ませたあと、もともと街へ降りる予定だったから、せっかくなら小香も一緒にと思い、誘った。彼女は嬉しそうに承諾してくれるから、誘い甲斐がある。紫禁城へ行きたいと目を輝かせる彼女に、そういえばあれからまったく足を運んでいなかったなと遠い記憶が呼び起こされた。私が見聞きしたものが糧になればと、彼女にいろいろと話したくなった。勉強熱心な子だから、こちらも熱が入るというものだ。かつては一般市民は許可なく立ち入ることができなかった城は、もはや本来の用途では使われず、観光客に溢れた歴史の遺物となっていた。すっかり色褪せてしまい、過去の思い出も薄らいでしまった。そこまで感慨はないが、それでも感じるところはあった。
 たくさん歩いて腹が減って、刀削麺を食べに行きたくなった。小香は機械で削られていることにがっかりしていたが、充分美味いと思う。夏からいい情報をもらって、明るい表情で館に帰っていった彼女を見送って、深緑も喜んでくれるといいがと願った。
 次第に暖かい日が続くようになってきて、いい花見日和になった。日本では桜が一番好まれているという。小香も桜が特に好きなようだった。桃の花より色が淡く、散り際が儚いその花の姿は、確かに彼女の心に似つかわしい。小黒が花の香りを嗅ぎ、小香が花に鼻を近づけるのを見て、私も香りたくなった。間近に迫った彼女の頬が桜よりも赤く染まり、潤んだ瞳で私を映していて、近づきすぎたことを悟る。彼女は女性なのだから、不用意に近づいた私が無礼だった。しかし彼女は気分を損ねる気配はなく、写真を撮ろうと小黒を誘って走り出した。小香と小黒と私で三人で撮った写真は、よく撮れていた。その後向かった動物園では、彼女の手料理を堪能した。日本の弁当は豪華で美味い。見た目にも気を使っていて、手間をかけさせてしまったかと申し訳なくなるほどだった。私も小黒もよく食べるから、彼女はたっぷり用意してくれていて、それもありがたかった。彼女がいてくれると、より楽しくなる。小黒もそう感じていたと思う。また機会があれば誘おうと決めた。
 風息公園に寄ろうと思いついたのは、帰りの電車の中でだった。まだ暗くなるまで時間はあったし、駅から近かったので、いい機会だと思った。二年前の話ではあるが、あれだけの事件だ、彼女も当然館の関係者として知っているだろう。だが、詳細まではわからないだろうから、当事者として、直接伝えたいと思った。小香には、私の、そして小黒の見たことを知っていてほしかったのだ。小香は風息の樹を見て、圧倒されたように言葉を失っていた。妖精の反乱は、彼女にはショックなことだっただろう。だが、きちんと受け止めてくれただろうと思う。それだけの強さを持っている子だ。二度とこのようなことを起こさないために何をすべきか、考え、実行していかなければならない。それが館の責任だ。
 霊渓で出会ったのは偶然だった。しばらく龍遊から離れていたから、数週間は会っていなかった。彼女も私を見つけて驚いたようで、動揺していたのがおかしかった。私と手合わせをしてくれる相手は少ない。府は貴重な相手だ。しかしそれも長くはもたない。カリ館長に彼女を任せてもいいかと言われ、ちょうどいいタイミングだと思った。今の時間なら、街に出て夜までに帰ってこれるだろう。何か美味いものが食べたかった。それに、温州にも彼女が見るべきところはある。五馬街で見付けた十八家麺館はいい店だった。小香は、仕事が難航していて落ち込んでいた。この前の湖は深緑のお気に召さなかったらしい。今の時代、そうそう妖精の住める場所というのは見つからないだろう。その上に要求も多いから、簡単に見つからないのは仕方がない。彼女はよくやっている。私の慰めと励ましに、俯いていた彼女の顔が明るくなって安心した。
 江心嶼の美しさに、彼女のテンションは明かに上がっていた。たくさん写真を撮って、しきりに感嘆していた。そんな様子を見守るのは微笑ましい。島を巡って、情人島を通りかかったとき、彼女が妙に反応するものだから、そういう相手がいるんだろうと思った。考えてみれば、彼女もそれなりの年齢だ。いて当然だと思ったが、いません、と笑う彼女に、何か心配事がなくなったような感覚を抱いた。恋人がいる女性と、二人で出かけるというのはあまりよくないことだろう。
「……もう、无限大人と、来ちゃいましたから……」
 その言葉がどう続くのか、妙な期待感があった。じっと見上げてくる眼差しには熱が籠っていて、ただひたすらに私だけを映していた。彼女は何かを、私に求めているのだろうか。その訴えているものに、私は、応えられるのだろうか。しかしそれは表には出されず、彼女は駆け出し、はぐらかされたな、と思った。何を。それは――。
 それがなんであれ、彼女がそれを望まないならば、私から無理に聞き出すことはない。ただ、少しでも思い悩まずに済むよう、手伝ってやるくらいのものだ。私たちの関係は、知人、というには近しく、友人、というには少し遠い。どこか一歩踏み出せずにいるのは、彼女がいつか帰ってしまうことがわかっているから。
 もう、五月になる。
 あと半月で、彼女は故郷に帰るだろう。
 そうなってしまえば、私も筆まめな方ではないから、疎遠になっていくのだろう。小黒はきっと寂しがる。私も、一緒に過ごした時を懐かしく思い返すだろう。彼女にとっても、いい思い出になればいい。
 今度はどこを案内してやろうか。いいところを思いついたら、誘ってみよう。考えるうちに、自然と笑みが浮かんでくる。どこなら彼女が楽しんでくれるだろうか。想像しながら計画するのも、楽しい時間だった。

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