37.動物園

 蘇州の上方山森林動物園へは、駅からバスで向かうことになった。昨日は雨だったから心配していたけれど、無事に晴れて、気持ちのいい天気になった。少し早起きだったからか、小黒は珍しく行きのバスで眠っていたけれど、着いたらぱっと目を覚まして元気に歩き出した。
 まずは上方山国家森林公園に行って、花見がてら散歩をする。爽やかな春の匂いが香る暖かい朝だ。他にも、家族連れの姿が目立つ。小黒はあちらこちらに飛び跳ねるように歩き回りながら、ずんずん先へと進んでいく。私と无限大人はその後をゆっくり歩いてついていく。朝、无限大人と顔を合わせるまで少し不安だったけれど、どうやら平静な心で向かい合うことができた。前回のように、顔も見られない状態では楽しく出かけるどころじゃないし、迷惑をかけてしまう。アピールするとかしないとか、そういうことは考えず、とにかくめいっぱい楽しもうと決めた。
「こちらって、新年度は九月からなんですよね」
 小黒の横をもっと小さな子が小さい足を一生懸命動かしながら、親に手を引かれて歩いているのを見て、ふと思う。
「日本は、四月なんです。だから、桜が咲くと、今までのものと別れて、新しい場所に向かうような、そんな気持ちになるんです」
 卒業式から入学式の間に、満開になる桜の下で記念写真を撮ったことを思い出す。小黒はいくつくらいだろうか。人間なら、小学校に入るくらいの年齢に見える。
「桜に背を押してもらって、別れの寂しい気持ちを優しく慰めてもらうような……だからちょっと、桜には特別な感傷、みたいなものがあります」
「そうか」
 先を行く小黒の背中を追って目を上げると、ちょうどその薄紅色の霞が見えてきた。
「あれ! 桜!?」
 小黒が歩きながら振り返って、訊ねる。
「そのようだ」
 无限大人は少し歩を速めて、小黒に追い付く。私も小走りでその後を追いかけた。
 桜の木の周りには、たくさんの人がいて、花を見上げたり、写真を撮ったり、楽しそうにしている。
「いっぱい咲いてる!」
 小黒が花に手を伸ばして跳ねるのを見て、无限大人は小黒を抱き上げ、花に近づけた。小黒は桜の花に目を閉じて鼻を近づける。猫の妖精だから、香りには敏感なのかな。
「すっごくいい香りだよ、小香」
 小黒が手で枝を引きよせ、私を呼ぶので、そっと近づくと、香りを嗅がせてくれた。
「ほんとだ。ほっとする匂い」
 ふと无限大人が顔を近づけてくる気配がして、なのに、動けなくて固まってしまう。私の顔の前にあった花に、彼が鼻を寄せてくる。近すぎて、吐息すら感じそうになる。睫毛の繊細な影すら細かに見えて、その奥で輝く瞳に目が吸い込まれた。
 薄紅色の中で、その色はあまりに透き通っていて、奥まで光が輝いていて、とても深くて、複雑な虹彩に囚われてしまう。
 瞳が動いて、私を映す。
 夢の光景が頭の中で広がった。
 ――いけない。
「あ! あっちは人が少ないですよ!」
 無理矢理声を出したのでひっくり返ってしまったけれど、なんとか写真を撮りましょう、まで言い切って、走り出す。これ以上近くにいたらどうにかなってしまいそうだった。危ない。振られる夢を見て、あんなにショックを受けたというのに、懲りずにまだ口にしそうになるなんて。
 无限大人は近くの人に声を掛けて、桜の前に並んだ私と小黒の隣に駆け寄ってくる。三人で撮った写真は、ちぐはぐに見えた。親子に見えたら――、なんて、ずうずうしい考えだ。
「小黒、ここに立って。うん、いい構図!」
 桜の前で笑う小黒をたくさん撮って、无限大人と小黒の二人も撮って、走り回って転んでしまい、ぱっと起き上がっておかしそうに笑う小黒と一緒に笑って、楽しい気持ちで覆い隠す。今は、何も考えないで。ただ、楽しもう。

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