36.微笑の気配

 夢の余韻は数日晴れなかった。実際に告白したわけじゃないのに、本当に振られてしまったような気分になってしまって、立ち直れない。夢でこうなるんじゃあ、本当に振られちゃったらもう生きていけない気がする。本当に、どうしてここまで思いつめちゃってるんだろう。初めは、見た目に引かれた。目を奪われて、胸が高鳴った。人柄を知るようになって、ますます好きになった。実際に言葉を交わせるようになって、どんどん想いが深まっていった。どこかで立ち止まれば、こうなる前にやめられたんだろうか。最初の出会い以降、もう会えない可能性の方が高かった。でも、何度も会うことができて、食事をして、二人で観光ができるなんて奇跡も叶ってしまった。こんなにも恵まれているのに、どうして諦めるなんてできるだろう。
 ただ見つめるだけじゃ足りない。
 見つめ返して欲しいと願ってしまっている。
 叶わないとしても、夢見ることは止められない。どこかで結末を恐れてる。それが、あの夢として現れたんだろう。
 今会ったら、平常心では向き合えないと思う。できることなら、会わずに済めばいい。そう思っているときほど、現実はうらはらだったりする。
「あ、小香!」
 館を歩いていると、小黒の元気な声が聞こえて、びくりと足を止めた。小黒がいるということは……。
「こちらにいたのか」
 駆け寄ってくる小黒の後ろから、无限大人が泰然として歩いてくる。私は思わず顔を逸らし、なるべく小黒だけ視界に入れるようにした。
「ど、どうも……」
 うまく挨拶することもできない。无限大人の姿を見るとあの顰めた眉を思い出してしまう。声を聞くと、すまないが、と不愉快そうに答えた音が耳に木霊する。あのときの胸の痛みが、まざまざと蘇ってきてしまう。私の想いは迷惑かもしれない。そう想像するだけで息苦しくなる。
「師父、小香に何かした?」
 私の態度はあまりにもあからさまで、小黒も何か感づいてしまったらしい。无限大人から顔を逸らす私に、小黒は訝し気に无限大人を見上げる。无限大人は困ったように言葉を詰まらせていた。ああ、彼は何も悪くないのに。
「した覚えはないが……」
「師父、ちゃんと謝っといたほうがいいよ」
「ち、違うのよ小黒。なんでもないの」
 私が否定しても、もう遅かった。
「師父は無神経なとこあるから」
「そんなことはない」
「無自覚になんかやっちゃったんでしょ」
「それは……」
 无限大人の視線がこちらに向けられたのを感じて、肩を竦めてしまう。
「私が何かして、いやな気持ちになったときは、教えて欲しい」
 その声音があまりにも真摯で、思わず目が吸い寄せられる。その瞳はまっすぐ私を映していた。
「私自身、気付かず君にいやな思いをさせてしまうことがあるかもしれない。それは申し訳ないから」
「无限大人……」
 優しい気遣いに、怯えていた心が落ち着いてくる。現実の无限大人の声が、恐ろしい夢を払拭してくれる。涙腺が潤んでしまって、慌てて気持ちを引き締める。
「いえ! そんなこと、ぜんぜんありません! 无限大人のしてくださることは全部」
 全部好きです、そう言いそうになって、なんとか口を抑える。
「全部……私にとっては、嬉しいことばかりですから」
 なんとか涙を堪えて、笑顔を作れた。
「今日はちょっと、前悪い夢を見たのを思い出して……ちょっと落ち込んでただけです。勘違いさせてごめんなさい」
「そうだったの?」
 小黒は気遣うように優しい声を出してくれる。
「怖い夢見ると不安になるよね」
 小黒は励ますように、私の手をぎゅっと握ってくれた。
「ありがとう、もう大丈夫だよ。二人に会ったら元気になった!」
「よかった!」
 小黒の手を握り返して、微笑みあう。无限大人も微笑んだ気配がした。

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