ホワイトデー2022

 お湯が沸いて、彼がガスコンロの火を止める。それを、椅子に座ったままなんとはなしに眺めている。彼は茶壺――日本で言う急須――にお湯を注ぐ。最初のお茶は捨てる。洗茶というそうだ。茶葉が開き始めてから注いだ二杯目の方が美味しいとか。今日淹れてくれる安渓鉄観音という茶葉は大きめに刻まれていて、これがお湯の中で開いていき、いい香りと味が出る。
「どうぞ」
 彼は二人分を注ぎ終わると椅子に座り、私の様子を見守った。お茶を飲むだけなのに、そんな風に見つめられると照れてしまう。
「いただきます……」
 ちょっと熱いので、少し冷ましてから一口飲む。
「ん……おいしい」
 緑茶とは違う、独特な風味があって、濃厚に感じる。
「この前の中国茶のお店で飲んだ夜来香っていうお茶とはまた違いますね」
「あれも同じ青茶だよ」
「そうなんですか? ずいぶん違うな……」
 お茶の種類にうといので、青茶と言われてもピンとこないけれど、烏龍茶の仲間らしい。レーズンとひまわりの種がお茶請けとして出されていて、特にレーズンの酸味と甘味が気に入って、お茶をどんどん飲んでしまう。
「飲みやすいですね」
「それはよかった」
 そう答えながら、彼もお茶を啜る。私の茶碗が空になると、お代わりを注いでくれた。同じ茶葉で四煎か五煎は飲めるそうだ。
 バレンタインデーのお返し、彼はいろいろ悩んでくれたようで、最終的に中国茶屋にまた行きたいと言っていた私の言葉を思い出し、だったらうちで飲めるように、と茶葉のセットとドライフルーツのお茶請けを用意してくれた。本当は、手作りの何かを贈りたかったようなのだけれど、気持ちはとても嬉しいのだけれど、それを受け止められる舌が私にはなかったので、折れてもらって、せめて自分の手で淹れたお茶を飲んでもらおうと、そういうことにしたみたい。
 彼も努力してくれていることはわかっているんだけれど、その努力がいつか実を結ぶ日が来るんだろうか……と、思ってしまう。
「こうしてお茶を飲んで、まったりできるのもいいですね」
 自分でそう言ってから、ふと以前の会話を思い出した。ロマンチックなことなんてなくても、こうしてあなたと二人でお茶を飲んでゆっくり過ごせたらそれでいいと。彼は自分にはロマンチックなことができないと言われたように感じたらしくて、その後とんでもない行動に出たわけだけれど……。あの日のコンサートのことは一生忘れない。未だに、正装の姿を思い出すと、動悸が激しくなってどうすればいいかわからなくなる。あれは素敵すぎた……。
「うん。やっぱりまったりできるのがいいです」
「? そうだな」
 あんな刺激的すぎることを毎日やられたんじゃ心臓が保たない。
 でも、刺激がなさすぎるのもマンネリになってよくないのかな?
 じーっと无限大人の顔を見つめると、彼もじっと見つめ返してきた。目を逸らす。私の負け。
「私もいつか、心臓が爆発しちゃうくらいのときめきを与えてみたい……」
 ぼそりと呟き、お茶を飲む。彼はよくわからないながらもはは、と笑い声をあげた。この人を、どうすればときめかせられるのか、いい案は浮かんでこないのだけれども。だって、あの日は私だっておめかししていたのに、綺麗だの一言だった。とても思いが込められた一言だということは伝わってきたけれど。无限大人も、私の半分くらいは、ときめいてくれていたのかな……。
「驚いて、頬を赤く染めて、何も言えないでいる君の表情はかわいいからな」
「な! 何を見てるんですか!」
 私が何を考えているのかなんとなく感づいたらしい彼はそんなことを言い出す。それだけで私は余裕がなくなってしまう。
「私も、あまりにかわいらしすぎる君の態度を見ると、何も言葉にできず、ただ見つめるだけになってしまうことがあるよ」
「そうでしたっけ……?」
 確かに、彼は、よく目を見てくれる。でも、それは誰に対してもそうというか、基本的にそういう性格をしているというか。人の目を見て話してくれる人なんじゃないかと思っている。彼の翡翠のような瞳に見つめられると、目が離せなくなって、心の奥底まで見抜かれてしまいそうで、すべてを受け入れてもらえるような、そんな気持ちになってしまう。彼は、私の目を見るとき、どんなことを感じるんだろう。
「君の唇の愛らしさ、頬の柔らかさ、睫毛の長さ、見つめる瞳に込められた愛情に、驚くことがある」
 カップを置いて、彼は穏やかな声でそんなことを言ってくれる。
「バレバレですよね……」
 好きという気持ちを隠して見つめるなんて不可能だ。どうしたって、そんな視線になってしまう。だって、見つめる先に彼がいるんだもの。
「私はとても愛されているんだなと思うと、とても満たされるよ」
 そんな風に言う彼の瞳の方がよほど愛に満ち溢れていて、私は包み込まれてしまう。
「だって、好きなんですもん……」
「うれしいね」
 言っておいて、恥ずかしくなって目を逸らし、お茶を啜る。その間にも、彼の暖かい視線を感じている。愛されているのは私の方が、よほど。
「おかわりは?」
「ください」
 まったりしていたはずなのに、おかしいな。頬が熱い。彼の傍にいると、こんなにも心は落ち着かなくて、でも安らいでる。もっとずっと一緒にいれば、无限大人の余裕が私にも移って、穏やかに瞳を見つめ返せるようになるのだろうか。
 ずっとずっと、一緒にいれたらいい。季節ごとに咲く花を見て、イベントを重ねて、もっと先まで。

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