梅の花を見に行く話

 初めての場所に向かうときは、少し緊張する。無事に辿り着けるだろうか。駅のホームで経由駅を何度も確認し、電車に乗り込む。无限大人とは途中の駅で合流して、一緒に目的地へ向かった。休日の、人の少ない時間帯。ゆったりと椅子に座って、窓の向こうを流れる初めて見る景色を見るともなしに見る。時折、彼が低い控えめな声で話しかけてくる。私も少し声を潜めて答える。沈黙の方が長かったけれど、それも心地よかった。
 ようやく目的の駅について、北口を降りる。そこにあるバス亭からバスに乗って移動するのだけれど、二つあるバス停はどちらも目的の方向とは違うものだった。
「あれ……ないですね」
「……南口だったか」
「そうかも!」
 私たちは急いで階段を昇り、反対側の出口に移動する。すると、ちょうどバスが発射するところだった。
「これでしたね……」
「次は……十五分後だ」
 仕方がないので、バス停に置かれたベンチに二人で腰かける。日差しが暖かかった。
「家出たときはイヤリングが取れそうなくらい風が強かったんですけど、こちらは穏やかですね。よかったです」
「つけていて、痛くないものか?」
 彼が手を伸ばしてきて、耳元に触れる。
「大丈夫ですよ」
 以前、彼に贈ってもらったものだ。とても気に入っていて、今日も着けてきた。それなりに歩くだろうと予想していたのでスカートはやめたけれど、少しでもかわいくしたい。しばらくしてバスが来たので、乗り込んで、公園の近くのバス停で降りる。住宅地の向こうが目的の公園だ。
「新しめの住宅が多いですね。静かで、いいところだな」
 駅前も綺麗だったし、住むのによさそうな環境に見える。
「あんなかわいい家、住んでみたいです」
 煙突のついた家があって、軽い気持ちでそんなことを口にする。
「家か。生家を出てから、定住してこなかったからな」
 彼はそんなことを呟く。流離の日々は、どんなものだったんだろう。
「いつか、私たちの家がほしいな……なんて。ちょっと思います……」
 これくらいの望みは口に出しても許されるだろうか。
 彼は微笑んで、そうだな、と家並みを見上げた。
「私たちと、小黒と、新しく増える家族のために」
「……はい」
 坂道に差し掛かると、公園が見えてきた。公園、と言っても森の中にある。森の横をぐるりと回り、ようやく入口に辿り着いた。
 敷地内に入ると、池があった。鴨が泳ぐ中、一羽の白鳥が紛れている。餌が欲しいのか、人間を怖がるどころか近寄ってきた。
 池の横を通り過ぎ、坂道を登って、開けたところに出るとそこが目的の梅林だった。
「わあ」
 最初に目についたのは紅色の梅が満開に咲いた木だった。広場には等間隔に、様々な種類の梅が植えられている。なんの花か、黄色い花をつけた木もあった。
「たくさん咲いてますね」
 白、赤、紅、薄紅、いろいろな色の梅が咲いている。さっそくカメラを手に持って、レンズを向けた。
「大人、ここに立ってください」
 无限大人を被写体に、たくさんシャッターを切る。彼は言われた通り木に寄り添うように立ってくれた。梅の花と彼の横顔が美しすぎて、カメラだけでなくこの瞳に焼きつけたいと強く願った。彼が着ているのはカジュアルなコートだけど、漢服のゆったりとした裾がはためいているような錯覚を受ける。ここで、二人で漢服を着て、梅の花に包まれたら、それはまるで夢のような光景だろう。
「君の写真も撮ってあげよう」
 彼は私からカメラを受け取ると、私に立ち位置を指示する。彼にレンズを向けられると、少し緊張してしまった。何度か撮っているうちに、彼は近くにいた、同じくカメラで梅の花を撮っていたおじいさんに声を掛けて、私のカメラを彼に渡す。なんだろう、と思っていたら彼がこっちに向かってきて、おじいさんは私たちにカメラを向けた。一緒に撮ってもらえるよう、頼んでくれたみたい。
「はい、撮りますよー」
 ぴしっと背筋を伸ばした私の肩に、彼が腕を回す。シャッター音がして、おじいさんが彼に、写真確認してください、とカメラを返した。
「ありがとうございます」
 二人でおじいさんにお礼を言って、ツーショット写真を確かめ、顔を見合わせて笑い合う。
「きれいに撮ってもらえたな」
「はい」
 私はカメラを返してもらうと、今度は梅の花だけで撮り始めた。時折雲が太陽を隠してしまうので、なかなか思った通りに撮れない。
「さっきまで晴れてたのにな」
「寒くはないか」
「平気です」
 とはいえ、もう少し厚いコートを着てきてもよかったかもしれない。動きにくいだろうからと、薄めのコートを選んでしまった。
 満足するまで撮り終えて、木の傍に置かれたベンチに二人で腰かけ、お茶を飲んで休憩した。
「ピンぼけしてる……」
 撮った写真をチェックして、失敗したものを消していく。でも、全体的にはなかなかよく撮れた気がする。
「こちらまで香りがくるね」
「そうですね」
 広場が梅の香りで満たされているみたい。花に酔うってこういうことなのかも、とふと思う。
「雲が増えて来たな。そろそろ行こうか」
 残念だけれど、天気がご機嫌ななめだ。
「展望台に寄ってきましょう」
 梅林のすぐ先に展望台があったので、そこへ足を向けた。展望台からは、どこまでも平らな地平線が臨めた。
「何もないなぁ」
 田んぼの向こうに、小さく建物が集まっている。それ以外は平野と、森が広がっている。都会にいると、なかなか見られない景色だ。
 ふと、背筋を寒気がのぼってきて、くしゃみが出た。彼はさするように肩に腕を回した。
「帰ろうか」
「はい」
 もう日が傾き始めている。暗くなる前には帰れるといいけれど。もと来た道を戻って、公園を出て、坂道を上る。
「なんだか、私たちって、急展開でしたよね」
 こうなるまでのことをなんとなく思い出して、笑い混じりにそう告げると、そうだろうか、と彼は首を傾げた。
「自然な流れだったと思うが」
「そう……ですか……?」
 想いが通じ合ってから、指輪を交換するまで実は二週間も経っていなかったりする。
「だって私は、初めからそのつもりで想いを告げたからね」
「うっ……」
「添い遂げるつもりで、という意味だよ」
「わざわざ言い直さなくても……大丈夫です……」
 耳まで真っ赤になってしまった。彼はもごもご答える私に朗らかな笑い声を立てる。
「君も、恋人ではなく、そうしたいと思ってくれていただろう?」
「……はい……」
「嬉しかったよ。同じ思いだと知れた時は」
「……私もです」
 そんな話をしていたら、身体中が熱くなって、寒さも疲れもどこかへ吹き飛んでしまった。
 バスに乗って、駅へ戻り、電車に乗る。あとは帰るだけだ、と思うと安心したせいか、眠気が襲ってきた。起きていたいのに、つい、うつらうつらとしてしまう。
「眠い?」
「……少し……」
「こちらに寄りかかりなさい。少し眠るといい」
「でも……」
 駅についたらもうお別れの時間になってしまう。彼は腕を伸ばして、私の頭を優しく自分の肩の方へ引き寄せた。
「これで少しは楽だろう」
「ありがとうございます……」
 こうなったら甘えるしかない。彼の肩に頬を押し付けて、目を閉じる。電車の揺れが、彼の身体を通じて伝わってくる。それが心地よくて、少し眠ってしまった。
 終点に着く少し前に目が覚めた。彼が手を握っていてくれたことに気付く。
「もうすぐ着くよ」
 彼は私の顔を覗き込んで、前髪を整えてくれる。最後に、指がイヤリングをさらりと揺らした。
 電車が速度を落とし、完全に止まる。ドアが開き、人々が下りていく。私たちもその波に乗って、階段を上がる。改札の前まで一緒に行って、立ち止まった。
「では、また連絡するよ」
「はい」
「気を付けて。もう眠ってはだめだよ。私がいるときじゃないと」
「はい」
 彼がいてくれたから、安心して眠れたんだ。軽く手を振り、改札を抜けていく彼を見送る。彼の姿が人ごみに紛れてしまうまでそこにいた。ふうと息を吐いて、帰りの電車が停車する5番ホームへ向かった。
 隣にもう、彼がいない。この手を握ってくれる人がいない。寄りかかれる肩がない。ただ風が通り過ぎていくだけ。
 一緒にいる時間が楽しいからこそ、一人が沁みる。
 いつか家を買って、昼間は家事をして、夜は彼が帰ってくるのを小黒と待つ。そんな未来があるのかもしれない。いつしか一緒にいるのが当たり前になって、寂しいと思う暇すらなくなったなら。
 切なく彼を思う夜があったことを、懐かしく思い出す日も来るのだろうか。
 いまはまだこれでいい。心は繋がっているから。それが感じられるから。離れている時間には、彼への想いをどこまでも膨らませて、再び出会った時に思いっきり包み込んであげたい。そして思いっきり、抱きしめてほしい。もう、次に会える日が楽しみで待ちきれなくなっている。
 无限大人。我想念二。

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