97.大好きが溢れる

 前の家はここを発つときに引き払ってしまったので、また新たなアパートをこの市の中で探して契約した。前の家とあまり変わらないけれど、少し職場に近くなった。无限大人を迎えにいくため、家を出て、駅に向かう。ちょうどいい位置に駅があったので、待ち合わせ場所に決めた。どきどきしながらそこへ向かう。もう何度もここで待ち合わせをして、いろんな場所に行った。そのたびに、少しずつ、少しずつ距離を縮めていった。それは思い込みだけじゃなくて、无限大人の心が、実際に私に近づいてきていた。もしかしたら、と願ってはいたけれど、確信は持てなくて、きっとこの気持ちは叶わないだろうと思っていた。一度は、実際、叶わない現実に直面した。でも、それでも気持ちは変わらなかった。変えられなかった。日本にいれば気楽だけど落ち着かなくて、あの地に戻りたくなった。戻ってきてよかった。私の行動が无限大人の心を動かした、と思ってもいいんだろうか。私が戻らなかったら、きっと无限大人は何も言ってはくれなかっただろう。それは无限大人の優しさで、私よりずっと長く生きている彼の深い考えがあってのことだったと思う。今は気持ちが通じたという事実を受け入れるだけでいっぱいいっぱいで、何かを考える余裕がない。ただただ嬉しくて、幸せで、天にも昇る気持ちでいっぱいだ。
 駅にはまだ彼は来ていなかった。辺りを見渡しながら、端末に通知が来ていないかもチェックする。まだ約束の時間の十分前だった。少し早く来すぎたかもしれない。无限大人が来るまで、一分が経つのすら長くてじれったくなる。无限大人が現れたら、なんて言おう。お久しぶりです、会いたかったです、あのとき言った気持ちは、本当ですか? 疑っているわけではないけれど、夢みたいで信じられなくて、そう訊ねてしまいたくなる自分がいる。ここで、待ち合わせている事実がまさしく証拠ではあるのだけれど。
 无限大人、本当に来てくれるかな。うちに呼んでしまったけれど、退屈したりしないかな。料理、うまくできるかな。心の中ではいろいろな想いが渦巻いていたけれど、人ごみの中から姿を現した人を見て、一瞬で心が一色に染まってしまった。
「小香」
「无限大人……!」
 思わず駆け寄って、目の前で思いとどまって立ち止まる。いけない、気持ちのまま勢いで飛び出してしまった。无限大人はちょっと目を丸くしてから、にこりと笑った。
「待たせてしまったな」
「いえ……! ちょっと早く来すぎちゃいました」
 髪がおかしくないか、服はへんじゃないか、あちこち引っ張って確かめる。ああ、无限大人だ。今、目の前にいる。夢じゃない。
「あの、今日は、来てくれてありがとうございます」
「こちらこそ、招待いただき感謝する」
「たいしたところではないですけど……あの、行きましょう」
 なんだか事前に考えていたとおりにはいかなかったけれど、とにかく喋るだけで精いっぱいで、何を言えばいいのかなんて何も思い浮かばない。とにかく歩き出すと、无限大人がゆっくりと後をついてきてくれた。こっちです、と道案内をしながら歩く。无限大人は隣に並んで、悠々とついてくる。何か話したいけれど、うまく言葉にならない。
「引っ越してから、荷物を片付けるのに時間がかかっちゃって。最近ようやく段ボールを捨てられました」
 なので、どうでもいい近況の話などしてしまった。
「長く住むつもりで来たので、前回よりも荷物が多くなっちゃって」
「君がこちらに来てくれて、本当に嬉しいよ」
 何気なく、でも心を込めてそう言ってくれるので、心臓が爆発しそうになった。
「だって、大好きですから……! この街も、その、无限大人の、ことも……」
 もう隠さなくていいんだ、と思うと、気持ちが溢れてすぐ言葉になってしまったけれど、口にしてから恥ずかしさに真っ赤になってしまった。こんな街中で、何を言っているんだろう、私!
「ふふ、そうか」
 无限大人は嬉しそうに笑って、肩を揺らす。ああ、もう一度この笑い声が聞けるなんて。
「よかったです、戻ってきて……」
 おばあちゃんに話を聞いてもらって、気持ちを整理して、本当の願いに気付けた。私の希望を快く受け入れてくれた日本の上司にも、楊さんにも、同僚たちにも、両親にも、感謝してもしきれない。
「君がいない間、とても寂しかったよ」
 无限大人は私の顔を眺めながら、そう言った。きゅんと胸が疼いて、苦しいくらいに嬉しくなってしまう。
「私が言えることではないが」
 申し訳なさそうに眉を下げるので、いいえ、と声を大きくする。
「私が覚悟が足りなかったんです。无限大人に、気持ちを受け止めてもらえる覚悟が……。でも、こうして、受け止めてもらえたから」
 だからいいんです、と心から伝えることができた。无限大人は目を細めて、微笑んだ。

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