96.甘い声

 端末を手に握って、液晶画面を見つめ、そこから動けなくなる。いままで、どうやって電話を掛けていたっけ。无限大人の番号を選んで、通話を押して、呼び出し音を聞いて、相手が電話口に出たらもしもし、と声を掛けて――。
 耳元で聞こえた无限大人の声を思い出してしまい、どきりとする。だめだ。心臓がどきどきしっぱなしで、緊張しすぎて声が出ない。どうしよう。いままでだって、何度も連絡してきたのに。こういう関係になってからは初めてだということを意識してしまうと、だめだった。なんて声を掛けたらいいんだろう。いままで通りでいいんだろうけれど。へんに意識するからだめなんだ。いつもどおり。いつもどおり。
 深呼吸を繰り返して、覚悟を決めて、液晶に向き直ったら突然画面が呼び出し中に変わり、端末が振動した。驚いて端末を取り落としそうになりながら電話に出る。
『小香か』
「はっ、はい!」
 名前を呼んだのは今まさしく連絡しようと思っていた相手で、返事をする声が裏返ってしまった。
「无限大人、ですか……」
 わかっているのに、何を言えばいいかわからなくて訊ね返す。電話の向こうで笑う気配がした。
『そうだ。しばらく連絡できなくてすまなかった』
「いえ! ぜんぜん、お忙しいでしょうから」
『実は、今度休みができたんだ』
「ほ、本当ですか!」
 妙に体に力が入ってしまい、返事の声が大きくなってしまう。
『うん。だから、また二人ででかけないかと誘いに連絡した』
「あ、ありがとうございます」
 謎にお礼を言ってしまった。ああ、変なやつだって笑われてるかも。
「う、嬉しいです……。お誘いいただけたのも、連絡くださったのも……」
『もちろん、するよ。君に会いたいから』
「……っ!!」
 もう何も言葉にならなかった。なんて優しい、甘い声なんだろう。足から力が抜けて、座り込んでしまいそうだった。
「私も、会いたい、です……」
 黙ったままではへんに思われてしまうから、なんとか声を絞り出す。无限大人はまた笑った。
『どこか、行きたいところはある?』
「そうですね……」
 无限大人と二人で過ごせるなら、どこでもいい。
「あ、それならうちにご招待したいです。引っ越したので……」
『そうか。では、君のうちで』
「はい!」
『ああ、それならひとつ、頼みたいことがあるんだが』
「なんですか?」
『小黒に何か作ってやりたいんだが、私ひとりだとうまくいかなくてな。手伝ってほしい』
「ふふ。わかりました。じゃあ、お料理しましょう」
『うん。よろしく頼む』
 何をするかも決まって、ふと会話が途切れる。でも、通話を切るのが惜しかった。電話の向こうで、无限大人も余韻を感じてくれているのが伝わってくる。
『……では、切るよ』
「……はい」
『会ったら、たくさん話そう』
「はい。たくさん、話したいです」
『うん。楽しみだ』
「私も楽しみです……」
『では』
「はい。また……」
『また』
 そこで、通話が切れた。顔を上げて、噛みしめる。ちゃんと、話せた。久しぶりに聞く声はとても優しくて、甘くさえあった気がする。本当は、ずっと寂しかった。もしかしたら、夢だったかもしれないって不安も少し過ぎった。でも、あの空を飛んだ感覚はちゃんと身体に残っていて、抱きしめられた温もりもちゃんと覚えていた。
 夢じゃない。これは現実なんだ。
 无限大人に私の想いが通じて、无限大人も私に想いを返してくれた。
「无限大人……」
 端末を胸に当てて、余韻を胸いっぱいに吸い込む。早く会いたいな。

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