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「……師父、聞いてる?」 「ああ」 小黒が何か言ってくるので返事をする。しかし小黒は怪訝な顔のままだった。 「絶対聞いてないじゃん」 「聞いていたよ」 「じゃあ、言ってみて。ぼくがなんて言ってたか」 「……お腹が空いた?」 「やっぱり聞いてない!」 ぷん、として小黒の頬が膨らむ。確かに、聞いていなかったらしい。初めはちゃんと聞いていたはずだが、途中から意識が別の方向へ向いてしまった。近頃、どうも調子がよくない。身体は問題ないが、心の方がぼんやりとしている。 彼女とは、あれから顔を合わせることなく、楊から日本に帰ったことを聞かされた。これでよかったんだ、と思おうとしたが、うまく行かなかった。彼女の泣き顔ばかりが思い浮かんでくる。泣かせてしまった。私のせいだ。彼女を傷つけてしまった。そのことばかりがぐるぐると、胸の中で渦巻いていて消えてはくれない。 わかっていたはずだった。彼女はいつかいなくなる人だと。 だから、せめて一緒にいられる間は、その時間を大切にしようと振る舞ってきたつもりだった。一緒に過ごすうちに、いつしか思いは大きくなっていっていたのに、それに気付かず、向き合おうとしていなかった。覚悟ができていなかったのは私の方だ。まだ時間はあると、先延ばしにして、答えを出していなかった。彼女は帰るべきだったと、その思いは今でも変わらない。そのとおりになったのに、この胸の靄はなんだろう。彼女が帰ってもう一ヶ月も経つのに、一向に晴れる気配がない。 「師父、最近元気ないね」 「そうか?」 「何か考えてるの?」 「そうだな……」 私の膝に肘をついて頬杖をする小黒の頭をなんとはなしに撫でる。ふわふわとした髪が指の中で弾んだ。 「小香、元気かな」 その名前を聞いてどきりとした。小黒は私の胸中を知らないはずだ。この子も寂しいのだ。毎月のように彼女と遊んでいたから。 「なんで帰っちゃったんだろうね。こっちにいるの、楽しいって言ってたのに」 「彼女には、戻るべき場所があるからね」 「小香のおうちは日本だもんね……」 小黒もそれは理解できるようだった。ぱっと立ち上がると、部屋から大きな本を抱えて戻ってきた。 「ねえ、アルバム見ようよ!」 それは彼女が作ってくれたものだった。届いてから、一度しか見ていない。それも、確認する程度で、しっかりとは見られていなかった。 「動物園、楽しかったね」 一ページ一ページ、彼女との思い出に溢れていて、直視することができなかった。 「……師父、すごく悲しそうな顔してる」 気が付けば、小黒が私の顔を覗き込んでいた。そうだ。私は悲しい。彼女と離れてしまったことが。彼女を、傷つけてしまったことが。 「ねえ、小香は、師父のことが好きなんだよ」 小黒の言葉に、鼓動が止まる。 「内緒にしてねって言われたの。でも、どうして言わなかったんだろう」 「……私が、言わないでほしかったんだ」 「どうして?」 小黒はぱっと立ち上がって、私を非難するような目で見る。 「師父だって小香のこと好きなのに! 小香、帰っちゃったよ!」 「……だから、もう言えないよ」 「師父のばか!」 小黒はアルバムを抱えて、奥の部屋に引っ込んでしまった。背もたれに背を預け、息を吐く。彼女は、私を好きだった。気付かないはずがない。あんなに、熱心な瞳で見つめてくれていたのに。私はその思いに応えてやれなかった。彼女にとっていいことではないと思ったから。彼女は日本に帰るべきだと信じていたから。それは間違いではないと思っている。でも、本当にその道しかなかっただろうか。彼女にとって、私にとって、小黒にとって。 一番いい道は、どれだろう。 ← | → |