91.消えない悲しみ

「……師父、聞いてる?」
「ああ」
 小黒が何か言ってくるので返事をする。しかし小黒は怪訝な顔のままだった。
「絶対聞いてないじゃん」
「聞いていたよ」
「じゃあ、言ってみて。ぼくがなんて言ってたか」
「……お腹が空いた?」
「やっぱり聞いてない!」
 ぷん、として小黒の頬が膨らむ。確かに、聞いていなかったらしい。初めはちゃんと聞いていたはずだが、途中から意識が別の方向へ向いてしまった。近頃、どうも調子がよくない。身体は問題ないが、心の方がぼんやりとしている。
 彼女とは、あれから顔を合わせることなく、楊から日本に帰ったことを聞かされた。これでよかったんだ、と思おうとしたが、うまく行かなかった。彼女の泣き顔ばかりが思い浮かんでくる。泣かせてしまった。私のせいだ。彼女を傷つけてしまった。そのことばかりがぐるぐると、胸の中で渦巻いていて消えてはくれない。
 わかっていたはずだった。彼女はいつかいなくなる人だと。
 だから、せめて一緒にいられる間は、その時間を大切にしようと振る舞ってきたつもりだった。一緒に過ごすうちに、いつしか思いは大きくなっていっていたのに、それに気付かず、向き合おうとしていなかった。覚悟ができていなかったのは私の方だ。まだ時間はあると、先延ばしにして、答えを出していなかった。彼女は帰るべきだったと、その思いは今でも変わらない。そのとおりになったのに、この胸の靄はなんだろう。彼女が帰ってもう一ヶ月も経つのに、一向に晴れる気配がない。
「師父、最近元気ないね」
「そうか?」
「何か考えてるの?」
「そうだな……」
 私の膝に肘をついて頬杖をする小黒の頭をなんとはなしに撫でる。ふわふわとした髪が指の中で弾んだ。
「小香、元気かな」
 その名前を聞いてどきりとした。小黒は私の胸中を知らないはずだ。この子も寂しいのだ。毎月のように彼女と遊んでいたから。
「なんで帰っちゃったんだろうね。こっちにいるの、楽しいって言ってたのに」
「彼女には、戻るべき場所があるからね」
「小香のおうちは日本だもんね……」
 小黒もそれは理解できるようだった。ぱっと立ち上がると、部屋から大きな本を抱えて戻ってきた。
「ねえ、アルバム見ようよ!」
 それは彼女が作ってくれたものだった。届いてから、一度しか見ていない。それも、確認する程度で、しっかりとは見られていなかった。
「動物園、楽しかったね」
 一ページ一ページ、彼女との思い出に溢れていて、直視することができなかった。
「……師父、すごく悲しそうな顔してる」
 気が付けば、小黒が私の顔を覗き込んでいた。そうだ。私は悲しい。彼女と離れてしまったことが。彼女を、傷つけてしまったことが。
「ねえ、小香は、師父のことが好きなんだよ」
 小黒の言葉に、鼓動が止まる。
「内緒にしてねって言われたの。でも、どうして言わなかったんだろう」
「……私が、言わないでほしかったんだ」
「どうして?」
 小黒はぱっと立ち上がって、私を非難するような目で見る。
「師父だって小香のこと好きなのに! 小香、帰っちゃったよ!」
「……だから、もう言えないよ」
「師父のばか!」
 小黒はアルバムを抱えて、奥の部屋に引っ込んでしまった。背もたれに背を預け、息を吐く。彼女は、私を好きだった。気付かないはずがない。あんなに、熱心な瞳で見つめてくれていたのに。私はその思いに応えてやれなかった。彼女にとっていいことではないと思ったから。彼女は日本に帰るべきだと信じていたから。それは間違いではないと思っている。でも、本当にその道しかなかっただろうか。彼女にとって、私にとって、小黒にとって。
 一番いい道は、どれだろう。

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