90.後悔

 二人で出かける、と決めたものの、どこへ行くかまでは考えていなかった。彼女の行きたいところへ行きたいと思っていたから。任せてみると、彼女はショッピングモールを提案した。彼女は最初は遠慮気味だったけれど、次第に楽しそうにウィンドショッピングをし始めた。彼女が手に取るものを見て、こういうものが好きなのかと眺めていた。ふと、彼女の表情が疲れているように見えて、カフェで休憩しようと誘った。そこで渡そうと決めていたものを懐から取り出す。彼女はそれがプレゼントだとすぐに気付かなかったようで、不思議そうに箱を眺めていた顔を思い出すとおかしくなる。確かに、少々唐突ではあったかもしれない。けれど、任務先に立ち寄った店でこの髪留めを見たとき、彼女の顔が浮かんだ。きっと似合うだろうと思ったらすぐにそれを購入していた。受け取った時、どんな顔をするだろうかと楽しみだった。
「任務先でも、私のことを考えてくれたんですか?」
 彼女はとても感激した様子で、そう訊ねた。そうだよと答えると頬が赤く染まり、とても可愛らしかった。気に入ってもらえてよかった、とほっとした。しかし彼女はただ受け取るだけでは申し訳ないと、私にお返しをしてくれると譲らなかった。すぐには欲しいものが思い浮かばず、店を周りながら考えることになった。何がいいだろう、と悩みながら店先を見ていたとき、彼女が手に取った翡翠の腕輪が目に留まった。
「いらないですよね」
「いや、それがいい」
 彼女が選んでくれたものだと思うと、一目で気に入った。
 彼女は家族に私のことを話したことを教えてくれた。彼女の両親が私のことを知っているのは、少し不思議な気がした。だが、好印象でほっとした。同時に、彼女の家族は海を挟んだ向こう側にいるのだと思うと、彼女の居場所は向こうにあるのだと思わざるを得なかった。私が望んだとしても、それは彼女の迷惑になってしまうだろう。だから、引き留めてはいけない。改めて、そう思った。
 その後、約束通り小黒も連れて三人で川へ涼みに行った。
「着けてきてくれたんだな」
「はい。あ……无限大人も」
 髪留めはやはり彼女のためにあつらえたのかと思うくらいよく似合っていた。私も彼女のくれた腕輪を付けていると、心が安らいだ。
「家庭を持つって、考えたことなかったんです」
 ぽつりと、彼女が呟いたことに、どきりとする。家庭。久しく考えていなかったことだ。私とはもう、縁遠いものだと思っていた。けれど、近頃意識するようになってしまった。もし、彼女が――。
 小黒と彼女はこそこそと、私には聞こえないように話していて、気になった。私には聞かせられない話なのか。彼女はなんでもないと誤魔化して、川辺を歩こうと誘った。川から吹くさわやかな風に
柳の葉と彼女の髪、服の裾が揺れて、一服の画のようだった。やはり漢服姿の彼女は別格だ。長く繊細な襞が幾重にも連なる生地の下に細い体の線が見え隠れし、歩くたび裾が翻って、爪先がちらりと見える。それに目を奪われてしまった。
 楠渓江では、竹の舟に乗ることになった。彼女は緊張気味に舟に足を乗せた。ひっくり返らないかとはらはらしているらしい。隣に座って、心持ちこちらに身を寄せてきているのが可愛らしかった。舟が揺れたときには、たまらずに手を握ってきた。それで彼女が安心できるなら、いくらでも握ろうと思った。少し慣れてきたのか、途中から彼女も景色を見る余裕ができたようだった。
 彼女がアルバムを作りたいと言った時、いいアイディアだと感じた。小黒が一緒に写真を選びたいと言って、また彼女の家を訪ねることになった。玄関を開けると、カレーのいい匂いがしてきた。空腹を感じたが、それは夕飯に用意されたものだったので、我慢して写真を選ぶことに集中した。たくさんの写真がパソコンに保存されていた。改めて、こんなにいろいろな場所に行ったのだと思うと感慨深かった。どこのことも、よく覚えている。写真を見れば、今後記憶が薄れることがあってもまた思い出せるだろう。
 あそこに行った、ここに行ったと話しているうちにすっかり日が暮れて、夕飯の時間になった。カレーを食べて、やはりこの味だと思った。店で出されたものと、風味が違う。これをうちでも作れるようになれれば今後も食べられる、と思いレシピを聞こうとしたが、小黒に強く止められてしまった。カレーは一度彼女と一緒に作ったから、私にも作れると思うのだが、しぶしぶ諦めた。
 小黒もたくさん食べたから、鍋は空っぽになってしまった。せめて洗い物くらいはしようと食器洗いを申し出た。その間、小黒と彼女で何かを話していたようだが、教えてはくれなかった。二人して内緒、と言うので、余計に気になったけれど、聞かずにおいた。
 任務にかまけて、必要な書類を揃えることを先延ばしにしていた。いよいよ期限が迫っていることに気付いて、書類の山を前に呆然としてしまった。毎年のことではあるが、年に一度なので何をすべきか覚えていられない。しかも、小黒の分まで増えてしまった。ふと、彼女の顔が浮かんだ。そうだ、彼女ならこういうことに詳しいだろう、とさっそく連絡を取った。彼女も忙しいだろうに、快く手伝いを申し出てくれた。
 ホテルに彼女を招き、書類を見てもらう。案の定必要なものが足りなかったが、彼女は抜かりなく書類を用意してくれていて、あっという間に片付いた。てきぱきと書類を片付けていく彼女の顔は仕事中の顔で、凛々しかった。
 お礼にルームサービスを頼むことにした。彼女は食事が届くまで、少し居心地悪そうにそわそわしていた。確かに、この場所は少しまずかったかもしれない、といまさら気付く。深く考えずに彼女を呼んだが、男とホテルの一室に二人きり、となったら気まずいだろう。考えが及ばなかった。反省しているうちに紅茶とコーヒー、ケーキが届く。彼女は美味しそうにケーキを頬張った。その頬にクリームがついているのを見て、つい笑ってしまった。指で拭ったら彼女は驚き、子供扱いしていないかと怒った。それがますます可愛らしくて、頬が緩む。
「歳の差が気になる?」
「気に、なります……」
「そうか。でも、私は対等に付き合ってきたつもりだよ」
「……対等に……」
 彼女からすれば、私ははるかに年上だ。けれど、それをあまり意識したことはなかった。彼女は一人の大人の女性だ。かわいらしくはあるけれど、けして侮っているわけではない。
 小黒を館に迎えに行くついでに、彼女を家まで送ることにした。彼女は、なぜ初めに食事に誘った時、受けてくれたのかと訊ねた。ずっと気になっていたようだ。はっきりと理由は覚えていない。楊に紹介されて印象に残っていた。妖精に怒られながらも、真摯に受け止め、耐えていた姿が心に焼き付いた。どんな人なのだろう。そう興味を持って、誘いを受けた。そして、結果、彼女のことをたくさん知れた。もう抱かないだろうと思っていた思いを、呼び起こされることになるとは思わなかったが。
「私が帰ったら、小黒寂しがってくれるかな……」
「それはもちろん、寂しがるに決まっているだろう」
「私も……寂しいです……」
 私も寂しいよ、とは言えなかった。彼女は日本に帰るべきだと思うから。私の言葉が、彼女を縛ってはいけない。適度な距離を保つべきだ。もう、遅いかもしれないけれど。
「私の居場所は……」
 ここではない。君には帰るべき場所がある。そう、知っていたはずなのに。
 話がある、と彼女から電話が来たときは、どきりとした。何かを決意したかのような声が、ざわりと肌を撫でる。私はその決意を、受け止められるだろうか。
「ありがとうございました」
 彼女は何度もお礼を言った。礼を言うのはこちらの方だ。彼女にはたくさんのものをもらった。感謝してもしきれない。
 話しているうちに、彼女の目が潤み、視線が熱っぽくなる。頬が上気して、その瞳に吸い込まれてしまいそうだった。
「だから……私は……っ」
 上擦った声が、伝えたい想いを先走りそうになりながら口が動く。その先を聞きたい想いと、聞いてはいけないという理性が鬩ぎ合った。
「もっと、あなたと……過ごせたら……って」
 だめだ、と目を伏せる。決めただろう、彼女は帰るべきだと。
「……もう、君は十分学んだよ。向こうで、こちらでの経験を活かして欲しい」
 だから、突き放した。できるだけ優しく、傷つけないように。それでも、彼女の目から溢れた涙を見て、私は間違えた、と気付いた。
 だが、もう遅い。

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