第三十六話 揺



 無限は三人分の粥と肉包が乗った盆を持ってナマエの部屋を訪れた。無限の手作り、ではなく、館の食堂で振る舞われる朝食だ。洛竹が仕事を再開したので、今は紅泉と交代でナマエの世話をしている。片手で盆を持ち、「ナマエ、戻ったよ」と声を掛けながら戸を開け、中へ入るとナマエと一緒に待っていた小黒が駆け寄ってきて出迎えた。
「師匠! ぼく持つよ!」
「零さないように」
 慎重に小黒に盆を手渡すと、小黒は両手でしっかりとそれを抱え、少しふらっとしながらも卓子まで歩いていった。
「ナマエ、はい!」
 そして、盆を卓子の上に置き、ナマエの前に椀と匙を置いた。
「ありがとう、小黒」
 ナマエは片手で椀を自分の方に引き寄せ、匙を取ろうとしたが、無限に取り上げられてしまった。
「えっ……?」
「私が」
 無限は椅子をナマエの右隣に移動すると、匙を構えた。
「いただきまーす」
 小黒は二人に構わずさっそく肉包にかぶりつく。まだろくに噛まないうちに粥も掬って口の中に放り込んだ。熱々で出汁が効いていてとても美味しい。
「む、無限様」
 ナマエは匙を構える無限に及び腰になって、左手を口の前に持っていく。
 無限は粥を一匙掬うと、ナマエの口元へ向けた。
「ほら」
「いえ……あの……」
 ナマエは無限の行動に戸惑って、おろおろと手を口元にやったり遮るように前に出したりするが、無限の方は構わず匙を伸ばしてくる。
「もう少し冷ますか?」
「いえ、大丈夫です……あの、私……より、無限様、先にお食べになって……」
 冷めてしまいますわ、と付け加えたが、無限はもとよりそんなことは承知でナマエの隣に腰を下ろしたらしい。気にするなと微笑まれてしまった。
 無限が片手しか使えないナマエのことを気遣って、食事を手伝ってくれようとしていることはわかる。しかし、小黒の手前もあるし、無限ともあろう人にそのようなことをさせることはどうにも抵抗があった。
「私……自分で、食べますので……」
「無理をするな。頼っていいと言っただろう」
 あくまで無限は笑顔だ。どこか楽しそうにすら見える。余計にナマエは困ってしまう。どうすればこの状況を回避できるかわからなくなる。そう、できれば回避したい。無限の手ずからご飯を食べさせてもらうなどという恐れ多い事態を。
「こんなこと、無限様にさせられませんわ」
「たいしたことじゃない。しかし……私ではいやか……?」
 どうしても食べようとしないナマエに、無限はしだいにしゅんとして匙を下ろしてしまった。ナマエは少しほっとしたが、それ以上に申し訳なさが募ってきた。
「いやというわけでは……。ですが、もったいないですわ」
「洛竹や紫羅蘭にはしてもらっていたのに」
「あの子たちは……弟と、お友達ですもの……」
「私は?」
 無限は一歩も引かず、ずいと顔を寄せてくる。
 ナマエはひゃ、と少し身を引いた。
「お、恩人ですわ」
「むう」
 眉根を寄せ、口を尖らせ、無限はすっかりむくれてしまった。ナマエは嫌とかそういうことではないのだけれど……と思うのだが、どうもうまく伝わらない。
 無限の顔が近づいてくると、あの夜の熱い視線を思い出してしまって、どうも平静でいられなくなるのだ。
 いままでは、何も意識せずに自然と付き合えていたのに。
 いったいどうしてしまったのだろう、とナマエは不安になる。
 無限のことが嫌いになったわけではない。なのに、目を合わせるのが気恥ずかしい。見られていると思うと、落ち着かなくなる。
 だから、こんなに近くに座って、手ずからご飯を食べさせてもらうなんて、どんな顔で受け止めればいいのかわからなかった。
「すみません……」
 言葉に詰まって、ナマエは謝罪を零す。
「謝らなくていい。私も無理強いしすぎた」
 無限は慌てて表情を変え、そう言って遮った。そんなやりとりをよそに肉包を食べ終わった小黒は、おもむろに椅子の上に立ち上がると、卓子の上に置かれた匙を手に取って、ナマエの口元へ運んだ。
「じゃあ、ぼくが食べさせてあげるよ!」
 にこにことして最高の案だとでもいうように自信たっぷりの小黒を、ナマエと無限はぽかんとして見る。そして、声を出して笑った。
「まあ、ありがとう小黒」
「食べるのが早いな。よく噛んだか?」
「うん!」
 元気に答える小黒の手が揺れて、粥が零れそうになるので、ナマエは急いで口で受け取った。それを見て、小黒は嬉しそうに肩を揺らす。
「えへへ、今日はぼくがナマエのお世話する番!」
「それじゃあ、お願いしようかしら」
 ナマエはそっと無限を窺う。無限は苦笑してそうしてくれと首を振った。どうして己のことをここまで受け入れてくれないのかは気がかりだが、いやがるのを無理強いするものでもない。
 ナマエはなんとか事態を回避することができて安堵しながら、小黒に食べさせてもらう粥を味わった。



 ナマエはゆっくりと外廊を歩いていた。
 昼食を摂ったあと、散歩をしたくなり、一人館を当て所なく歩いていた。無限は小黒を連れて修行をしているはずだ。無限がいる間は、ずっと頭がぼうっとしていた気がする。冷たい空気に触れたくなった。
 やはり、おかしいと思う。
 無限に対して、今まで通り普通に接することができない。
 瑞英が無限を倒すと言って、ナマエに襲い掛かってきたとき、頭が怒りにいっぱいになって、無我夢中だった。すべてが終わって、元気な無限の顔を見たとき、とても安心して、この人を守らねばと強く思った。
 無限はナマエのことを好きだと、特別だと言ってくれる。
 それはとても嬉しいことだ。
 無限はナマエが知っているどの人間とも違う。誰よりも強く、誰よりも優しい。落ち着いた声を聞いていると安心できるし、すっと伸びた背筋は逞しく、頼もしい。人間と妖精の間で働き続けている姿勢は尊敬している。そんな無限のことを、ナマエも好ましく思っている。だからこそ、彼が自分に何かを求めているなら、応えたいと強く思う。わからないことなら、きちんとわかるようになりたい。
 それが彼への誠意であると思うし、ナマエにできることだ。
 そう思うのだが、あの視線を向けられるとわからなくなってしまう。
 自分がどんな顔でそれを受け止めればいいのか、わからない。
 微笑もうと思うのだが、その前に恥ずかしくなってしまって、目を逸らしてしまう。顔を合わせるのがつらいだなんて、誰かに対してそんな失礼なことを思うのは初めてで、戸惑うばかりだった。
 無限に対する自分の中の何かが、変わってしまった。そう感じる。
 だが、何が変わってしまったのだろう。
 好き、ということについて、考えすぎてしまっているのだろうか。
「ナマエさん」
 欄干に手を置いて考え込んでしまっていた。背後から名前を呼ばれて、ナマエははっとして顔を上げる。
「大爽さん」
 振り返ると、そこにいたのは執行人の一人の大爽だった。大爽はナマエを驚かせてしまったか、と申し訳なさそうに頭を掻いた。
「すみません」
「いえ、お休みですか?」
「はい、ちょっと休憩に」
 遠慮してそれ以上は近づいてこず、大爽は控えめに笑みを浮かべる。
「怪我、……けっこう、大変そうですね」
 風に揺れるナマエの右袖を見て、大爽は気づかわしげに声を掛ける。
「おかげさまで、だいぶよくなりましたわ」
 氷の身体だから痛みはないことと、じきに元に戻ることを伝えると、妖精ってすごいですね、と大爽はしみじみ呟いた。
 大爽はほっとしたような顔をしてから、手を前で組んで、俯いた。
「瑞英とは、あまり親しかったわけではないですが……こんなことになって、残念です」
「ええ……私もです」
 瑞英のことを思うと、胸が痛む。他に道はなかったのだろうか。
 できることなら、早めに牢から出られるといいと願う。だが、彼女も意志が強そうだった。そう簡単には、心を入れ替えることはできないのかもしれない。
「大爽さんは、人間でいらっしゃるのでしょう?」
「ええ、いちおう」
 無限様と年は近いです、と言うので、ナマエは驚いた。
「それなら、私とも近いですわ。私の方が少し上ですけれど」
「あ、そうなんですか? 意外ですね」
 もっと年上かと思っていました、と大爽は口元を緩める。ナマエは頬に手を当て、憂い顔で息を吐いた。
「人と妖精は、今のままやっていくしかないのでしょうか」
「いえ、館も、いろいろ考えてますよ」
「そうなのですか?」
 大爽の答えは想像と違っていて、ナマエは目を見開いた。うん、と大爽は頷いてみせる。
「まだ、詳しくはお話できないですけど」
「いえ……それは、嬉しいことですわ……」
 ナマエは風息のことを思い、目を細めた。風息が求めた世界を実現することは難しいが、無理だといって諦めることはないのだ。きっと何か、いい道があるはず。ナマエはそう信じたい。
 そしてナマエは、躊躇いながらも、聞きたかったことを口にする。
「大爽さんは、妖精に恋をしたことがありますか?」
「えっ?」
 唐突な質問に大爽は口を丸く開けたが、ナマエが真剣な表情をしているので、冗談などではなく、真面目に話したいと思っているのが感じ取れた。しかし、休憩中の軽い雑談で話すような話題でもないと思う。大爽はナマエの質問の意図を考えながら、ええと……と頭を掻く。
「ずいぶん個人的なことを聞きますね」
「ごめんなさい。でも、知りたくて……」
 ナマエは指をもじもじとさせながら、大爽を見上げる。
「大爽さんはご存知ですか? 人間と……妖精が、その……恋仲、と言うのでしょうか。そういう関係になった人たちを……」
 人間の身でありながら長く生きているものは本当に少ない。だからこういうことを聞けるのは、ナマエが知っている限りでは大爽くらいしかいない。ナマエ自身は、そういう話を聞いたことはなかった。妖精たちは身を隠し、人間とは距離を置いて生きているのが当たり前だったから。
 ナマエの真摯な態度が伝わってくるので、大爽は咳払いをし、改めてナマエに向き直る。
「たぶん……一組、知ってます」
 そう呼んでいいのかわかりませんけど、と首に手を当てながら、大爽は口を開いた。
「昔、人間の女の子がいて。霊質とかなり親しい子だったから、人間にしては珍しい存在だった」
 そして、遠くを見るようにしながら語り始めた。
「その子をある妖精が見付けた。妖精はその子を弟子にして、修行をさせた」
 ナマエは興味を引かれ、その話に聞き入る。
「二人はお互いを大事に思っていたけど、結末は……」
 悲しいものでした、と大爽は声を落として囁いた。ナマエは口元を手で覆い、目を潤ませる。
「詳しいところまでは知らないんですけどね」
 それ以上は話せることはないと、大爽は語り終わった。ナマエはすぐに声が出せず、口を噤んだまま大爽の語った内容を反芻した。
「その子は、妖精とずっと一緒にいたかったでしょうか」
「たぶん……ね」
 しかしそれは叶わなかったのだ。見も知らぬ彼らの悲しみを思うと、ナマエの胸は痛んだ。
「妖精が、人間を愛しく思うことは、ある……のですね」
「そうみたいです」
「人間は、妖精に何を望んだでしょうか」
「それは……わからないですけど」
 ナマエにも想像は難しかった。同じ人間ではなく、違う種族である妖精に向けられる愛とは、どんなものだっただろう。人間と妖精は生き方が違う。生活の方法が違う。霊質との付き合い方が違う。姿かたちが似ているだけで、中身はまったく別物だ。
 二者の間には生存競争という摩擦があり、寿命という差がある。
 その違いを乗り越え、差を受け入れて、手を取り合った先に何があるのだろう。
 ――無限は、ナマエにどんな思いを向けているのだろう……。
「……ナマエさん?」
「……あ、いいえ……。教えていただきありがとうございます」
「こんなこと聞かれるなんて、ちょっと意外でしたけど」
 お答えできてよかったです、と大爽は言ってくれた。ナマエはへんなことを聞いてごめんなさいと肩を竦める。いえいえ、と大爽は手を振った。思えば、大爽とこれだけ言葉を交わすのは初めてだ。少々不躾な話題だったかもしれない。だが、今のナマエにとっては切実な問題だった。
 問題。そう、これは解決したい問題だ。
 無限ときちんと向き合うために、紐解かなければいけない難題。
 無限は、教えてくれると言っていた。だが、どう訊ねればいいかわからない。何がわからないのか、わからない。まずは自分の気持ちを整理する必要があった。
 無限のことは好いている。何かを求められるのならば、できる限り応えたいと思う。それが今、ナマエが無限に向けている“好き”だ。
 だが無限がナマエに抱いている“好き”は、それとは違うのだという。その違いを知りたい。知らなければ、乗り越えられない。
「俺でよければ、いつでも話、聞きますから」
「ありがとうございます」
 難しい顔をしているナマエが何かを悩んでいることに気付いて、大爽はそう声を掛けた。ナマエの心はその親切心に温かくなる。
 そろそろ休憩終わりです、と言って大爽は戻っていった。ナマエは一人そこに立ち、欄干に寄りかかって空を見上げた。
「無限様……」
 なんだかずっと、無限のことばかり考えてしまっている。他にも、考えるべきことがあるはずなのに、気付いたら無限の名前が心に浮かぶ。
 本当に、どうかしている。
 当面の目標は、無限の前で普通に振る舞えるようになること、だろう。
 今は心が浮ついてしまって、ともすれば会話も耳から流れて行ってしまう。それではいけない。無限の思いに適うどころか、いやな思いをさせることになるかもしれない。
 このままではいけない。
 ナマエは左手を握り締める。
 あの瞳を受け止められるようにならなければ。
 何を恥ずかしがっているのだろう。
 あの瞳の奥に燃える炎を見ると、すべてを掬い上げられて、その手のひらの中にすっぽりと収まってしまいそうな心地になる。すべてを彼に任せて、彼の望むまま、笑顔を浮かべて寄りかかりたくなるような。
 ずいぶんと甘えた考えだった。そんな子供っぽいことを、できるはずがない。
「ナマエ」
 その声が耳に入った瞬間、どきんと胸が高鳴った。
 ゆっくりと振り向けば、いままさに想っていたその人がいる。
 無限は微笑を浮かべて、ナマエの一歩手前まで歩いてきた。
「探した」
「ごめんなさい。少し考え事をしていて」
 一緒に修行をしていたはずの小黒の姿が見えなかった。無限の足元を気にする目線に気付いて、無限は言った。
「昼寝しているよ」
「ああ、そうなのですね……」
 まだどう振る舞うべきか答えは出ていないのに、事態に直面してしまってナマエは髪をかき上げる振りをしながら顔を無限の視線から隠すように手を上げ、目線を無限の足元に落としたままにする。無限の視線がまっすぐ向けられていることを強く意識した。
「ずっとここに?」
「ええと……はい」
 無限はナマエの隣に立ち、視線を空に向けた。自分から視線が外れて、ナマエは小さく息を吐く。そして同時に、寂しさのようなものを感じた。あの視線を向けられることは、けっしていやではない。反応の仕方に困って戸惑ってしまうけれど、無限の瞳に自分が映っていることを自覚することは、ナマエの心を満たしていた。それを改めて自覚する。
「大爽さんと、話していたのです」
「大爽……彼と? どんな話を?」
「あの……妖精と、人間の恋に、ついて……」
 ナマエは恥ずかしくなりながらも、素直に答えることにした。思った通り、無限は驚いて目を丸くした。
「でも、大爽さんが知っている話は、悲しい結末でしたの……」
 ナマエは切なさに胸をぎゅっと締め付けられるような思いを抱きながら、無限を見上げる。
 もし、自分と無限の結末が悲しいものになってしまうとしたら。
「もし、無限様が普通の人間と変わらない寿命で、お別れのときがすぐに来てしまうとしたら……そう考えたら」
 とても胸が苦しくなる。
「この想いが、無限様の求めるものかどうかはわかりません……。ただ、きっと、私は喪ったものの大きさに深い悲しみを抱くでしょう……」
 風息を喪った悲しみはまだ癒えていない。この上さらに喪うなんて、とても耐えられない。
 無限は何かを堪えるように眉を寄せ、ナマエを見つめたまま一歩近づいてきた。炎がナマエを映して大きくなる。ナマエは眦を濡らしながら、それを見つめ返した。
 この炎を喪うことを考えるだけで、こんなにも辛い。
「そう思ってくれるなら……。それ以上のことは、ない」
 無限はそっと、ナマエの眦を指で撫でる。その手の暖かさに、頬を摺り寄せたくなった。だが、そんなことできるはずもない。
「ずっと、考えてくれていたのか」
「私、わからなくて……すみません。至らなくて……」
「焦らない、と言ったろう」
 無限は柔らかく微笑みながら、ナマエを諭す。
「本当は、わかってもらえなくて当然なんだ。私の我儘で思いを伝えてしまった。自分勝手な行動を、咎められても仕方ない。なのにそれをせず、受け入れようと考えてくれる。それで充分だよ」
「無限様……」
 あまりに無欲な物言いに、思わず手を伸ばしてしまいそうになる。
 もっと求めてください。
 欲しいものがあればはっきりとおっしゃってください。
 そうすれば、きっと私はなんでも与えてしまえるから。
 ナマエはそう思う自分にはっとする。
 なんでも、だなんて。
 いったい、自分に何を差し出せるだろう。
 ナマエが持っているものは、あまりにも少ない。
 無限の顔をまっすぐ見ていたことに気付いて、ナマエは慌てて顔を逸らした。無限は横を向いたナマエの赤く染まった頬を見つめる。
「どうして、目を逸らす?」
「それは……無限様が、あまりに見ているから……」
「そうだったか? すまない」
 無限は咳払いをして、目をナマエの顔から首元へ下ろしたが、やはりその目元に視線が吸い寄せられてしまう。ナマエは左手で口元を覆った。その潤んだ瞳からどうしても目を逸らせない。無限はそんな自分を自覚して、苦笑する。
「どうも、無意識にあなたを見つめてしまっているようだ」
「どうして……」
「あなたの表情を、一瞬でも見逃したくない」
「そんな……」
 ナマエはますます袖で顔を隠す。今の表情を見られるのはとても恥ずかしかった。
「いけませんわ。落ち着かない気持ちになります……」
「そうだな。すまない」
 無限は目を閉じて、身体を横に向け、顔ごとナマエから視線を外した。
「これでどうだ?」
「まだ、落ち着きません」
「それは、どうして?」
「あなたが……そばにいるから……?」
 ナマエは自分でもその内容に疑問を抱きながら、答えた。いままでは無限がそばにいてもこんな気持ちにはならなかった。
「私、おかしいのですわ。近頃……。失礼なことばかり言って、すみません」
「いや。かまわない」
 無限はなぜだか笑みを浮かべる。まだ目は瞑ったままだった。まるで、目を開いたらまたすぐにナマエを見てしまいそうだから、とでも言うようだった。
 ナマエは、碧玉の色を見たくなる。
 いざ背けられると寂しくなるなんて、あまりに勝手だ。
 どちらが本当の気持ちなのだろう。
 ナマエは、無限に何を望んでいるのだろう。
「そろそろ小黒が起きるだろう。戻ろうか」
「……はい」
 無限は腰の後ろで手を組み、ゆっくりと歩き出す。
 ナマエはその後ろから、二歩分ほど離れてついていった。
 背中に揺れる黒髪を見つめ、綺麗だと思った。

[*前] | [次#]
[Main]