第三十二話 菜



 広間には思っていたよりも多い人数が集まっていた。
 無限は静かに彼らを見渡す。眉間に皺を寄せているもの、あからさまに睨んでくるもの、目を逸らすもの。来るべきものたちがだいたい揃ったことを確認して、潘靖館長は無限に目配せをする。無限が頷くと、潘靖は一歩前に進み出て、全員の注目を集めた。
「今日、このような場を設けたのは、説明のためです。本日より、執行人、無限様に滞在されるための部屋を用意することになりました。これから、無限様は任務がない期間は、この館にて過ごされます」
 それはこの広間に彼らを集めるときに、事前に説明されていたことだった。妖精たちは重い沈黙を返す。無言の催促を感じながら、無限は館長の隣に並び、妖精たちの視線を受け止めた。
「いままで、私は滞在場所を持たなかった。しかし、今は独り身ではなくなった。あの子のために帰る場所を用意したい」
「そんなこと、わざわざ俺たちに言ってどうする」
 ひときわ身体の大きい妖精が口を挟んだ。
「どうせもう決まってることだろう。それとも、誰かが反対すればやめるのか?」
 そうだそうだ、と他の妖精たちも同調して拳を振り上げた。彼らはみな、様々な事情で無限の存在を苦々しく思っているものたちだった。そんな彼らの敵意を、無限は受け止め、頭を下げる。
「歓迎されていないことはわかっている。だが、どうか許してほしい。大切な人の傍にいることを」
「無限様」
 その行動に、潘靖だけでなく誰もが意表を突かれた。
 あの無限が、頭を下げて懇願している。
 今無限は、無理を押し付けようとしている。彼らにまた、我慢を強いようとしている。事前に潘靖と相談し、誠意としてできることが、直接顔を合わせて自分の口から伝えることだと考えた。夏に言われたことが響いていたのもある。伝えなくては、伝わらない。
「……つまらん」
 先ほど声を上げた妖精は、無限を睨み続けながら、鼻を鳴らした。
「お前には借りがある。俺たちは恨みを忘れない。それだけは胸に刻め」
「わかった」
 無限はしっかりと頷いて答える。
「せいぜい腑抜けるがいいさ! そして俺に倒されろ! 覚悟しておけ」
 その足元にいた小さな妖精が甲高い声で続ける。
「いつでも」
 無限は律儀に答えた。
 大きな妖精がのそりと動いたのを契機に、ばらばらと帰っていく。無限は彼らを見送って、広間から誰もいなくなると小さく息を吐いた。これで、どれだけ伝わったかはわからない。
「意義のあることだったと思いますよ」
 潘靖はそんな無限に微笑んでみせる。
「……うん」
 彼らの神経を逆なでする行動だったかもしれない。だが、どちらにしろここにいることを決めた時点で衝突は避けられないことだと思う。これは始まりだ。これから何が起こるかは予想しづらい。彼らの不満がどれほど溜まるか。もし何か起こったとしても、できるだけのことをしよう。そう決意した。
「これから、迷惑をかけるかもしれないが……」
「いいえ。館を利用するものたちすべてが快適に過ごせるよう努めるのが、私の仕事ですから」
「ありがたい」
 無限は潘靖に心から感謝を示した。これで、小黒に落ち着ける場所を作ってやれる。それに。
 無限は館長と別れて、用意された部屋へ向かった。

「師匠!」
 戸を開けると、小黒がぴんと耳を立てて無限を出迎えた。
「館長とお話終わったの?」
「ああ」
 答えを聞くと、小黒はぴょんと椅子から飛び降りて、無限と入れ違いに外へ出ていく。
「どこへ? もうすぐ……」
「お昼でしょ! ナマエがご飯作ってくれるって!」
 なので、無限が戻ってきたことを伝えに行くのだという。無限は小黒に任せることにして、椅子に腰を下ろした。背もたれに深く背を預けて、部屋を見渡す。
 これからは、ここで過ごすのだ。
 彼女のいる、この館で。
 その喜びを、噛みしめる。
 できることなら毎日だって食べたい。彼女の作ってくれる手料理を。彼女の料理は美味しいが、だから食べたいわけではない。彼女が作ってくれたという行為自体が嬉しい。
 そういえば、とふと無限は思う。
 ずっと作ってもらってばかりだ。当たり前に享受してしまっていたが、少し好意に甘えすぎていたかもしれない。
 何かお返しができないだろうか。
 ふむ、と無限は考え込む。そしてこれしかないという答えに辿り着いた。
 そうだ、と椅子から立ち上がり、厨に向かう。せめてお茶はこちらで用意しよう。水壺に水を淹れ、火にかける。
「師匠、ただいま!」
「無限様、お邪魔いたします」
 そこへ、小黒がナマエを連れて戻ってきた。無限は立ち上がって二人を出迎える。ナマエはお盆を抱えていたので、それを受け取って卓子に置いた。
「雲呑湯です」
 ナマエは蓋を取り、湯匙を並べる。暖かな湯気が卓子の上に広がった。小黒は椅子に飛び乗って湯匙を掴んだ。
「いただきまーす!」
 無限は人数分の茶杯を並べ、茶壷にお湯を注ぐ。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
 ナマエは無限から丁寧に茶杯を受け取った。
 準備が整ったところで無限は湯匙を取り、碗を持ち上げ、一口すする。
「……うまい」
 無限は目を閉じてじっくりと味わい、飲み込む。暖かいスープが身体に沁み込んでいく。
「よかったですわ」
 ナマエはそれを聞いて満足する。笑顔で食べてくれれば作った甲斐があるというものだ。
「いつもすまない」
「いえ、私が勝手にしているだけですから」
 気にしないでくださいと手を振るナマエに、無限は先ほど考えたことを伝えた。
「今度は、私が料理を作ろう」
「ぶっ!?」
 スープを吹き出したのは小黒だった。ナマエはすぐに卓子に零れた水分を蒸発させる。そして噎せて咳き込む小黒の背中を撫でてやった。
「ごほごほっ」
「ゆっくり飲みなさいね。無限様、お料理されるんですの?」
「少しは」
「まあ。よろしいのでしょうか」
「いつものお礼だ」
「そんな、気を使っていただかなくてよろしいのに」
「私が作りたいんだ」
 無限は熱を込めて伝える。
「今夜はどうだろう?」
「嬉しいですわ。ぜひ」
 ナマエは頬に手を添え、頬を緩めてそう答えた。小黒は湯匙を握り締めて無限とナマエの顔を交互に見つめたが、二人の楽しそうな表情を見てなんと言えばいいのか困ってしまった。こんなに楽しみにしているのに、水を差すのはどうなのか。
 だが、ナマエが心配だ。小黒はナマエをじっと見つめる。その視線に気づき、ナマエは小黒ににこりと笑った。
「小黒も楽しみね」
「うっ……うん……」
 だめだ。ぼくには言えない。
 小黒は唇を噛みしめる。こんなにやる気に満ちている無限に、弟子の自分が何を言えるだろう。ナマエ、ごめん。その気持ちで胸がいっぱいで、残りのスープはうまく飲み込めなかった。
「何を作るか、楽しみにしていてくれ」
「はい」
「…………」
 にこにこしている二人とは対照的に、小黒は青ざめる。このままでは一晩空腹で過ごすことになってしまう。
「ぼく……ぼくは……!」
 必死でナマエを見上げ、その袖を引っ張る。ナマエはどうしたの、というように目を丸くして、小黒の言葉を待った。
「ナマエの作った春巻も食べたい……!」
「あら」
「我儘だな」
 どちらの料理も食べたがるなんて、と無限は溜息を吐く。
「今回はナマエのために作るのだから。春巻はまた今度頼もう。……いいだろうか」
「もちろんですわ。いつでも作りますよ、小黒」
 ナマエは小黒の頭を撫でてやる。なんとか絞り出した作戦があっさり敗れ、小黒は絶望に叩きのめされた。もうダメだ。
「うう……」
 こうなったら、腹をくくるしかない。
 小黒はお腹を摩り、苦い顔をしたが、二人とも気が付かなかった。

 無限は作るものを決めると、館内にある売店から材料を買ってきて、さっそく料理に取り掛かった。作るのは紅焼肉だ。何度か作ったことがある。菜刀を手に取ってくるりと回し、豚肉の塊を一口大に切る。
「…………」
 それを、斜め後ろに立った小黒がじーっと見ていた。腕を後ろに回して組み、さも無限の仕事っぷりを監視するかのごとくだ。
「…………」
 視線が気になり、小黒を見下ろしたが、小黒は無限の菜刀を握る手を見つめるばかりだ。
「……小黒」
「なに」
「危ないから、向こうにいっていなさい」
「大丈夫」
「……ここは、狭いから」
 あまり広い厨とは言えない。無限と小黒がやっとすれ違える程度の幅しかない。しかし、小黒は動こうとしなかった。
「どうやって作るか、見張ってるの」
「……そうか」
 どうやら料理の過程に興味があるらしい。無理に追い出すことはしないでおいてやろう。無限はまな板に向き直った。
 切った肉を鍋に入れ、沸騰するまで茹でる。火が吹きあがり、鍋を包んだ。少し火力が高かったようだ。
「師匠!! 火!! 弱めて!!」
 小黒に言われるまでもなく、火を絞る。使い慣れていないせいか、火力を調整するのは難しい。火が苦手なナマエにとって、料理とはどれほど大変なことだろう、と思いを馳せた。
「ねえ! 師匠! そろそろいいんじゃない!?」
 鍋を覗き込んだ小黒に言われるまでもなく、色が変わった肉を一度皿に上げて、鍋に油と砂糖を入れ、炒める。
「師匠!! 火!!」
 また少し火が強かったのか、砂糖が黒くなった。小黒に言われるまでもなく、火を調節しようと思ったが、すでに砂糖は油に溶けたので、再度豚肉を入れて砂糖と絡める。
 少し量が少なかっただろうか、全体にうまく絡まない。砂糖と油を足すことにした。
「あ!」
 それを見て小黒が声を上げたが、鍋の中を見て黙り込んだ。ちょうどいい量が入ったと見て取ったのだろう。箸で豚肉をかき混ぜ、黒くなった砂糖を絡めていく。
「うむ……」
 こんなかんじだったろうか。なんだか違ったような気もする。まあ、これでいいだろう。
 そこに醤油を振りかけ、もう一度水を入れて水分が飛ぶまでよく煮込む。
「師匠、焦げてない……?」
「そうか?」
 小黒が鼻をつまむ。少し部屋が煙いせいか。しっかりと水分を飛ばして、からっと仕上げた。
 これで完成だ。
 無限は火を止めて皿に肉を移す。
 ナマエがこれを食べて美味しいと喜んでくれるのを思い浮かべて、知らず口元が緩んだ。小黒も、今度こそ美味しいと言ってくれればいいが。
「小黒、ナマエを呼んできてくれるか。お茶を沸かしておくから」
「……はい……」
 小黒は低い声で返事をする。今から胃袋がぎゅっと痛んだ。
 重い足を引きずりながら、どうしたらナマエが無限の料理を食べずにすむか、まだ考えていた。料理の手順は知らないが、無限の手つきが危うかったのはわかる。万が一美味しくできないだろうかと奇跡を願ったが、どうやらそれは起きなかったらしい。
「……はぁ……」
 どうしよう。もし、無限の料理を食べて、ナマエが無限のことを嫌っちゃったりしたら。しかし、ナマエは優しいから、無理をして美味しいと言うかもしれない。それはそれで問題だ。無限が自分の料理は美味しいのだと思い込んでしまったら。
 小黒は辿り着いた戸の前で立ち止まり、溜息を吐く。えいと決意をして、拳で叩いた。
 すぐに戸が開かれ、ナマエが顔を出した。
「小黒、呼びに来てくれてありがとう」
 小黒はすぐには動かず、ナマエを見上げた。
「あのね、ナマエ」
「どうしたの?」
「師匠の料理、美味しくなかったら、美味しくないってちゃんと言って!」
「あら……それは」
「ここでぼくと約束して!」
 ナマエは小黒ががんとしてその場を動こうとしないことを見て取ると、頬に手を当て、その真剣な顔をしげしげと眺めた。
 そして、膝に手を添えてしゃがみ込み、小黒と目線を合わせた。
「わかりました。もしも口に合わないことがあったら、ちゃんと言います」
「ほんと?」
「ええ」
 小黒ははああ、と重い息を吐き出す。あまりに迫真に迫っていたのでそう答えたが、どうしてそんなことをこんな深刻な表情で言うのかわからなかった。無限はあまり料理をしない様子ではある。だから、とても美味しいということはないかもしれない。だが、食べることが好きな人だから、それなりにこだわりはあるだろう。それにナマエは、味自体にこだわるつもりはない。いつものお礼に、とナマエのことを考えてくれたことそのものが嬉しかった。
「師匠、ただいま!」
「お邪魔いたします」
 小黒に続いて部屋に入ると、卓子の上に皿が並べられていた。
 無限は茶壷を片手に二人を振り返り、迎え入れた。
「どうぞ」
 そしてナマエを窓際の椅子へ導く。小黒はその隣に腰かけた。
「あら、この匂いは……」
 食べ物の匂いがしてきてナマエは卓子の上を見た。皿の上に、たっぷり黒く焦げた肉が盛られている。
「少し、焦げたかもしれないが……」
 無限が不安を滲ませてそういうので、ナマエは慌てて首を振った。
「いえいえ。ええと……これはなんのお料理ですの?」
「紅焼肉」
「豚肉を煮込んだものですわね? 私、初めて食べますわ」
 無限はお茶を注ぎ終わると、椅子に腰を下ろした。それを確認してからナマエが箸に手をつけると、袖をぐいと引っ張られる。見ると、小黒が丸い目をさらに大きく見開いて、じっとナマエを見上げていた。
「小黒もお腹が空いたわね。いただきましょうか」
「ナマエ、約束だからね」
 小黒はしぶしぶナマエの袖から手を離すと、小声で念を押した。
「ええ」
 無限はナマエが食べるのを待っている。ナマエは箸を持つと、皿に伸ばした。
「では、いただきます」
「うん」
 無限も小黒も、どきどきしながらナマエが箸で肉をつまみ上げ、口に運ぶのを見守る。唇が開き、白い歯がちらりと覗く。肉が舌に乗せられ、口が閉じられた。
 沈黙が下りるなか、二人はナマエが口を開くのを待つ。
「う」
 ナマエが口を手で押さえる。無限と小黒は思わず立ち上がりそうになる。ナマエはしばらく苦労した末に、なんとかそれを飲み込んだ。そしてすぐにお茶を飲む。
 お茶を半分ほど飲み干してから、無理に笑顔を作った。
「あの、ちゃんと混ざっていない部分を取ってしまったかもしれませんわ。でも、別のなら……」
「無理しなくていいから!! ナマエ!!」
 白いナマエの頬がさらに青く透けているのに気付いて、小黒は必死にナマエの手を押さえた。
「す、すまない、ちゃんと混ざっていなかっただろうか」
 無限も焦って、自分でも一口食べてみる。そして理解した。
 自分で思っていた以上に、不味かった。
「……すまない」
 作っているときはそれなりにできたのではないかと思っていたのだが、これをナマエに振る舞うのではとてもお礼にはならない。
 追い打ちをかけるように小黒の腹の音が響いた。
 ナマエと無限は小黒の方を見る。小黒はナマエを見上げた。
「……無限様、厨をお借りしてもよろしいでしょうか」
「……うん」
「春巻きを、作りますね」
「……頼む」
 無限はただただ頭を下げるしかなかった。厨に向かうナマエの後を、小黒が追いかけてくる。
「できるまで、少し時間がかかりますよ」
「うん。待ってるよ。作り方、見ててもいい?」
「ええ。それじゃ、お手伝いしてもらいましょうね」
「うん!」
 ナマエは小黒の手を借りて、春巻きを手早く作った。厨から香ってくるいい匂いに、これが美味しいものの匂いだ、と鼻の奥がつんとした。自分が料理していたときの匂いとは全然違う。どうしてこんなに違うんだろう、と不思議だった。
「お待たせいたしました」
 揚げたての春巻きはさくさくとして、味がよく沁みていて美味しかった。無限も小黒も一口一口味わって食べる。暖かさが身に染みた。
「もし、よければこれからも作りに来ましょうか」
 ナマエの申し出に、無限は顔を上げた。ナマエは袖を口元に添え、目を伏せ、控えめに続ける。
「その、自分一人分のものを作るのも、三人分を作るのも同じですから……」
「では、毎日……?」
 思わず無限は卓子に手をつき、身を乗り出す。ナマエは快く微笑み、頷いた。
「はい」
「やったー! 毎日ナマエのごはんが食べれる!」
 小黒は両手を上げて喜んだ。無限は卓子の下で拳を握り締めた。お礼をするはずが、これからも世話になることになってしまったが、喜んでしまうのを抑えることはできなかった。
 同じ場所に住んでいても、用がなければ毎日は会えないと思っていた。しかしこれで理由ができた。願ってもないことだった。
 しかし、頼りっぱなしというのはやはりよろしくない。
「ナマエ。今度私に料理を」
「師匠は厨立ち入り禁止」
「教え」
「禁止」
「…………」
 無限はナマエに向けていた視線を小黒の方へ下ろす。小黒は無限を見返した。
「ダメ」
「……そんなに何度も言わなくても」
 師弟のやりとりを、ナマエは苦笑しながらも微笑ましく見守っていた。

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