第三十一話 甘



「ナマエ! ナマエじゃない!?」
 館を歩いていると、後ろから女性の声がナマエの名を呼んだ。ナマエは足を止めて、誰だろうと考えながら振り返る。そして、彼女の顔を見てすぐに誰だか思い出した。
「夏さん!」
「そうよ、私よ! やだ、何年ぶり?」
 彼女は昔、ナマエが世話になっていた燕京にある館の番頭だった。黒く長い髪は当時の印象のまま、結い方が現代風になっている。
「元気? ああ、いろいろあったのよね。知ってる。潘靖に聞いたわ」
「仕事でここに?」
「そうよ。ちょうど終わったところ。ね、せっかく会えたんだから少し話しましょうよ」
 ナマエは夏を自室に招いて、お互いの近況を伝え合った。夏は今も番頭を続けているという。
「館もずいぶん変わったでしょう」
「ええ。初めはわからないことばかりで……でももう慣れましたわ」
「ならなによりだわ。そうだ、今度うちの館にもまた来てよ」
「懐かしいですわ。ぜひ」
 きっと風景はすっかり変わってしまっているだろう。そこにいる顔ぶれも変わっているはずだ。どんなふうに変わったか、楽しみに思う反面、やはり寂しさは拭えない。
「ところで、聞いたわよ」
 不意に、夏は悪い笑みを浮かべて裾を口元に寄せ、ナマエの方へ身体を傾け声を顰めた。
「近頃、無限と急接近してるらしいじゃない」
「無限様?」
 急に話題が変わったので、ナマエはきょとんと瞬きをする。夏はぱっと身体を上げるとやれやれと手をひらひらさせた。
「こっちにまで噂が聞こえてるわよ〜。無限がひとりの女性に夢中だって。女たちが悔しがってたわ」
 やるわねえ! と夏に肩を叩かれて、ナマエはよろめく。
「あの、なんのお話……?」
「やあねえ。誤魔化さなくてもいいでしょ。無限と、いい仲なんでしょ?」
 紅を塗った艶めかしい朱唇に人差し指を当て、片目を瞑ってみせる夏に、ナマエは首を傾げた。
「いい仲、って……?」
「だから、恋人とかそういうやつよ。そうなんでしょ?」
「ああ。恋人……」
 夏が言いたいことをようやく理解して、ナマエは思わず笑ってしまった。
「まさか。私と無限様が恋人だなんて。いったいどんな噂が広まっているのでしょう」
「何笑ってるのよ。正直に話しなさいよ。噂は嘘なの?」
「ふふふ。なんだかおかしくて……。どうしてそんな話が出たものかしら。ただよくしてもらっているだけですわ」
 ナマエは館に来てから、無限がいかに親切にしてくれたかを夏に語って聞かせた。夏は不満そうな顔で聞いていたが、ナマエの素振りを見て、ふうん、と唸った。
「わざわざ館に足を運ぶようになったのねえ。あなたのために」
「お陰で小黒と会えて、嬉しいことですわ」
「あなたそれは」
 口実じゃないの、と言おうとして、ナマエの澄んだ瞳を前に、夏は言葉を飲み込んだ。小黒を姉に会わせるという口実でナマエ自身に会いに来ているのでは、と言ったところで理解はできなさそうだった。
 それなりの付き合いではあるが、まさかこんなに鈍い娘だとは。
 無限とナマエの関係については、本人を問い詰めるよりも、周りの証言の方が信頼できそうだ。なにより、館に頻繁に通うようになったという事実はかなり大きいように思える。夏は無限の人となりを詳しくは知らないが、無限を厭う妖精が多く、彼らに無限が気を使っていることは知っている。それだけの事情があるにも関わらず、行動を変えさせたのならそれは大事だろう。館の女性たちがざわめくのもわかる。当の本人は、てんでぴんときていないようだが。
「これは、苦労するわね……」
 ナマエの顔を見てしみじみと呟く夏に、ナマエは戸惑うばかりだった。夏は腕を組みかえて、ナマエに訊ねた。
「無限は今日は館にいるのかしら」
「いらっしゃるはずですわ」
「私明日休みなのよね。だから」
 夏はがしっとナマエの手を両手で握り締めると、にっこりと笑った。
「Wデートしましょ!」
「だぶる……でーと?」
 遊びに行くって意味よ、と夏は適当に答える。
「潘靖も誘いましょ。近頃忙しかったみたいだし、一日くらいいいでしょう」
「まあ、館長と?」
「いい喫茶店を知ってるのよ。あ、洋服持ってる?」
「ええ、一応……あの、本当に?」
「明日、暇でしょ?」
 有無を言わせぬ夏の迫力に、ナマエは頷くしかなかった。
 夏は出かける時間まで決めてナマエに約束させると、無限と潘靖にも伝えに出て行ってしまった。勢いに押されて決定してしまったが、どうしよう、とナマエは狼狽える。出かけるのはいいが、この面子ではどう振る舞えばいいかわからない。夏と会うのは久しぶりだし、潘靖とはそう親しく話したこともない。
 どうしよう。
 ナマエは頬に手を当てて、とりあえず、以前買った服を引っ張り出してみることにした。

「さ、行きましょうか」
 翌日、ナマエを迎えに来た夏は洋服に身を包んでいた。ナマエはやっぱり行くんだ、と緊張に咽喉を鳴らす。固くなっているナマエの先を歩いて、夏は転送門の前に来た。
「せっかくのデートだから、向こうで待ち合わせしようってことになったの。たぶん彼らは先に行ってると思うわ」
「は、はい」
 どうすればいいかわからないので、夏の言う通りにする他ない。ナマエは転送門をくぐり、街に出た。行先がわかっている夏はナマエを率いてどんどん歩いて行く。人波に押されもせず、背筋をまっすぐにして黒髪を揺らす後ろ姿は、同じ女でも見惚れてしまうほどだった。
「ほら、いたわ」
 夏が示したのは青い屋根の店だった。その前に、確かに男性が二人いる。ひとりは無限と、もうひとりは。
「夏さん」
 その人は片手を上げて、夏に微笑んだ。長い髪が肩を滑り落ちてさらりと揺れる。
「お待たせ」
 夏は軽やかに彼の傍へ走って行って、その腕に自分の腕を絡めた。
 すらりとした二人が並ぶと、とても絵になる。ぼうっとして眺めているうちに、あ、とナマエは声を上げた。
 長い髪の男性は、潘靖だ。今の館長の姿ではなく、過去、夏の元で館長見習いをしていた頃の姿だったから、すぐに気付かなかったのだ。
「この姿になるのは久しぶりです」
 潘靖はナマエのその戸惑いに気付いて、笑って見せた。
「相変わらずいい男でしょ?」
 夏はナマエに片目を瞑ってみせる。そうだ、二人はこんなかんじだった、とナマエは思い出してきて、笑い返した。
「懐かしいですわ、こういうかんじ」
「まあ……昔よりは、落ち着いたかもしれませんけどね」
 潘靖はそう言いながら夏を見たが、夏はどうかしら、とでも言うように口角を吊り上げるばかりだ。潘靖も、今は館長という立場ではないため、少し態度が気安い。
 二人のやりとりは変わらないようだ、とナマエは微笑む。
 夏と潘靖は、いい仲だった。
 ナマエは二人を見て、初めて妖精の恋人同士という存在を知った。
 夏はよく潘靖をからかって、潘靖は困ったようにしながらも、いやではなさそうで、よく二人は一緒にいた。そんな二人の姿を見ると、常に寄り添ってくれる存在に憧れを抱いた。だから、ナマエは虚淮たちを家族と呼ぶことにしたのかもしれない。恋人と家族では少し関係が違うようだが、お互いを必要とし合い、いつもそばにいるのは同じだろう。恋人は特定のひとりのみだが、家族はいくらでも増やすことができる。ナマエは、家族という枠組みを好んでいる。
 しかし、とナマエは隣を歩く無限を見る。前を夏と潘靖が二人で歩くので、必然的にナマエは無限と並ぶことになった。
 どうして夏はこの三人で出かけよう、と言い出したのだろうか。夏と無限は個人的な付き合いはあまりないという。館長と無限も同様だ。小黒が留守番をしているのも気がかりではある。たまたま洛竹が休みだったからよかったが、無限も突然のことに困惑してるのではないだろうか、と心配だった。
 ナマエの視線に気づいて、無限が振り返った。
「なにか?」
「いえ、その……すみません。突然」
「ああ、いや」
 無限は恐縮しているナマエに苦笑してみせる。
「あの人が言い出したことだろう。彼女はそういう人だから」
「ええ……そうなのですけど……」
 わかっている、と言う無限に、やはりナマエは申し訳なく思う。夏が無限を誘おうと言いだした原因の一端はナマエにある気がするからだ。その原因がなんなのかは、よくわかっていないけれど。夏は何を考えているのだろう。
「その、私、Wデート、というものをしたことがなくて」
 そう言うと、無限がつんのめった。
 大丈夫ですか、と思わず手を伸ばしたが、無限が転ぶはずもなく、すぐに体勢を整えた。
「……彼女は一体、何を考えているのか……」
 しかし、手のひらで顔を覆って、そんなことを呟く。無限にも、夏が何を考えてこのようなことをしたのかはわからないようだった。
「無限様はご存知ですか? Wデートって、何をするものなのか」
「それは」
 無限は手のひらを口元に下げ、黙り込む。ナマエは答えを待って無限の目を覗き込んだ。無限は目を逸らした。
「それは……。喫茶店に行ったり、買い物をしたり、すること……だと思う」
 返ってきた答えは曖昧なものだった。確かに、夏も遊びに行くことだと言っていた。
「では、Wの意味はなんでしょう」
「……二組、という意味だ」
「二組」
 ナマエは前を歩く潘靖と夏を見、自分と無限を見た。
「確かに、二組ですわね!」
 わかった、とつい嬉しくなって声を上げたが、無限はうん、とこれまた曖昧に唸った。
「二組で遊びに行くことをわざわざWデートと言いますのね? 何か、二組でなければできないことがあるのでしょうか」
「うん……」
 無限の口は重い。どうやら無限も詳しくはないようだった。夏にもっと何をするのか聞いておくべきだった、とナマエは反省する。今は、夏は楽しそうに潘靖と会話している。割り込むのは気が引けた。
「ここよ、喫茶店!」
 そんな話をしているうちに目的地に着いたようで、夏が足を止めてナマエたちを振り返った。そこは洋風な佇まいのカフェだった。
 ナマエは見慣れない建築や装飾に気を取られる。美しい建物だった。
「いらっしゃいませ」
「予約していたのだけれど」
 ウエイターは確認をすると、夏たちを予約席に案内した。四人掛けの白い丸テーブルは、日当たりのいいところに置かれ、窓からは通りの様子を見ることができた。
 ナマエは夏の隣に座った。初めて入る店に、少しだけ緊張する。
「こういうお店は初めて?」
「はい」
「紅茶も、ケーキもとても美味しいのよ。わからなかったら私が選んであげるわ」
「お願いしますわ」
 夏のおすすめなら間違いはないだろう。ナマエはすっかり夏に甘えることにした。
「お決まりですか?」
 ちょうどいいタイミングでウエイターが声を掛けてきた。夏はナマエの分と自分の分を注文する。潘靖と無限はそれぞれ自分の分を頼んだ。
「無限は珈琲飲むの?」
「あまり」
「このお店の珈琲は美味しいですよ」
 夏に問われて首を振る無限に、潘靖が話しかける。
「珈琲は、紅茶とは別ですの?」
 ナマエが訊ねると、そうよ、と夏が答えた。
「紅茶は緑茶と同じ茶葉だけど、珈琲は珈琲豆っていう豆を煎るの」
「豆……どんな味なのかしら」
「今度試してみるといいわ」
 苦いから嫌いかもね、と夏は歯を見せて笑う。
「今回は、ケーキがメインだからね。珈琲で舌が麻痺したらもったいないわ。その点紅茶なら問題ないわよ。白茶や緑茶よりケーキに合うと思うわ、私は」
 夏が口にするケーキ、という単語の意味はわからないが、特別な感じが込められているように聞こえて、期待が膨らむ。ウエイターがポットとカップをトレイに乗せて運んできた。ナマエの前には、氷がたっぷり入ったアイスティーが置かれる。
「まあ、華やかな香り」
「そうでしょう? ミルクを入れて飲んでみて」
 ナマエは言われた通り、小瓶からミルクを入れてかき混ぜてから、一口飲む。まろやかなミルクと茶葉の香りが喉の奥で広がって、すっと流れ込んだ。
「……美味しい!」
「でしょ? ケーキと合わせるともっと美味しいのよ」
 ケーキとはどんなものだろう、とナマエがどきどきしながら待っていると、ほどなくしてウエイターが左手にトレイを二つ乗せて、四人分のケーキを持って現れた。
 ナマエの前には、白い生クリームとイチゴで彩られたショートケーキが置かれた。夏はガトーショコラ、潘靖はレアチーズケーキ、無限はモンブランを選んだ。
「さ、食べてみて」
「はい……!」
 ナマエはさっそくフォークを持ち、どこから切り取ろうかと考える。イチゴがたっぷり乗っていて、どこをとっても崩れてしまいそうだった。なるべく崩れにくそうな場所を吟味し、そっとフォークを差し込む。柔らかなスポンジにフォークが沈んで、すとんとお皿まで落ちる。一口分切り取ったケーキを、零れないようにそっと口に運ぶ。口に入れた瞬間、甘いクリームの味が口の中に広がった。
「んん……!」
 美味しい、と声に出したいが出せず、ぎゅっと目を瞑って味わう。
 ふと目を開けると、微笑みを浮かべながらじっとこちらを見ていた無限と目が合った。少し夢中になりすぎていたかもしれない、とナマエは気恥ずかしくなってお皿に目を落とす。気のせいか、椅子に座ってからずっと、無限の視線がこちらに向けられていたようだった。初めての店で緊張しているナマエのことを、夏のように気にかけてくれていたのだと思う。
 ナマエは一口目を飲み込むと、紅茶を一口飲んだ。思った通り、ケーキの甘さをさっぱりと流してくれる。確かによく合う。
「美味しいですわ。とっても」
 気持ちの籠ったナマエの言葉に、夏も満足そうに笑った。
「でしょう? いつもどの種類を食べようか迷って、全部食べるわけにはいかないから、また食べに来ようって思っちゃうのよ」
「うちの館に来るときは、たいてい来たがりますよね」
「だって美味しいんだもの」
 唇を尖らせる夏に、潘靖は眦を下げる。
「でもこの前来た時は……」
 夏と潘靖の会話を聞きながら、ナマエはケーキを一口一口噛みしめる。食べ終わるのがもったいなかった。
「無限様のケーキは、なんといいますの?」
「モンブランだよ」
 他のケーキを見る余裕が出てきて、ナマエは半分ほどになっている半円形のケーキを見て訊ねた。ナマエのショートケーキとはずいぶん形が違う。同じケーキという名前でも、形も色も様々なようだった。無限はしげしげとモンブランを観察するナマエの様子を見て、しばらく考えていたが、心を決めたように口を開いた。
「一口、食べてみる?」
「よろしいんですの?」
 実は味も気になっていたナマエは、無限の申し出をありがたく受ける。
「少しだけくださいな」
 無限が皿をこちらに寄せてくれるので、一口分よりは気持ち少な目に取り分ける。食べてみると、見た目通りまったく味が違った。
「これも美味しいですわ」
 目を輝かせるナマエに、無限は満足そうに眼を細める。お返しに、とナマエは自分の皿を差し出した。しかし、無限は手を振る。
「いや。私は食べたことがあるから」
「そうでしたの。無限様も、ケーキお好きでいらっしゃるの?」
「それなりに」
「ふふ。これ、うちでも作れないかしら。どうやって作るのか想像できないけれど……。とくにこのふわふわした食感を出すのは難しそう……」
 ナマエは残りのケーキを矯めつ眇めつして、作り方を推量してみようと眉間に皺を寄せる。しかし、やはり難しかった。
「帰ったら紅泉に知ってるか聞いてみましょう」
「もし、作ったら……」
 無限はナマエの目を見ながら言った。
「私にも味見をさせてもらえるだろうか」
「もちろんですわ。あ、うまくいったら、ですけれど」
 ふふふ、とナマエは笑ってみせる。はたして一度でうまくいくかどうか。すっかり肩の力が抜けて、ナマエは甘味を会話を楽しんだ。
「それで潘靖、どうなの?」
 夏は半目になって、隣の潘靖に視線を送った。
「みんなの無限様が誰かのものになりそうって噂」
 ぶっと無限が紅茶を吹いた。ナマエは急いで紙ナプキンを無限に渡す。幸い服には掛かっていないようだ。
「なんて話をしだすんですか」
 潘靖も困ったように夏を見るが、夏はこれが本番とでもいうように活き活きと話し始めた。
「こっちに来たら絶対聞こうって思ってたのよ! あの無限が弟子を取ったってだけでも一大事なのに、その上想う人ができたなんておもしろ……とっても興味深いじゃない!?」
「やめてあげてください、無限様を困らせるのは」
 こうなると潘靖でも夏を止めることはできない。無限は冷や汗を掻いて夏がとんでもないことを言い出さないかとはらはらする。
「無限だってはっきりさせたいでしょ? 館を揺るがす噂話が真実かどうか。好き勝手言われるのは本意じゃないでしょうし」
 ねえ、と目を三日月型に歪める夏の言葉はじわじわと無限を追い詰めていく。
「どうなの? 噂は本当?」
「…………」
 夏の視線に絡めとられて、唇を引き結びながら、無限は頭をフル回転させる。どうすれば、この場を丸く収めることができるだろうかを。特に、突然の展開についていけないでいる彼女におかしなことを吹き込まれてしまわないように。
「確かに、女性たちが浮いた話をしているのは知っていますが。所詮は噂でしょう。火元がなければそのうち消えます」
 潘靖が助け船を出した。ありがたい、と無限は腹の内で感謝を述べたが、火元ならあるじゃない、と夏が無限とナマエをちらちら見る。
「無限が館に来る以上、そこに良い人がいるんだって、考えちゃうわよねえ」
 ねえ、とこれまたこれ見よがしにナマエに話を振る。本当にやめてほしいと無限は思う。
 そうか、とナマエは口元に手を当て、無限を振り返った。
「本当は小黒のためですのに、事情をご存じない方には不思議に思えるのでしょうか」
「……そう、かも、しれない……」
 無限は声を絞り出して答えた。まったく、なんて展開だろう。夏は何を企んでいるのか。ここからいったいどんな結末を迎えれば満足するというのだろう。
「あ、そうですわ」
 ナマエは思いついた、というように手を合わせた。
「以前、紅泉たちが話していましたの。無限様、いっそ館にお部屋を用意していただいたらどうかって」
「部屋を?」
 意外なことを提案するナマエに、無限は目を丸くする。夏と潘靖は行方を見守る構えをとった。
「小黒も、落ち着ける場所があったら安心でしょうし、館を訪れる、ではなく、館に帰る、という形にすれば、気にする方も納得されるのではないかしら」
 もちろん、問題はあるでしょうけれど……とナマエは付け足す。無限の存在を歓迎しない妖精たちの声は忘れていない。
 無限は潘靖と目を合わせた。潘靖は微笑を浮かべて見せる。
「よい考えだと思います。こちらはすぐに用意できますよ」
「……そうか。考えてもみなかったな」
 無限は顎に手を当てる。そしてふと笑みを零して、ナマエを見つめた。
「あなたはすごいな。私が避けていた問題に、向き合うきっかけをくれた」
「いえ、私の考えではございませんわ」
「それでも、あなたのお陰だよ」
 謙遜するナマエに、無限は明瞭に伝えた。ナマエはまっすぐに見つめられて、少し気恥ずかしくなり頬を染めた。
「そろそろ、彼らと話してみる必要があるのかもしれない」
「ええ。私も微力ながらお手伝いいたします」
 潘靖の申し出を、無限はうんと言って受け入れる。ナマエは物事がいい方向に進み始めたように感じて、頬を緩めた。
 その三人を、夏は関心したような顔で眺めていた。
「なるほど、そうなのねえ……」
 うんうん、と頷いて、ひとり納得する。
 紅茶も飲み終わったので、カフェを出ることになった。
 休暇を取ったとはいえ、丸一日館を空けるわけにはいかない。
 ナマエは店を見上げ、また来よう、と心の中で決めた。
 夏は歩き出そうとした無限を引き留める。無限はむっとした目で夏を睨んだ。先ほどの行動は少々やりすぎだ。しかし夏はけろりとした様子で、むしろ楽しそうに無限のみぞおちを突っついた。
「お節介しようかと思ったけど、全然そんな必要なさそうじゃない」
「やめてくれ。本当に」
「はいはい。まあ、鈍感娘相手にするんだから、もっと頑張らないとだめだけれどね」
「彼女は……、ただ、そういう関係を想定していないだけだ」
「そこよ。その認識を変えるの、相当大変だと思うわよ?」
 夏は一歩前に進み、無限を振り返る。
「特にあなたは口下手なんだから。ひとつひとつはっきり伝えなくちゃ、伝わらないと思いなさい」
「……む」
 確かに、と無限は足を止め、潘靖と話すナマエの後ろ姿を眺める。
 好きだと伝えれば、素直に好きだと返してくれる。
 しかしそこに無限が込めた意味は伝わっていない。
 小黒の言う「好き」と、己の「好き」の違い。
 それを理解してもらわなければ、きっと先には進めない。
 無限は拳を握る。
 できることなら、先へと進みたい。
 そして、今度は二人で、このカフェへ行きたい。
 自分の中にある確かな望みを再確認して、無限は前を向く。
 その目つきを、夏は満足そうに眺めた。

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