第二十九話 違



「じゃあ、ナマエ姉、行ってくるな」
「ええ。小黒をよろしくね」
 洛竹は近頃できた遊び仲間の妖精の元へ、小黒を連れて出かけて行った。ナマエはそれを見送ってから、厨で天虎に火の扱い方を教わる日課に戻った。料理をするようにはなったが、相変わらず火には苦手意識があり、どうにもうまく向き合えていない。だが、どうにか料理ができるようになって、弟たちに美味しいものを食べさせてやりたい。その一心で、熱い火と熱せられた鍋と戦う日々だった。
 火を熱いと感じると、無意識に冷気を発して温度を下げようとしてしまうのが厄介だった。コンロの火は焚火に比べて小さいまま、温度の調節ができるからずいぶん楽ではあるのだが、火は火である。
 一朝一夕に平気になるとはいかなかった。
 だが、さすがは天虎だけあって、ナマエが冷気を発したのを察知して、火加減を調整してくれ、うまく炒めてくれるのだった。
 天虎自身はすぐに調理器具の使い方を覚え、簡単な肉料理だったら問題なく作れるようになっていた。
「やっぱり天虎の焼いてくれるものはとても美味しいわね。私も頑張らなくちゃ」
「ん」
 天虎はナマエに褒められ、照れくさそうにしながらも、自信が感じ取れる表情をしている。姉に頼られているという嬉しさで、気合を入れて指導していた。
「ただいまナマエ! お腹空いた!」
 ちょうど葱油餅が焼けたところだった。小黒が元気に飛び込んで来た後ろから洛竹がいい匂いがするな、と顔を出す。
「今お茶を淹れるわね。座って」
 天虎は手際よく葱油餅を切り分け、皿に盛り、卓子の上に並べた。小黒と洛竹はお茶が入るのを待たずに手をつける。
「おいしい!」
「うまい!」
 ナマエは茶葉を蒸らしながら、食欲旺盛な二人に笑みを浮かべる。
「生地は作ったの。焼いてくれたのは天虎よ」
「ん」
「もちもちしてて最高!」
 小黒はもぐもぐしながら天虎とナマエに笑いかけて見せる。いつの間にか、小黒はすっかり家族の一員として馴染んでいた。
 ただ、そこにない人の影を、ナマエはふと思いやる。
「ねえ、小黒」
「ん?」
「無限様は……」
 ナマエは突発的に思ったことを訊ねようとしてつい口にしてしまってから、やめよう、と考え直し、言おうとしていた言葉を飲み込んだ。
「いえ、お元気かしらと思って」
「うん。元気だよ」
「そう。ならよかったわ。さてと、私の分は残っている?」
 ナマエは笑って誤魔化して、話題を変えた。とはいえ、味見のつもりなので一切れあれば充分だ。食べ盛りの弟たちはこれだけでは物足りなさそうだった。だが、これ以上は夕飯に差し支える。
 小黒は葱油餅を食べ終わると自分の部屋へ帰っていった。
 ナマエは片づけをしながら、聞けなかったことを思い返す。
 つい、無限様はいらっしゃらないのかしら、と言ってしまいそうになっていた。彼が姿を見せない理由は、充分にわかっていることだと言うのに。それは彼の優しさで、気遣いだ。それを、無為にするようなことを望むなんて。洛竹たちも、気まずくなってしまうだろう。ただ、最近まで頻繁に顔を合わせていたものだから、それがぱたりと止むと気になってしまう。さりとて、わざわざナマエの方から出向くほどの理由もなく、ただ、受け身ながら何かの機会に会えるだろう、と漠然と願っている。
 そのときまでには料理の腕を上げて、自信を持って振る舞えるようになっていたい。
 ナマエはそう心に決めると、張り合いが出てきたような気がして、今なら火に向き合えるんじゃないかと思えた。


「師匠、ただいま!」
 ぱたぱたという軽く忙しない足音と、ばたんと開かれた戸の音で充分に帰ってきたことは察せられていたが、ただいまの声で無限は読んでいた本を閉じ、小黒を迎え入れつつ金属を操作し、開きっぱなしの戸を閉めた。
「今日は、洛竹の友達と遊んだんだ!」
 ぼすんと椅子に腰を下ろしながら、小黒はその日あったことを語り始める。楽しくて仕方がなくて、それを共有したくて仕方がない、といった様子だ。それを聞かされるのは、もちろん嬉しいことだった。
「あとね、葱油餅食べたよ。美味しかった!」
「む……」
 それだけは、羨ましかった。無限も、できれば食べたい。彼女の手料理を。
「ナマエは……」
「ん?」
「いや、元気にしているだろうかと思って」
「うん、元気だよ」
 小黒は答えてから首を傾げた。なんだかこんなやりとりを、前にもしたような気がする。
「そうか。なら……いいんだ」
 無限はそこで無理に会話を切る。何かまだ聞きたそうな態度に見えて、小黒はむず痒い思いがしたが、無限はそれ以上何も言うつもりはないようで、聞けずじまいだった。
 子供に何を聞こうとしているのか、と無限は自戒する。彼女は私のことを何か言っていなかったか、そんなことを探りたくて思わず口から出そうになってしまった。なんとか誤魔化したが、知りたいという気持ちまではなくせない。もうずいぶん彼女に会っていないような気がしていた。
 途切れてもおかしくないナマエとの縁を、唯一繋いでくれているのがこの小黒だと感じている。
 切れる原因の一端は自分にあると理解している。だからこうして部屋に籠っている。彼女の迷惑になるのは本意ではない。理性ではわかっているのだが、感情の方はなかなか大人しく引っ込んではくれない。
 弟たちが解放されたことは喜ばしいことだ。それは彼女の一番の願いで、彼女の心の支えだ。しかし、そのことが一方で己と彼女を隔てる壁になってしまったとも思ってしまっている。
 考えてしまうのだ。
 もし、弟たちが全員解放されたら、彼女は館に留まるだろうか、と。
 そうなってしまえば、きっと容易には会いにいけなくなるに違いない。そう想像しただけで、腹の底がずんと固く、重くなるような心地がする自分が我ながら情けない。
 いつか手が届かなくなってしまう存在。そうなる前に、早く。
 いつの間にこの想いはこうも膨らんでしまっていたものか。
 考えてみたところで、もうこの炎は消せないことはわかっている。
 どうして手放すことができるだろう、これほどまでに育ってしまった大切な想いを。
 かつて別の存在に一度抱き、もう長いこと、抱くことのなかった感情だ。だから、ふたたびそれを抱くことがあるとは思ってもみなかった。
 目を閉じれば彼女の微笑みがそこにある。
 手を伸ばして触れたいと望み、膨れ上がる欲を否定するのも空しいことだ。
 会いに行くことができずとも、今のところは幸いにもこの館の中にいてくれている。
 何かの機会に、偶然出会えたなら。
 そんな願いを名もわからない誰かに願ってしまう程度には、想いは切迫していた。

 友人との料理会の帰り際、ナマエはふと気が向いて見晴らしのいいところまで歩いて行こうという気になった。
 まだ日は沈んでおらず、肌を撫でるひんやりとした冷気が心地いい。館にいると、天気の移ろいに疎くなる。今年は雪に触れることはあるだろうか。
 冷えるためか、ナマエ以外に人影はない。ナマエは欄干にそっと手を滑らせて、館の下を流れる水を覗き込んだ。この高さでは魚影は見えなかった。ナマエは空を見上げる。半分ほどが灰色の雲に覆われていた。雪の冷たさを思うと、自然と虚淮のことが思い起こされた。
 自分と同じ、氷の身体の妖精。
 大きくなったが、ナマエにとってはまだ出会ったばかりのときの幼子の面影が残っている。
 出会った時、この子を私が守らねばと思った。
 同時に、やっと近しい存在と出会えた喜びが大きかった。
 妖精はひとりひとりが種として確立され、まったく同じ姿かたちで生まれる妖精はいない。妖精はひとりで生まれ、ひとりで生きるのだと思っていた。人間と出会い、館と出会い、そうではないことを教わった。たくさんの出会いがあり、たくさんの別れがあった。
 その中でも、この出会いは特別なものだ。
 出会い、別れていくだけだった中で、ようやく一緒にいたいと思える相手に出会えた。
 そして、その出会いはさらなる出会いを呼んでくれた。
 家族がひとり増え、ふたり増え、どんどん増えていった。
 龍遊はひとつの大きな家となり、妖精たちは寄り集まって、ひとつの国を造っていた。その頂点は風息だ。
 思えば、彼の元には妖精たちが集まるようだ。洛竹も天虎も小黒も、彼が拾い上げてきた。寄り添い合い、補い合う生活は満ち足りていて、豊かだった。この館でも、そんな関係を構築できたらいい。
 ナマエは振り返って館を見上げる。大きな建物だ。この中で、様々な理由で生きることが困難になっている妖精たちが暮らしている。ナマエもその中の一人だ。
 ――ここで、家族みんなで暮らすことができれば。
 気持ちがうつうつと沈み始めたとき、向こうから人影が歩いてくるのが見えた。
 顔に掛かる髪を指で避けて、その顔を見極める。
「無限様……小黒」
 無限の足元を歩いていた小黒がナマエに気付き、駆け寄ってきた。
「ナマエ!」
 そしてゆっくり歩いている無限を早く、と急かす。
 小黒は向かい合った二人を見上げて、にこにこと笑った。
「よかったね。二人とも、会いたかったんだよね!」
 そう言われて、ナマエは無限の顔を窺う。無限もナマエの顔を見つめ返した。そう、この人に会いたかった。ナマエはその気持ちを認めて、無限に微笑んだ。
「ご無沙汰しております」
「うん」
 無限も微かに笑みを浮かべる。
 二人の様子を見て、小黒は満足そうに頷いた。
「弟たちとは、どうだ。何か、困っていることはないか」
 無限は言葉を探しながら、そう訊ねる。ナマエはいえ、と首を振った。
「おかげさまで、二人とも、だいぶここの暮らしにも慣れてきたようですわ。洛竹はたくさん知り合いができたみたいですし、天虎も私よりよっぽど料理上手で」
「そうか。それならよかった」
 そこで一度会話が終わり、沈黙が下りる。せっかく会えたのだから、すぐに別れるつもりはない。だが、言葉がなぜだか出てこない。
会いたいと願っていたのに、どう振る舞えばいいのかわからない。
「二人とも、なんかへん。もじもじしてる」
 そんな姿が小黒にはじれったく、素直で容赦のない指摘が入る。ナマエはそうかもしれない、と手を頬に当てる。どうにもどこかぎこちない。今までは自然に振る舞えていたのに。
「会いたかったんでしょ? 師匠」
「む……」
 そう言って手を引っ張られ、無限は言葉に詰まる。子供と侮ってはならない、思わぬところで本心が見抜かれてしまっている。
「その、特に用事はないのだが……」
 以前はあんなに正直に、ただ会いに行きたいのだと伝えられたのに。今は何か後ろめたい気さえする。
「私も、特別のことがないかぎりお邪魔をしてはいけないと思っていましたけれど。お顔を見たいと思っておりました」
 対して、小黒の言葉をきっかけに、そうか、素直に言えばいいのかと、ナマエはそう告げた。
「今は洛竹がいてくれますから、無限様のお手を煩わせることもないのですけれど、その……ご用事がなくても、ただ、お茶にお誘いしてはいけませんか?」
 守ってもらおうだなんて思っていない。その力を頼りにするものは他に大勢いる。ナマエはただ、無限と和やかに過ごしたい。そう思えた。
「ぜひ」
 無限は即答した。よかった、とナマエはほっと息を吐く。
「私も、無限様のことが好きですから」
 そして、想いを告げた。以前、無限からもらった言葉だ。あのときはどう答えればいいかわからず、無限の真意を探して悩んでいたが、きっと、無限はただ思ったことを口にしただけだったのだろう。だから、ナマエもそれに応えたいと思った。
 無限は目を見開き、ナマエの顔を凝視する。我が耳を疑ったが、確かに好きと聞こえた。まさか自分の気持ちが届いたのか、と逸る心臓をうるさいくらい意識しながら口を開こうとしたが。
「若水も、紫羅蘭も、紅泉も、たくさんのひとが、無限様のことを好いていますわ。私も、どうして好きにならずにいられましょうか」
「え」
 どすん、と頭上に重量物が降ってきたかのような衝撃だった。
 もう一度我が耳と目を疑ってみたが、ナマエはなんの気負いもなく、にこにことしている。
「ぼくも師匠好きだよ!」
 小黒までそう言って、無限の手を掴んでいない方の手で、ナマエの手を掴んだ。
「一緒だね!」
「ええ。小黒、あなたのことも大好きよ」
「ぼくもナマエ好き!」
 なんだか楽し気に話している二人の声が遠く聞こえる。あれだけ逸っていた心臓はぴたりと凍り付いてしまったかのようで、全身が石となり、硬直し、ひびが入り、ついにはがらがらと音を立てて崩れていく。無限には今自分が地面に立っているかどうかもわからなかった。
「無限様?」
「師匠? だいじょうぶ?」
 様子がおかしいことに気付いた二人が声を掛けてくるが、なんとも答えることができなかった。今の衝撃が頭のてっぺんから足の先まで迸り、身体をばらばらに引き裂いている。何も考えられなかった。
 これは。
 つまり。
 ふられたのだろうか。
 くらり、と脳から血の気が引いていく。彼女が自分をそういう対象として見ていないことがはっきりとわかった。それがこんなにもショックだとは。
 ナマエは心ここにあらずな無限の様子を見て、不安になっていく。
 何かおかしなことでも言ってしまっただろうか。好きと言ってもらえたのはずいぶん前のことだ。それを未だに覚えていて、その回答だったというのは伝わっていないのかもしれない。
「あの、以前、無限様に好きと言っていただいたので、私もお伝えしたかったのですけれど……」
「……そう、か……」
 おろおろとするナマエに、無限はかろうじて返事をする。
 おかしい。それは夢にまで見た聞きたい言葉だったはずなのに。
 どうしてこんなに胸が痛むのだろう。
 ナマエの純粋に心配してくれるその瞳が今は辛い。
「……では、また……」
 よろり、と無限はナマエに背を向ける。小黒がとととと横に並んできて、無限の俯いた顔を覗き込んだ。
「なんか師匠具合悪いみたいだから、もう行くね」
「ええ、無限様、お大事に……」
 小黒に支えられるようにして去っていく無限の背中を、ナマエははらはらしながら見送った。

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