第三話 風



 森はますます大きく広がり、緑は生い茂り、豊かな霊質がたくさんの妖精を生んだ。虚淮がその子供を連れて来たのは、春も中ごろの暖かい時期だっただろうか。
「姉様」
 虚淮の手をぎゅっと握っていたその子は、ナマエを見付けるとつんつんと跳ねた髪の間から覗く黒い耳をぴくりと動かし、しなやかな尻尾をくねらせて、ナマエのそばへ駆け寄ってきた。
「あなたがナマエ?」
「そうよ。あなたのお名前は?」
「おれ、風息!」
 大きく開いた口に生えそろった歯はまだ小さいが、ちゃんと牙の形をしていた。
 風息はナマエの前でぴょんと跳ねると、黒豹の姿に変化した。足音を立てず柔らかな地面に降り立って、ナマエの周りをぐるぐると駆け回ると、虚淮の横を通り過ぎて、辺りを跳ね回った。
 家族が二人から三人に増えた。
 物静かな虚淮に大して風息はよく笑い、常に元気に動き回っていた。
「虚淮! 勝負だ!」
 そんな風に突然声を掛けては身体を沈めて飛び掛かる体勢を取り、水のようにとらえどころなく避ける虚淮をなんとか捉えようとじゃれついては、やすやすと転がされてナマエに毛についた泥を落としてもらうのが常だった。
「ふふふ」
 指で毛を梳いてもらいながら、くすぐったさと気持ちよさに風息は目を三日月型に細める。
「今日はね、虚淮の後ろをとったんだ! すぐ気付かれて失敗したけど……。次はもっとうまく気配を消すよ」
 そう言いながら、風息はナマエの膝の上で丸くなった。氷の冷たさをナマエが案じるも、ふかふかの毛皮があるから気にならないと風息は答えた。
 風息が寝るまでその頭を撫でていると、虚淮が帰ってきた。虚淮は風息が寝付くところだと気付くと、静かにその対面に腰を下ろした。
「ただいま帰りました」
「おかえりなさい」
 ナマエが風息の頭を撫でる感覚と、風息の呼吸が上下するリズムが同調し、虚淮もそれを見ていると眠くなってくるような気がした。

「この森はどこまで続いているの?」
 ある日、目を丸くしてナマエを見上げてきた風息を、ナマエは抱え上げて、空へ飛びあがった。いつも天井を覆っていた木々の枝が、あっという間に眼下へ遠のいていき、風息は歓声を上げる。
「もう根っこが見えないや」
 ナマエはさらに上昇を続け、風息の視界を広げてやる。
「ほら、どう?」
「うわぁ。ずっと続いてる!」
 風息はナマエの肩に手を置いて身を乗り出し、ぐるりと一周を見渡した。
「あれはなあに?」
「山よ」
「山?」
「あそこにはほとんど木が生えていないの。硬い岩が高く積みあがっているのよ」
「木がないところがあるの?」
 風息は思い切り顔を顰めた。それから首を真上にかくんと曲げて、頭上へ手を伸ばした。
「空が近いなあ」
「私はまだ、これ以上はいけないわね」
「そうなの?」
「ええ」
「空はどこまでも続いているの?」
「いいえ、何ごとにも果てはあるわ」
 ナマエは風息を抱えなおし、ゆっくりと森へ降りて行った。
 それから、さらに風息の行動範囲は広がっていき、虚淮やナマエの目の届かないところまででも平気で行ってなにごともなく戻ってくることが多くなった。

「ナマエ、この子を診てやってくれないか」
 あるとき、風息が病んだ妖精を連れて来た。掌に乗るほどの小さな少女の姿をした妖精は、苦しそうに胸を上下させている。
「花の妖精がどうして……。とにかく診てみましょう」
「頼む」
 ナマエは風息から妖精を受け取ると、風息に葉で寝床を作ってもらい、そこにそっと横たえ、手を翳した。
「……どうやら、精霊体を傷つけられたようね」
「そんなことができるのか……?」
「誰かがこの子を傷つけたのは確かよ。自然にこうなることはないわ」
「いったい誰が……」
 風息は眉間に皺をよせ、厳しい表情をした。
「この森に妖精を傷つけるやつがいるなら、許せない」
 怒る風息を、ナマエは落ち着いた声でたしなめる。
「まずはこの子の回復を待ちましょう。大丈夫、これくらいの傷ならしばらくすれば元気になるわ」
「……わかった」
 風息はなんとか逸る気持ちを抑えてナマエの隣に腰を下ろした。
 妖精は数日寝込んでいたが、ようやくうっすらと目を開いた。
「ここはっ?!」
「大丈夫よ、あなたを傷つけるものはいないわ」
 妖精ははじめ怯えていたが、二人の心を感応で探ると、敵意がないことがわかってほっと息を吐いた。
「いったい何があったんだ?」
「よく覚えてないの……」
 花の妖精は座りなおし、風息に答えた。
「たぶん、風の妖精だと思うの。私、吹き飛ばされちゃって、硬い岩の上に落ちたの」
「それでこんな傷を……痛かったでしょう」
 ナマエが指を差し出すと、妖精はそこに頬ずりした。
「ナマエさんのお陰で助かりました。ありがとう」
「あなたを見付けたのは風息よ」
「風息さんも、ありがとう」
 丁寧に頭を下げられた風息は、それよりも、と険しい顔で言った。
「その風の妖精っていうのはどういうやつだった? 教えてくれ」
「風息」
「この森で、妖精を傷つけるようなやつは許さない。必ず探し出す」
 花の妖精は自分が襲われた場所と、風の妖精の様子を風息に伝えた。それを聞いた風息は、すぐに飛び出して行ってしまった。
「姉様、今風息が飛んでいくのが見えたが」
「虚淮。あなたも追いかけてちょうだい。あの子がやりすぎないように」
 ナマエは虚淮に簡単に事を説明すると、虚淮に風息の跡を追わせた。そして、残った花の妖精を振り返る。
「あなたは、元の場所へ戻りたい?」
「はい」
「じゃあ、送っていきましょう」
 ナマエは妖精を掌に乗せると、ふわりと浮き上がった。

 一方、風息は風の妖精が去ったと思われる方角を探していた。
 木々を注意深く見ていると、木の枝が折れている箇所があるのがわかった。まるで竜巻が通った後のようだ。
 それは足跡のように痕跡を残していた。木の切り口を見れば、まだそう時間が経っていないのがわかる。当たりをつけて、風息はその跡を追跡した。
 ほどなくして、木々がざわざわと揺れている場所についた。明かに普通の風の仕業ではない揺れ方だ。
「風の妖精! お前に用がある。姿を見せろ!」
 風息の声に、木々の間から笑い声が返ってきた。
「お前が花の妖精を傷つけたんだろう。知ってるぞ!」
 馬鹿にするような笑い声に苛立ちながら、風息は声を荒げた。
「さあ、おれは知らないなあ。こうやってびゅんびゅん気持ちよく飛んでただけさ。ついでに何か吹き飛ばしちゃったかもしれないけど!」
 風息は昂る気を静めながら、声の聞こえる方角を見定めて、蔦を伸ばした。
「うわっ!」
 すぐに手ごたえを感じて、蔦を引き寄せる。
 蔦の先端には、足を掴まれた風の妖精がいた。四尺ほどの背丈のまだ若い妖精だった。
「お前に吹き飛ばされたせいで、花の妖精は怪我をしたんだ。謝れ」
「なんだよ、離せよ! お前に関係ないだろ!」
 まったく反省する様子を見せない風の妖精に、風息は蔦を大きく振るって妖精を驚かせた。
「わああっ」
 地面にぶつかる寸前で止めて、ゆっくりと妖精を引き上げ、自分の顔の前に向ける。
「この森で、悪いことをするのは俺が許さない。わかったか?」
「わ、わかったよ、ごめんよ! これからは飛ぶとき周りにもう少し気を配るから、殴らないで!」
「本当だな? 嘘だったら承知しないぞ」
「本当です! 本当!」
 必死に謝る風の妖精をじっと見つめていた風息は、ようやくその縛めを解いてやった。
「へんっ! 誰がお前なんかに従うか!」
「お前っ!」
 途端に風の妖精は風息に突風を浴びせた。だが、風息は蔦を自分に絡めて吹き飛ばされないように身体を固定し、他の蔦を風の妖精にまとわりつかせて地面に叩きつけた。
「ぎゃっ!」
「もう許さないぞ」
「たっ、助けて!」
 風息が拳を振り上げようとした瞬間、風の妖精の身体が地面から生えて来た氷に飲み込まれた。
「ひえっ!?」
「風息、その辺にしておけ」
「虚淮! 止めるなよ!」
 後ろから現れた虚淮に、風息は憤りをぶつけた。虚淮は風の妖精にちらりと目を向ける。
 風の妖精は氷漬けにされて青ざめ、震えていた。
「お前、風息の言う通りにするか」
「は、はいっ、言う通りに、しますっ」
「信じられない」
 がちがちとかみ合わない歯を鳴らしながら答えた風の妖精の言葉を、風息はばっさりと切り捨てる。先ほど嘘をつかれたばかりだ。
「ほほほ、骨身に染みました。おれが悪かったですっ、もうしませんっ」
「移動するとき風で木の枝をむやみに折るのもだめだ」
「はいっ、気を付けて飛びますっ」
「もし約束を破ったら、次はないぞ」
 風の妖精は何度も何度も頷いた。その様子を風息は腕を組んで見ていたが、ようやく虚淮に氷を解いてやるように伝えた。
 解放された風の妖精は、冷たさに赤くなった肌を抱きしめて体温を取り戻そうとした。
「俺の言葉、ちゃんと覚えておけよ」
「はい、すみませんでした……」
 風の妖精は許しを得ると、そっと後ろに下がり、木々の間を縫うようにへろへろと飛んでいった。
「まったく、困ったやつだ」
「帰ろう。姉様が待っている」
「ああ」
 そんなことがあってから、妖精たちは困りごとがあると風息に頼るようになった。

 風息は健やかに成長していった。次第に人型への変化もこなれてきて、耳と尻尾も上手に隠すようになった。
「風息」
 と呼んでも、彼が黒い耳をぴくりと立て、尻尾をぴんと伸ばす姿はもう見られない。
 感情を素直に表す機敏な器官が見られなくなることをナマエは残念がったが、子供らしい丸さも取れてきて、逞しい青年へと育っていくのはあっという間で、いつの間にか風息はナマエの身長を追い越していた。


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