第二十八話 花



 青空の下にいる二人の姿を見たら、もうたまらなくなって、ナマエは涙しながら駆け出した。
「洛竹! 天虎……!」
「ナマエ姉」
「ねえね」
 二人を抱きしめると、足から力が抜けそうになった。それを、洛竹と天虎、二人の手が優しく受け止めてくれる。確かに二人がここにいる。触れられるほどそばにいる。その温もりに、いっそうナマエの涙腺は緩んだ。
「ごめんな。ナマエ姉……ずっとひとりぼっちにしちまって」
「ごめん」
「いいえ。たいへんだったのはあなたたちの方よ。さぞ牢は冷たかったでしょう。こうして日向に出てこられて、私は……」
 その先は言葉にならなかった。
 龍遊の事件から数か月。季節は冬に差し掛かるころだった。洛竹と天虎の二人は牢の中での態度から、もう危険性はないと判断されて解放される運びとなった。ナマエは館長にそれを告げられて、ようやくこのときが、と天を仰いだ。
 しかし、虚淮に関しては解放は叶わなかった。彼は館に沿うつもりはない。まだ全員揃うことはできないが、ナマエの沈んだ心を引き上げるには充分すぎることだった。
 二人には館に部屋が用意され、まずは落ち着くまでそこで暮らし、その後どうするか決めることになった。ナマエはまだ虚淮が囚われているので館を離れる気はなかったが、弟たちの心はわからない。館には、故郷を追いやられた過去があり、龍遊事件でも計画を阻止された。あまり居心地がいい場所とはいえないかもしれない。
 そう心にとめながら、ナマエは次の日、ナマエは二人に館を案内した。館の妖精たちは事件の顛末を知っていたが、二人に気安く声を掛けてくれ、それにナマエはほっとした。少なくとも、館の方では彼らを受け入れる準備がある。
「ここが私の部屋よ」
 最後にナマエは自分の部屋に二人を招いて、お茶を振る舞った。
いままであまり飲む機会がなかっただろう二人は、その暖かさに鼻の頭を赤くした。身体に染み渡る温度が、自由の身であることの実感を隅々まで感じて、身体が震えた。
「おいしいな」
「うん」
 二人はしみじみとそう言って、味わうようにしばらく沈黙する。ナマエも胸がいっぱいで、どう言えばいいかわからないまま、ただ二人とお茶を飲めることに感謝の念を抱いた。
「お料理も習ったのよ。今度、二人にも作るわね」
「わあ、楽しみだ!」
「天虎にも、厨の使い方を教えるわね」
「うん」
 龍遊にいたころは、もっぱら天虎が食事当番だった。きっと器具を使った料理にも興味を持つだろう。ナマエの思った通り天虎は目を輝かせた。遠い記憶の中で、笑い合いながら囲んだ焚火を思い出し、ナマエはそっと眦を指先で拭った。
 その日の夕飯はナマエが作り、三人で食卓を囲んだ。

 翌日、小黒が無限と共にナマエの部屋を訪れた。
「ナマエ、洛竹たち、いる?」
「ええ。少し待ってね」
 ナマエは小黒たちを外で待たせ、一度部屋に戻り、洛竹と天虎に確認を取った。
「無限様と小黒がいらっしゃったわ。お会いする?」
 二人の名前を聞いて、洛竹の身体が強張る。しかし、しばらく考えてから洛竹は頷いた。
「うん。お願い」
 ぎゅっと握り締められた拳を見て、その心中を推し量りながらもナマエは小黒たちを招き入れた。
「洛竹! 天虎!」
「小黒……」
 小黒は二人の前に駆け寄ると、じっと二人を見上げた。洛竹はへたり込むようにその前に跪くと、小黒に頭を下げた。天虎も大きな体を小さく縮こませて、手を身体の前で気まずそうにこすり合わせた。
「ごめん。小黒。俺たち、お前を傷つけた」
「ううん。ぼく、気にしてないよ」
 深く頭を下げる二人に、小黒は顔をあげて、と促す。
「風息もね、最後に言ってた。ごめん、って」
 その言葉に、二人ははっとして言葉を失くす。そして、この小さな子が彼の最期を看取ったのだと再認識した。
「……っごめん、ごめんなっ……」
 洛竹は堪え切れず涙を零す。天虎も悲し気に目尻を下げた。
「お前が無事で、本当に、よかった……!」
「うん。ぼく、平気だよ」
 小黒はあくまで二人を責める気はないとそのつぶらな瞳で伝える。その純心すぎる色が、ますます二人を罪悪感に苛むことになる。そしてその聡い言葉に、救われる。
 洛竹は涙を拭い、立ち上がると、後ろに控えていた無限の方へ目を向けた。無限は静かにその視線を受け止める。
「……正直……あんたのことは、うまく、受け止められない」
 洛竹の脳裏には、まだ島を襲われた日の衝撃が生々しく焼き付いている。
「私が、憎いか」
 あくまで淡々と、無限は確認する。洛竹はぐっと顎を引いて、両手を握り締め、固く結ばれた歯の隙間から息を吐いた。
「……牢の中で、たくさん考えた。故郷を奪われたことは許せないよ。でも……傷つけるのは、もういやだ」
「うん」
 洛竹の考えた末に絞り出した答えに、天虎も同調する。ナマエはそんな二人を、やりきれない気持ちで見守っていた。
 それ以上言葉が続かないことを知ると、無限は小黒に声を掛けた。
「今日はもうお暇しよう。ナマエ、では」
「はい」
 小黒は無限のあとを追いかけながら、振り返って言った。
「洛竹、天虎。またね!」
 その笑顔に、洛竹はまた泣きそうになる。それを堪えて、なんとか笑みを作って返した。
「ああ、またな!」
 二人が帰った後、洛竹はまた泣き出してしまった。ナマエは涙が止まるまで、ずっと背を撫でてやった。

 弟二人との暮らしは、少しずつ積み上げられていった。天虎は料理に打ち込み、洛竹は生来の気質で館の者たちと打ち解け、あちこちによく呼ばれていた。
 二人は少しずつだが、館の生活に慣れていった。
 反対に、無限と過ごすことはほとんどなくなっていた。部屋を訪れるのは小黒だけで、無限は顔を出さなくなった。洛竹と天虎に気兼ねしているのだろう。それは察していたが、扉を開けて、小黒の後ろに誰もいないことを確認すると、少しだけ落胆する自分に気付いた。
 だが、きっとこれが当然なのだ。
 無限は忙しい。その執行人を、他愛ない戯れに引き留めてしまうのは損失だ。そう自分に言い聞かせて納得するが、寂しい、という思いは拭えずにいた。
「ねえ、今度街に行くんだけど、ナマエも一緒に行かない?」
 そんな誘いを受けたのは、紅泉と紫羅蘭の二人と談笑しているときだった。
「街に?」
「そう。この前服が欲しいって言ってたでしょ?」
「ええ。ということは、人の中に……」
 ナマエは自分の漢服を見下ろす。
「そうだ、よかったら服貸しますよ!」
 その視線に気付いて、提案してくれたのは紫羅蘭だった。
「身長は私の方が小さいけど、ナマエさん細いから大丈夫だと思うし」
「それは助かるわ」
 また服を造るのは大変だと思っていたところだったので、ナマエは心からそう答えた。三人で当日の首尾を話し合って、部屋に戻ってそのことを洛竹に話すと、洛竹も一緒に行くと言った。
「俺、ナマエ姉の護衛するんだ」
「護衛?」
「実は、牢を出るとき館長に言われたんだ。ナマエ姉の力は狙われる危険性があるから、傍にいなさいって」
「まあ、そんなことを」
 潘靖がそこまで気を回してくれていたとは思わず、ナマエは素直に感謝した。
「天虎は人になれないし、虚淮もいないから、俺だけじゃ頼りないかもしれないけど」
「そんなことないわ。あなたがいてくれたら頼もしい」
 謙遜する洛竹にそう答えてから、これなら無限の手を煩わせる必要はないのだな、と考えた。小黒も守ってくれると言ってくれたが、実際、何度も付き合わせるのは気が引ける。
「磊塊に襲われた話も聞いた。本当に、俺が傍にいない間にナマエ姉に何かあったらと思うと、生きた心地がしなかったよ」
 その表情は、もう何も失いたくない、と語っていた。ナマエも同じ気持ちだ。残った家族、全員で一緒にいられることがナマエの願いだ。
「そうだ、ナマエ姉。ひとつだけいいかな」
「なに?」
 洛竹は軽く唇を噛んで、言い淀んでから、口を開いた。
「……風息の樹。会いに行きたい」
「……そうね」
 きっと、ずっと考えていたのだろう。様々な思いがその瞳から滲んでいた。
「そこまでなら、天虎も行けると思うわ。紅泉たちにも話しておきましょう」
「うん」
 後日二人に打診したところ、二人とも快く寄り道することを承諾してくれた。洛竹も館の知り合いに洋服を借り、その日に備えた。

 当日は空気がしんと冷えた晴れの日だった。
 館に飛行妖精を借りて、風息の樹まで一直線に向かった。洛竹と天虎は、その樹を見上げて、言葉もなく佇んだ。
 ナマエはその枝ぶりを見て、先端が彼の身体を貫いた場面を生々しく思い出してしまい、目を伏せた。
「……風息……」
 どうして行っちゃったんだよ、と洛竹は樹の幹に額を押し付け、呟く。天虎は無言だったが、じっと樹を見つめたまま、動かなかった。
「……辛いわね」
 紅泉も口元に手を当てて、ひとりの妖精を悼んだ。
「これがその樹なんですよね」
 あの日、私もここにいました、と紫羅蘭が小さな声でナマエに言った。
「館から、すぐに避難するように言われて、館に戻ることになりましたけど……。ここまで復興するまで、しばらくかかりましたよ」
「そうだったの……」
 ナマエは周囲を見渡す。あの日、たくさんの建物が破壊された。今もまだ、更地が残っているが、新しい建物が建てられている部分もあった。
 黙祷が済んだあと、天虎は飛行妖精に乗って帰り、ナマエたちは街中へ向かった。
 ナマエは何も勝手がわからないので、紅泉と紫羅蘭についていく。二人は途中の屋台を覗いたり、並んでいる店の用途をナマエたちに説明してくれたり、足を向ける先をふらふらさせながら、ようやくショッピングモールへと入っていった。
「ここにいはいろいろなお店があるのよ。一揃い揃えるには便利だから」
「服と、靴と、それから下着も必要ですよね!」
「し、下着!?」
 紫羅蘭の言葉を聞いて、洛竹はぎくっとする。だがそんな洛竹を尻目に、女子たちは俄然張り切ってナマエの背をぐいぐい押しながら、店を物色し始めた。
「こういう、大人っぽい落ち着いた雰囲気の服が似合いますよねー、ナマエさん!」
「うーん、ちょっと地味すぎるかな……。もっとフェミニンにいってもいいと思う!」
「そうですね……。あっ、このレースの襟かわいい!」
「それかわいい! ね、ナマエ、試着してみて」
 二人に引っ張られるままナマエは試着室に入り、ナマエは何着か着替えてみる。
「どうかしら……」
 二人がじっとナマエを見つめている間、ナマエはどきどきしてその答えを待った。紫羅蘭は両こぶしを握り締めて言った。
「どれも似合う!」
「私、特にこれがいいと思うわ」
「洛竹はどう?」
 紫羅蘭は洛竹を振り返った。洛竹はぼーっとしながら答える。
「……どれもかわいいと思う……」
「あはは、見惚れてる」
「いや、だって、見慣れないから……」
 洛竹は赤い顔を誤魔化すように手を振りながら、でもきれいだ、と改めてナマエを見た。こんな風に着飾るナマエを見るのは初めてだ。
「人間って、おしゃれなんだな……」
「本当に。服の種類がこんなにあるなんて」
 ナマエも疲れて溜息を吐きながら、売り場を眺める。彼らの生産力は想像を絶していた。ナマエ一人ではどれを買えばいいかわからず、一生売り場を彷徨っていただろう。
「じゃあ、これとこれを買おう。次はあっち!」
 紅泉と紫羅蘭はてきぱきと買うものを決め、決済してしまうと、袋を抱えて次の店に向かった。
「荷物、持つよ」
「え、でも」
「みんなは選ぶのに忙しいだろ?」
「それじゃあ、お願いね」
 洛竹はそう言って、紫羅蘭から荷物を受け取った。さらに二三店舗回って服を買い、靴を買い、下着を選ぶことになった。
「洋服を着るときは、それに合った下着を着た方がいいよ」
 と、紅泉がナマエに説明する。洛竹は売り場が目に入ると、ぱっと顔を背けて立ち止まった。
「ごめん、俺、この辺で待ってるから!」
 そう言って見付けたベンチの上に荷物を下ろす。そんな洛竹をナマエは振り返り、休憩もせず連れまわしていたことに気付いた。
「そうね。少し休んでいてちょうだい。すぐ見てくるわ」
 三人の話し合う声が遠のいて、洛竹ははああと息を吐いた。確かに、いろいろと気を張っていて少し疲れたかもしれない。だが、館に帰るまで気は抜けない。少し離れてしまったけれど、警戒は怠らないようにしよう、と洛竹は自分に言い聞かせた。
 言葉通り、それほど時間を掛けずに戻ってきたナマエたちと合流して、買い物は終わりとなった。モール内のカフェで軽食を摂り、帰ろうというところで紫羅蘭が手を挙げた。
「あの、よかったら私の店を見ていきませんか?」
 紫羅蘭はこの街で花屋を営んでいる。今日は定休日だった。それを聞いていたナマエは、ぜひ店舗を見たいと思った。
「洛竹、いいかしら」
「うん。ナマエ姉が行くなら」
 その花屋は、風息の樹のほど近くにあった。
「なんとか、店は壊れずにすみました。中はぐちゃぐちゃになってましたけど……」
 紫羅蘭は苦労を見せない笑顔でそう説明しながら、シャッターを開ける。あの熾烈な戦いを、この建物も耐えたのだと、ナマエと洛竹は店内に咲く色とりどりの花を感慨深く眺めた。
「私、花の妖精だから。花屋って、素敵なんですよ。花の力で、人を笑顔にするの」
「人を笑顔に……」
 紫羅蘭の言葉を聞いて、ナマエは洛竹の得意とする技を思い出した。小黒を歓迎したあの夜にも見せていた、花を降らせる技だ。洛竹もそれを考えていたのだろう、ナマエと目を合わせると、ちょっと笑ってみせた。
「私、無限様に助けられたから。それから、館に住むようになったけど、花と触れ合っていたかった。そのときに花屋っていうのを知って。ぴったりだなって思ったんです」
 紫羅蘭は店先に置いた花たちを眺めて、微笑みを浮かべる。
「そういう選択もあるんだな」
 洛竹は店を見渡しながら、ぼんやりと呟いた。ナマエは何を考えているのだろう、とそんな洛竹を見つめる。
「人間も、花が好きなのか?」
「そうだよ! 毎日、たくさんの人が買いに来てくれるの」
「へえ」
 ナマエは紅泉と共に下がって、洛竹が店を見分しながら紫羅蘭と話すのを見守った。充分に話した後、紫羅蘭はふたたびしっかりとシャッターを締め、館に帰ることになった。
 買い物中は振り回してしまったかと思ったが、洛竹にとっても人の世界を見るのは収穫があったようだ。じっと考え込んでいる風の洛竹を見ながら、ナマエはそんな風に感じた。

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