第二十七話 湖



 ナマエはもう一度鏡の前に立って、くるりと身体を捻り、全身を確認してから戸を開けた。そこには無限と小黒が立っていた。二人とも洋服である。ナマエは心の中で改めて若水と紅泉に感謝した。
「お待たせいたしました」
「うん! 行こう!」
 小黒が元気に言って無限の手を引っ張って歩き出そうとしたが、無限はすぐに動かなかった。
「無限様?」
 その目はじっとナマエに注がれている。ナマエは髪に手をやり、自分の身体を見下ろして、やはりおかしかっただろうか、と頬を赤く染めた。紅泉に見せてもらった雑誌の通り、スタンドカラーのブラウンのコートと、ラベンダーのシフォンスカートにショートブーツを合わせている。
「その、すみません、こういう服には慣れていなくて……」
「師匠?」
 小黒に再度手を引っ張られて、無限ははっと目を瞬いた。
「いや。行こう」
「わっ、もう、なんだよ!」
 そう言うと、そそくさと足早に、小黒よりも先に行くので、今度は小黒が無限に引っ張られる形になった。ナマエは服を替えるわけにもいかず、慌てて二人の後を追いかけた。

 館を出た後は、電車を乗り継いで、龍遊の北の方へ向かうことになった。ナマエが風息たちと過ごしていたのは中央の辺りだったが、ナマエ自身の生まれは北だ。ナマエが生まれた湖も北にあるはずだった。今はどんな姿になっているだろうと思うと、胸が軋んだ。
 電車の窓から見る風景は、どこまでも家並が途切れずに続いていた。こんなにたくさん人間が住んでいるのかと驚く。風息たちの落胆もそれは深かっただろう。しかし、ある程度進んでいくと、家並みが途切れ、畑になり、ついには森が姿を現した。それを見て、ナマエの胸はどきんと高鳴る。妖精たちが住んでいる可能性は低いだろうが、それでも期待をせずにはいられなかった。まだ、自然が残っている部分もあるのではないか。人間はまだすべてを支配したわけではないのではないか。
 都市部から離れていくほどに人間の数が減り、森林が増えていく。
 だが、しばらく見ているうちにその森林も昔に比べて痩せていることにいやでも気付くことになった。霊質の気配が薄い。あれでは新たに妖精が生まれるのは難しいだろう。
 窓の外を見て表情を曇らせるナマエを、無限は隣でそっと伺っていた。
 ようやく目的の駅について、ナマエたちは電車を降りた。ここからは歩く予定だったが、無限は自分の霊域から赤いバイクを取り出すと、後ろをぽんと叩いて見せた。
「これで移動しよう」
「ええと……」
 どうすればいいか困惑するナマエに、無限はバイクに跨って見せる。小黒は猫の姿になって、前の籠にするりと収まった。
「大丈夫だよ! こいつ、結構速いんだ」
「まあ、そうなの……」
「さあ、乗って」
 無限に促され、ナマエはどきどきしながらそこに跨った。手の置き場に困っていると、無限が後ろに手を伸ばしてきて、ナマエの手を掴むと自分の腰に回させた。
「しっかり捕まっていて」
「えっ、あの」
 そうすると、無限の背中にほとんど密着する格好になるので、ナマエは慌てた。なるべく寄りかからないようにしないと、と身体に力を入れたところで無限がバイクを走らせたので、ナマエは後ろに引っ張られるような衝撃に驚き、ぎゅっと無限に抱き着いた。
 その仕草に、思わず無限が笑い声を上げる。ナマエはぱっと赤くなったが、声を上げようにも、前から吹き付ける風が強くて、口を閉じて無限の後ろに隠れるように首を竦めた。
 バイクは塗装されていない田舎道をガタガタと揺れながら走り、山へと入っていく。髪を乱す風に、ときおり懐かしい匂いが混じっているような気がした。
 山の中腹ほどまで登ると、小さな集落に行きついた。そこで一度道端にバイクを止め、端末の地図を確認する。地図上では、湖と思われるものは表示されていない。無限は近くを通った現地の人にこの辺りに湖はないかと訊ねたが、首を振られてしまった。やはり残っていないのか、とナマエは音を立てずに息を吐く。
「どうする?」
「……この辺りまで、行ってもいいでしょうか」
 無限に確認され、ナマエはこれが最後、という気持ちで地図の北東を示した、記憶に間違いがなければ、過去に湖はここにあった。
 バイクでその辺りまで向かうと、大きな工場地帯に出た。ナマエは無限の後ろから首を伸ばし、それを見上げる。これを建てるために、埋め立てられてしまったのだ。
「ここで止まってください」
 ナマエは無限に頼むと、バイクを降りて工場の裏手に向かった。そこには小さな池があった。
「……これが?」
「……はい」
 そこにしゃがみ込むナマエを見て、無限は控えめに声を掛ける。小黒はナマエの隣まで小走りで駆け寄り、その池を見つめた。
「小さいね」
「ええ……」
 池は緑色に濁っていた。ナマエが覚えている湖の百分の一ほどにまで小さくなってしまっている。
 ナマエは立ち上がり、周囲を見渡す。工場の裏は森がそのまま残っていた。
「周囲を見てもよろしいでしょうか」
「あなたの気が済むように」
 ナマエの問いかけに、無限も小黒も頷いてくれた。ナマエは人目がないことを確認して飛ぶと、森へ入っていった。やはり懐かしい匂いが残っている。それだけで胸がいっぱいになった。小黒と無限があとをついてきているのを感じながら、心が逸り、あちらへ、こちらへ、と足を向ける。あの頃の記憶が蘇ってくるほどに、その落差に涙が滲んだ。
 人里から離れると、少しだけ霊質が濃くなってきた。まだ自然は残されていた。虚淮が見たら、すっかり変わってしまったと落胆するだろう。それでもナマエは、それが確認できただけでも嬉しいと思えた。
「ナマエ」
 そろそろ帰りの時間を意識しなければならないときだ。無限に呼ばれて振り返ろうとしたとき、ナマエは誰かの悲鳴を聞いた。
「あれは」
 即座に無限が飛び出し、ナマエは小黒を抱えて無限を追いかける。
 無限が見付けたのは、無我夢中で走る、傷ついた妖精だった。何かに怯え、逃げているようだ。無限は彼が逃げる方向とは反対に舵を切る。ナマエは小黒と共に傷ついた妖精を追いかけた。
「た、助けてください!」
 妖精はナマエに気付くと、手を挙げて懇願した。ナマエは彼の前に降り立ち、もう大丈夫、と慰める。
「もう逃げるのは終わりか?」
 彼のあとから茂みをかき分け現れたのは、大きな蜥蜴だった。ナマエはその顔に見覚えがあることに気付く。蜥蜴の方も、ナマエを見て眉を顰め、ああ、と目を見開いた。
「お前……! あのときの氷の妖精か」
「磊塊……!」
 ナマエも思い出した。かつて、悪事を働き風息に懲らしめられた妖精だった。風息に術と霊質を奪われ弱っていたのは過去のことだ。あれからずいぶん時間が経った。当然もう元のように動けるようになっているだろう。ナマエは怪我をした妖精を庇うように立ち、小黒もその隣に立って牙を剥いた。
「知ってる人?」
「昔に。もう会うことはないと思っていたわ」
「つれないことを言うな。こっちはやり返す日を心待ちに修行を続けたんだぞ」
 蜥蜴は長い舌を伸ばし、舌なめずりをする。
「その日がとうとう来た! 俺はついてる」
 一歩足を前に出し、ナマエをねめつけた。
「聞いたぞ。お前は治癒系なんだってな。そうと知っていればあのとき食ってやったものを。こうしてまたお前は俺の前にやってきた! そうだ、俺に食われるために!」
 磊塊は柘榴の身が裂けるように、大きな口を開けた。
「させるものか」
 無限が磊塊とナマエの間に降りてきて、磊塊を睨みつけた。
「なんだ、人間風情が」
「同胞を傷つけたことは許されない。連行する」
「連行? ハッ、館の執行人……まさか、お前が」
 無限が執行人であることを知り、磊塊はぐぅ、と唸った。最強の執行人、無限。その名を知らない妖精はいない。
「ちくしょう、俺は捕まらんぞ!」
 やけを起こして磊塊は無限を睨み、その動きを封じようとした。後ろにいた小黒もナマエも、身体が動かなくなったが、無限は一瞬ですら囚われることはなく、まっすぐに磊塊に金属板を飛ばす。その板は磊塊の頭を殴り、気絶させると、動けないように縛り上げた。
 それと同時にナマエと小黒の身体が自由を取り戻し、小黒は師匠! と叫んで無限に駆け寄った。
 ナマエは妖精を振り返り、その傷の具合を確かめる。
 妖精はもう危険がないことを知ると、ふっと緊張を解いてその場に崩れ落ちた。呼吸は浅く、傷は深い。
「大変だわ。これでは」
 命に係わる。ナマエはすぐに力を使おうとしたが、呼び止められた。
「ナマエ」
 無限は縛り上げた磊塊の見張りを小黒に任せ、厳しい表情をナマエに向けている。
「彼の容体は」
「危険ですわ。でも、すぐに手当をすれば……」
「それは、あなたの霊質を削るという意味か」
「はい」
 ナマエは迷わず頷いた。無限はやるせなさそうに眉を下げ、跪いてナマエの顔を覗き込んだ。深碧の瞳に映ったナマエの表情は、ずいぶんと頑なだった。
「山火事のことを覚えているか」
「……はい」
 あのときは、ナマエも無茶をしたという自覚がある。しかし、今回は霊質もあり、体調もよく、万全だ。
「あのときの思いを、もうしたくない」
 無限の真摯な瞳は、ただただナマエを案じる色に満ちている。その色に見つめられて、ナマエは困惑した。力を使うなと言われているわけではない。ただ、無茶はしてはいけないと、静かに諭されている。そんな瞳だ。
「あなたが倒れては意味がない」
「ナマエ……」
 小黒も心配そうに成り行きを見つめていた。ナマエは二人の気持ちを受け止めて、微笑んでみせた。
「ありがとうございます。もう無茶はいたしませんわ」
 そして、怪我人に向き直った。
「すぐによくなりますから」
 ナマエは彼に治癒術を施した。妖精は驚いたように目を開けて、自分の身体を見つめ、ナマエを見上げた。
「本当だ……。これが治癒系の力なんですね。ありがとうございます……!」
 何度も頭を下げる妖精に、ナマエは手を振った。
「今の私では、完全に治せておりません。回復するまで、館で休養することをお勧めいたしますわ」
「館……。でも、私が行ってもいいんでしょうか」
「ああ。歓迎する」
 無限は戸惑う妖精に頷いて見せた。妖精は獣の姿をしている。人間の姿になれないので、こうして山奥でひっそりと生きて来たのだろう。妖精は無限に深く頭を下げた。
「お世話になります」
 無限たちは電波の届くところまで降りると、館に連絡し、迎えに来てもらうことになった。
 館長に妖精たちのことを任せると、ナマエたちはナマエの部屋に戻った。ナマエがお茶を淹れようとすると、無限に止められた。
「私が淹れよう」
「でも……」
「座っていなさい」
 有無を言わせずそう言われてしまって、ナマエはどうしようかと思案したが、小黒にも手を引かれて、座って! と言われてしまったので、そうすることにした。無限は水壺に水を入れ、火に掛ける。沸騰したところで火を止め、茶器と共に運んだ。茶葉を適量茶壷に入れ、お湯を注ぐ。二分ほど蒸らし、茶杯に注ぎ入れた。匂い立つ茶葉の香りを、ナマエは胸いっぱいに吸い込む。
「冷ました方が」
 無限はすぐに手を伸ばしたナマエに気遣うように言ったが、ナマエはにこりとして言い返した。
「すぐに温くなりますわ」
 ナマエの手から発する冷気が、茶杯の温度を下げていく。小黒はふーふーと息を吹きかけていたが、ぼくも、とナマエに頼んで温くしてもらった。
 お茶は無限に淹れてもらったと思うと格別に美味しく、胸が満たされていくようだった。力を使って疲れただろうと配慮してくれているのが嬉しい。ナマエも全力は使わず、ある程度のところで止められたので、以前のように倒れずに済んだ。
「あの磊塊ってやつ、どんなやつだったの?」
 小黒に訊ねられて、ナマエは過去の出来事を二人に話した。以前伝えたときには詳細までは語っていなかった。風息のことを話すとき、胸がつきんと痛んだが、なんとか涙は流さずに話すことができた。彼の存在が、過去になっている。そう自覚することは、寂しいことだった。だが、ナマエが前に進んでいる証拠でもある。風息はきっと、ずっと泣き暮れて立ち止まることをよしとはしないだろうから。
「あいつは、あなたが治癒系だと知っていた」
「はい。あのころは、力を使うこともありましたから」
 ある程度は知られてしまっているのは覚悟の上だった。
「けれど、あんな風に……、直接、私を狙う言葉を言われるのは、初めてでした……」
 あのときは弱った妖精を助けることに手一杯だったが、これが老君が言っていた気を付けるべき理由だったのだ、と改めて感じた。
「館長も、それを案じていた」
「そうでしたの」
 館長とは、過去館にいたときに親しくしていたことがある。そのときに自分の力を伝えることがあった。その館長、潘靖の館に身を寄せるようになったのも因果だろうか。事情を知っている妖精がいてくれるのはありがたい。そして、潘靖が伝えておいた方がいいと考えて、無限にナマエの事情を話してくれていたのだろう。それを今回初めて知った。それをありがたいとナマエは感じた。もし、磊塊と対峙するとき一人だったら、果たして抗えていたか、ナマエにはわからない。無限と小黒がいてくれて本当によかったと思った。
 弟たちのために、ナマエはまだ死ぬわけにはいかない。
「だから、私があなたを守る」
「無限様……」
 無限はまっすぐにナマエを見つめ、そう宣言してくれた。
 がたんと音を立てて、小黒が椅子の上に立ち上がって身を乗り出す。
「ぼくも! もっと強くなって、ナマエのこと守るよ!」
「ありがとう、小黒」
 ナマエはその頬を撫でてやる。小黒はくすぐったそうにへへと笑った。
「どこかへ出かける必要があれば、私たちを呼んでほしい。任務があるから、あまり頻繁には行けないかもしれないが」
「そんな。何度もお手間をおかけするのは」
 ナマエは言いさして、ふと心にあの言葉が浮かんできた。
 ――私があなたに会いたいんだ
 ――あなたのことが好きだから
 いや、そうじゃないとナマエは首を振る。あまり頼って迷惑を掛けてはいけない。
「ナマエと出かけるの楽しいもんね!」
 そんなナマエの胸中に構わず、小黒はあくまでそう言ってくれた。まっすぐな言葉に、ナマエは思わず絆される。小さな小黒の言葉が、とても頼もしく感じた。
「そうね。私も小黒ともっとお出かけしたいわ」
「ほんと? じゃあ、今度どこ行こうか!」
「あ、でもその前に……」
 ナマエは自分の服装を省みる。
「洋服を用意しないと」
 造物系で服を作ったのは緊急措置だ。できれば、何着か用意しておいた方がいいだろう。若水や紅泉にまた相談してみよう、と考えた。
「服……」
 そう呟いて、無限がナマエを見つめる。朝と同じ視線だ、とナマエはぱっと頬を染めた。やはり変だったのだ、と慌てて立ち上がる。
「あの、着替えてまいります」
「いや」
 すっと腕が伸びてきて、ナマエの手を捕まえた。無限は立ち上がって、じっとナマエを見つめる。どうすればいいか弱って、ナマエは無限が何か言うのを固唾をのんで待った。
 無限はナマエから目は離さないまま、掴んだ手の力を緩める。
「……似合っていると、言おうと」
「え……」
 そう言われただけでナマエの胸が弾んだ。先ほどまでの緊張でどきどきしていたのとは全く違う高鳴りだった。
 無限は咳払いをして気まずそうに目を逸らすと椅子に座った。ナマエは着替えてくるタイミングを逃してしまって、どうしようか迷い、そっと椅子に座りなおした。まだ胸がどきどき言っている。胸に手を当てて、呼吸をしようとしたが、うまくいかなかった。
 そんな二人を、小黒は訝し気に眺めていた。

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