第二十六話 服



「あのね、師匠を待ってる間、ナマエといっぱい遊んだんだよ!」
 小黒は無限に、ご機嫌で留守番中にしたことを話した。
 無限は、約束通り三日で戻ってきた。その間、ナマエは小黒が寂しくないように、いろいろとやることを見繕ってやって、無限の帰りを待った。
 思っていたよりも明るい小黒の表情を見て、無限はナマエに感謝した。小黒を弟子にしてから、いつかはこういう日が来ると予測はしていたが、どう対応するか決めかねていた。ナマエの方から小黒を預かることを申し出てくれたことは本当にありがたいことだった。
 弟子ではあるが、ただ戦い方を教えるだけではまだ幼い小黒には足りないことはわかっている。できる限りいろんなところへ連れて行き、たくさんの経験を積ませてやりたいのはやまやまだ。だが幼いからこそ、まだ連れて行けない場合もある。そういうときに、ナマエのように小黒が懐いている妖精がいれば、安心して預けることができる。ナマエも、小黒を弟の一人のように思ってくれている。それを再確認できたことは小黒にとってもよいことだろう。
 無限がいままで避けてきた館にこうも頻繁に通うようになって、いまのところ問題は顕在化していない。不満を持つ妖精もいるだろうが、館長もまだ警戒するまでには至っていない。
 これは無限の我儘だ。
 小黒を姉と慕う妖精の元へ会わせてやりたい思いも本当だが、自分自身が彼女に会いたい想いを抱いていることも本当だった。
 彼女があまりに嬉しそうにそれを受け入れてくれるものだから、つい、その気持ちを正直に伝えてしまった。わざわざそんなことを言って、訝しまれたかもしれない。だが、迷惑に思われていないことにどうしても嬉しい気持ちが湧き上がってきてしまう。
 その気持ちを自覚したのは、小黒を館に連れてきて、そのまま預けるはずが、自分の弟子として迎え、館を離れたあとだ。
 小黒と二人で簡単な任務をこなしたり、小黒を遊びに連れて行ったり、各地を転々としていた。そんなおり、ふと胸に浮かんでくるのは大樹の前で呆然としていた彼女の顔だった。
 館にいれば身の安全は保障されるが、その心までは癒せまい。なにより、彼女の身内は全員囚われているのだ。それを指示した己に何が言えるのかとも思ったが、喪失の悲しみにくれた彼女を目前にしたのもまた己だけだ。
 そんなことを考えていると、すぐにも館に戻りたくなった。館長に会うという弁明を作って、小黒に訊ねれば神妙な顔でぼくも行きたいと頷いてくれた。
 館について、いざ彼女の現状を知った時には目の前が暗くなるほど衝撃を受けた。
 力を使い果たし、倒れたなど想像もしていなかった。
 守るべきものを守れなかった自責が彼女を追い詰め、自傷も厭わないほどに苦しんでいたのか。思わずそう考え、胸が痛くなった。
 そして改めて、彼女の傍にいたいと願うようになった。
 また無理をして倒れないよう、悲しみに飲まれて溺れてしまわないよう。
 いつまでもずっと、何があろうとも、己が傍にいる。
 そのことを知ってほしくて、館に足を運んだ。
 そのうちに、少しずつ笑顔が増え、明るくなっていくようだった。
 牢の弟たちと面会し、風息の安息を祈り、大樹に向き合うまで回復し、彼女の笑顔から翳りが薄くなっていく。その様子を見守れることが嬉しかった。
 小黒を慈しみ、己にまで感謝の笑みを向けてくれる彼女に、ああ、好きだと思った。
 彼女にずっと笑顔でいてほしいと望みが湧いた。
 悲しみを受け止め、支え、沈みこまないよう手を引きたいと願った。
 思い出の中の彼女には、いつもどこか憂いがある。
 彼女を翳らせるものが何か知りたいと思った。それをこの手で払えないかと切望した。
 彼女という存在に、いつから心が惹かれていたのか。
 幼いころに邂逅した氷の妖精の儚い美しさと、今こうして言葉を交わし、茶を飲み交わし触れ合える距離にいる彼女のたおやかさ。
 そのどちらも今己の心の深いところにあって、想いを湧き上がらせている。
 この想いを身体中に巡らせて、彼女を見つめこの瞳いっぱいに映している間、どれほど安らぐことだろう。
 彼女の幸せを心から願う。
 ただ、それほど綺麗な感情ではない。その幸せを与えるのが、己以外の誰かだとなると話は別だ。できることなら、己がその役割に選ばれたい。彼女の瞳にも己が映ればいい。それは自分勝手な願いだ。そこまで彼女に押し付けるつもりはない。
 ただ、知っていてほしかった。
 彼女を案じているだけでないことを、伝えたかった。
 思い返すと、ずいぶん子供っぽい行動だ。
 そんなことを言われて、彼女も困ったことだろう。
 幸い、今も変わりなく接してくれている。
 彼女の淹れるお茶は温めで、優しい味がする。
 小黒は数日一緒だったためか、ずいぶん彼女と打ち解けたようだ。
 今もすっかり彼女に甘えている。
 そんな姿を見てつい“羨ましい”などと思ってしまう自分に苦笑した。
「師匠、今度はちゃんとぼくも連れて行ってよ!」
 ナマエに甘えていたと思っていた小黒がいつの間にか目の前にいて、そうして釘を刺す。あまりにも真剣な表情が愛らしくて、無限は頷きながらその頭を撫でてやった。小黒はそれを振り払うことなく、約束だからね! と鼻を鳴らす。
「しばらくは休みだ」
 だから、と無限はナマエの方を見た。
「今回のお礼もかねて、どこかへ出かけないか」
「どこか、ですか?」
 ナマエは目を瞬いて、袖で口元を隠す。彼女の癖のようだが、白い梅に滲む桃色のような唇が隠れてしまうので、無限は不満だった。
「そうですね……」
「ずっと館にいても変わり映えしないだろう。街も今は落ち着いているし」
 季節は冬に入ろうとしているころだった。ナマエはそれなら、と控えめに口を開いた。
「故郷の辺りを、見たいですわ」
 龍遊の大半は開発が進み、人間が住んでいるが、ナマエが生まれた湖自体は山の奥深くにある。そこはまだ手つかずのはずだ。
「私の生まれたところを」
 一瞬、無限は眉根を寄せる。今も手つかずでいる確率は低いと思えたからだ。だが、それを口にはしなかった。
「ぼくも行く。行っていい? ナマエ」
 小黒が無限の膝に手をついて、背伸びをして存在を主張する。ナマエはくすりと笑ってもちろん、と頷いた。
「今どうなっているのか、知りたいですわ」
「……わかった。では、そうしよう」
 さっそく翌日に出かけることになった。

 ナマエはそのことを紅泉と若水に話した。
「ってことは、街に出るってこと?」
「いままでナマエって街に行ったことあった?」
 二人にそう訊ねられて、ナマエは首を振った。
「行ったことはあるけれど、少ない時間ではあるわね」
 今回はある程度長旅になるから、人間たちの中にいる時間が長くなることに、ナマエも気付いた。
「じゃあ、洋服持ってないでしょ?」
 若水がナマエの袖を引っ張りながら訊ねる。その通りだった。深く考えていなかったが、そういえば、今ナマエが来ている服装は人間たちの中では馴染まないかもしれない。妖精とばれてしまうのはご法度だ。
「どうしましょう」
 いまから服を買いに行く時間はない。若水と紅泉は顔を見合わせ、ナマエを紅泉の部屋に引っ張りこんだ。紅泉は困っているナマエに、数冊の雑誌を見せた。
「ほら、これ。人間のファッションが載ってるの。これを参考にして造物系の力で服装を変えれば問題ないわよ」
「なるほど」
 助かったとほっとするナマエの横で、若水はさっそく雑誌をぱらぱらと捲り始める。
「今は寒くなってきているから、コートがいるわよね」
「まだ秋物でいいんじゃない?」
 わいわいと意見を交わす二人の言葉はナマエにはちんぷんかんぷんで、ナマエはただ二人が決めることに従うことにした。きっとそれが確実だ。二人は人間についてよく知っているようだから。
「ナマエ、これとこれはどう?」
「こっちも素敵だなー。どれがいい?」
 いくつか案を出されて、ナマエは目を細めてそれらを見比べる。裾の丈がいつも着ている服より短いし、袖も長くなく、腕の形に沿ってぴったりとしている。
「着てみないとやっぱり雰囲気わからないわよね。ナマエさん、一回着替えてみて!」
 若水にそう言われてもっともだと思い、ナマエは候補のうちひとつをじっくりと観察して、霊質を用いて衣を変えてみた。
 ゆったりとしていた服と比べて、やはり全身ぴったりとしている。紅泉が姿見を持ってきてくれたので、それでおかしなところがないか、どんな塩梅かとナマエは横を見たり後ろを見たり、身体を捻ってみた。
「どうかしら……」
 それでも自分ではよくわからない。横から覗き込んできた若水は、両手をぽんと合わせてぱっと笑った。
「似合う! 素敵!」
「いいじゃない。ねえ、こっちも着てみて」
 紅泉に言われるまま、いくつか試してみる。何回か繰り返していると、少しずつ洋服の着心地にも慣れてきた。
「このスタンドカラーのコートとシフォンスカートの組み合わせが一番いいんじゃないかしら」
「うん、そうね!」
 何着目かに着替えたところ、二人は腕を組みながらじっくりとナマエを見て、何度も頷いた。ナマエも、ようやく洋服を着た自分の姿が見慣れてきて、案外悪くないのではないかという気がしてきた。
「これにしようかしら」
「うん、決定!」
 紅泉も若水も嬉しそうに頷いてくれて、ナマエは浮足立っている自分に気付いた。龍遊の変わりようを見ているから、故郷がどうなっているか、ある程度覚悟はしている。だから、行楽というわけにはいかないが、人間たちの中へと向かう緊張感が和らいでいる。
「ありがとう、紅泉、若水」
 それはやはり二人のお陰だ。頭を下げるナマエに、二人は何を改まって、と手を振る。
「でも、いいなあ。無限様とお出かけなんて。私も今度どこか行きたい!」
 若水は両手をぐっと握り締めると、尻尾をふさふさと振りながら、きゅっと眉毛を吊り上げた。若水は無限のことが大好きだ。ナマエは微笑ましくなりながら、そうね、と答える。
「小黒も誘って、どこかへ遊びに行きたいわね」
「私はなんだか恐れ多いや」
 紅泉も無限のことを好いているはずだが、及び腰でそう言って辞退してしまった。無限は表情が読めないところはあるが、厳格というほどではない。遠慮しなくても、と思うが、無理強いはしないでおいた。
 ふと、無限は彼女たちにも「好きだ」というのだろうか、と疑問が湧いた。あまり多くを語らない性質だから、そもそも会話自体が少ない。小黒のことも大切にしていることはよくわかるが、直接的な言葉にすることはほとんどない。
 だからこそ、わざわざ言葉にして伝えた意図があるのではないか、と考えてしまう。もしナマエがそれに気付けずにいるなら、申し訳ないとも思う。この旅の中で、それを示唆するものが見付けられるだろうか。
 ナマエはもう一度鏡を見て、普段とは違う自分の姿をしげしげと眺める。
 無限はこの姿を見て、どう思うだろう。
 小黒は驚くだろうか。
 そんなことを考えて、やはり浮かれている、と苦笑した。
 こんな気分になるのはいつぶりだろう。この旅が、このまま、楽しいものになればいい。
 そう祈りながら、ナマエはもとの服に着替え、部屋に戻った。
 その夜は、何も考えずにすぐに眠りについた。

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