第二十五話 寂



 館には、妖精たちが集まって寛げる公共の広場がある。今日はそこに女性たちと集まって、お菓子を食べていた。
「無限様、いっそここに拠点を置いてしまえばいいのにね」
 女性たちは紅泉の言葉に何度も頷いた。
「本当に! 近頃は、週に一回はいらしてくれるようになったじゃない?」
「そうそう! いつもお部屋を用意しているようだけれど、いっそのこと専用にしたらいいんだわ」
「無限様がここにいらしてくれたらどれほど心強いか」
 ナマエはお茶を飲みながら、わいわいと想像を膨らませていく女性たちの会話の行く末を見守っていた。
 彼女たちの言うように、確かにその方が便がいいだろう。毎回部屋を用意する手間もなくなるし、無限や小黒もくつろぎやすくなる。
 幸い館に部屋はたくさんあるから、ひとつ新たに塞がったところで困ることはないだろう。
「でも無限様、これからも同じくらいいらしてくださるかしら?」
 女性たちの懸念はそれだった。紅泉たちは申し合わせたように一様にナマエの顔を見た。ナマエはお茶を飲み込もうとして咽そうになった。
「それは、わからないわ……。私にも」
「そうよねえ。こればっかりは無限様のお心次第よねえ」
 ナマエがそう答えると、女性たちは視線を外し、また各々話し始めたので、ナマエはほっとした。
 無限は、いつまでこうしてナマエの元に来てくれるだろう。小黒が行かないと言うまで? それとも。
 ――私があなたに会いたいんだ
 ふとあのときの言葉が蘇ってきて、どきりとした。それを言葉通りに受け取ろうとして、どうもうまく行っていない。どう解釈するべきか、いまだによくわかっていなかった。だからと言って、自分でもよくわからないものを人に聞いてみるわけにもいかなくて、ナマエはその言葉を自分の胸にだけしまっている。直接そうと言われたわけではないが、無限の言い方はナマエにだけ伝えたいという態度――ことに小黒にすら聞かせたくないような――だったような気がするのだ。だから、軽々しく誰かに言ってしまうことはいけないのではないかと思う。
 ――あなたのことが好きだから
 ナマエも無限のことは好きだ。だが、好意を持っていることを無限のような大人がわざわざ口にすることが不思議に思えた。小黒のように幼い子ならなんでも素直に言うものだろう。だから、直接そう伝えてきた無限の真意は他にあるのではないかと思えてならない。その真意がどのようなものか、ナマエにはまるで見当がつかないのだが。 
 だから、これからもナマエに会いに来る。そういう宣言だったのかもしれない。
 ナマエにしてみれば、会いに来てくれることを喜びこそすれ、疎んじるわけもなかった。
 たとえ小黒が大きくなって足が遠のいても、無限だけでも変わらず通ってくれる。それは嬉しいことだった。
 
「気に食わねえな」

 和気あいあいとしていた空気が、その低いどすのきいた声で分断され、ぴりっと張り詰めた。
 女性たちは声を潜め、発言の主を横目で伺った。
 発言した獣型の妖精は、大きな背中を窮屈そうに曲げて、椅子に座っていた。こちらを振りむこうとはしないが、明かにこちらに向けた発言だった。
「あいつの顔を頻繁に見なきゃいけねえってだけでも癪なのによ」
 妖精はけ、と唾を吐くと、大儀そうに立ち上がって、仲間と共に広場から出ていった。彼らが十分遠くに行ったところで、女性たちはふうと張り詰めていた息を吐いた。
「……何あれ! 失礼しちゃう」
「あれでしょ、無限様に負けた……」
「未だに根に持ってるのよ……」
 女性たちはひそひそとそんなことを言い交わしてから、気を取り直して他の話題に移っていった。
 ナマエは、思ったよりもショックを受けていた。
 先ほどまで浮かれていた気持ちが一気に沈んでしまった。
 自分が嬉しいと思っていることが、他の妖精にとっては忌々しいことになる。それを目の当たりにすることは、胸に重い石を飲み込むような衝撃だった。
「ナマエ、気にしないで」 
 そんなナマエの様子に、紅泉が気付いて声を掛けてくれた。ナマエはええ、と頷いてみせる。笑顔を繕って女性たちの話題の輪に入っていったが、心はずっと暗澹としていた。

 しばらくぶりに無限が館に戻ってきたときも、ついあの妖精の言葉を思い出してしまっていた。
「無限様、小黒」
 しかし、顔には出さず、二人を笑顔で迎える。
 無限は館に来た時、館長のところに行くか、用意された部屋で休むか、小黒と広い場所で修行をしている。それ以外のことはしていないようだ。だから、誰かの迷惑になることはないはずだとナマエは思う。けれど、彼がいる、というそれだけで嫌な気分になる妖精がいるということを知ってしまった。ナマエに何ができるわけでもないが、どうにも落ち着かない。
 心情としては理解しているつもりだ。ナマエの弟たちも、直接戦った相手をすんなり受け入れることは難しいだろう。誰もがナマエや小黒のように無限のよさに気付き、好きになれるわけではない。
 無限自身は、それを理解している。その上で相手の感情を尊重し、館から距離を取るという行動を選んでいた。
 では、そのバランスを、ナマエが崩してしまっているのではないだろうか。
 一度その考えが浮かぶと、どうにも拭えなくなってしまった。
「ナマエ?」
 考え事をしているナマエの耳に、かわいらしい呼び声が届いた。
 小黒は卓子に手をつき、ナマエの顔を覗き込んでいた。
「どうかしたの?」
 普通に振る舞っているつもりだったのに、こうして小黒に感づかれてしまった。ナマエは気まずい気持ちになりながら、小黒に笑ってみせる。
「大丈夫よ。少し考え事をしていたの」
「難しそうな顔してたよ」
「あら」
 ナマエは頬に手を当ててみる。少し強張っていたかもしれない。小黒も自分の頬をつまんでみせ、肩の力を抜いて、とでもいうように笑ってくれた。
 そこで戸が叩かれ、ナマエは立ち上がる。きっと無限だ。館長のところから戻ってきたのだ。
「はい」
 戸を開けると、思った通り、無限がいた。しかし、少し険しい顔をしていた。
「どうなさったのですか?」
「うん……」
 無限は思案顔で部屋の中に入ると、椅子に座っている小黒に呼びかけた。
「任務が入った」
 その声音は、いつものものとは違っていて、小黒もナマエもすぐに何かあることを悟った。
「今回は小黒、すまないが、お前は……」
「やだ! ぼくも師匠と一緒に行く!」
 無限の言葉を遮るようにして小黒は飛び出し、裾にしがみついた。言葉を聞かずとも、無限が何を言おうとしているのか、その表情で察してしまった。
「連れてってよ! いままでもどこにでも連れて行ってくれたじゃないか!」
「危険が少なかったからだ」
「でも!」
 無限は言い募ろうとする小黒の頭に手を置き、静かに、だが有無を言わせぬ様子で首を振った。
「だめだ。館に残りなさい」
「いやだっ!」
 小黒は無限の手を振り払うと、足をあぐらに組んで床に座り込み、鼻の頭を赤くしてぐっと眉を寄せた。無限は足元の小黒を黙って見下ろす。
 どちらも、意志は固かった。
 二人は無言のまま、静かに対峙していた。
 容易なことでは、決意を変えることはなさそうだ。
 ナマエは二人の頑なな表情を見て、それを悟る。
 無限が言うことはもっともだ。任務へ行くというのは、どこかへ出かけるのとはわけが違う。特に、今回は館長直々に気を付けるようにと言われたという。それがどれほど困難なものなのかわかろうというものだ。そんな危険な場所に、まだ幼い小黒を連れて行くわけにはいかない。
 一方小黒の方は、置いて行かれるという焦りがある。子供らしいまっすぐで、なんの疑いもない信頼と、置いて行かれては生きていけないという恐怖。幼子にとって、親と頼んだ人と何日も離れるのは永遠にも等しい長さに感じるのだろう。その恐ろしさは小さな身体では耐え難いほどかもしれない。
 今までは、幸い難しい任務が入らず、小黒を一人にせずに済んでいた。だが、今回ばかりは連れて行くわけにはいかない。無限にとっても苦渋の決断だった。
 小黒の大きな瞳に涙が溜まり、下唇を噛む口元は震えている。
 無限もそれに気付いて眉を僅かに下げた。何も悲しませたいわけではない。膝をつき、小黒の肩に手を置いて、その顔を覗き込んだ。
「すぐ終わらせて帰ってくる。それまで、待っていてくれないか」
「……んん」
 小黒は顎を引いて、ぐずぐずと唸る。
 ナマエはすと立ち上がると、小黒の傍へしゃがみ込んだ。
「小黒。私も、二人がいないと寂しいわ。私と一緒に、待っていて?」
「ナマエ……」
 小黒は目から涙が零れそうになるのを必死にこらえ、ぎゅ、と服を握り締める。もう一度無限の顔を見て、無限がすまなそうに目元を下げるのを知ると、ぐ、と喉の奥で嗚咽を堪えた。
「ナマエが、寂しいのは……ぼくも、やだ……」
 優しい小黒の言葉に思わず頬を弛めながら、ナマエは服を握り締める小黒の手に自分の手を重ねた。
「でも……」
 声を震わせて自分を見上げる小さな子の頭を、無限はくしゃりと撫でてやる。
「そうしてもらえると、私も助かる」
「……うう……」
 小黒は服を握っていた指を開くと、ナマエのひんやりとした指を握り締めた。
「早く……帰ってきてね……!」
「ああ」
「絶対だよ!」
「わかった」
「ナマエにも約束して!」
「あ、ああ」
 小黒は自分だけでは足りないと思ったのか、ナマエの手を引っ張って、無限の前に引き出す。ナマエは意表を突かれた無限と顔を見合わせて、くすりと笑った。
「約束してくださいますか? 無限様」
「……もちろん、約束しよう」
 無限は茶化さず、真面目に目を閉じて、厳かに頷いた。
 
 翌日、小黒はぐずらずに、無限を見送った。ナマエの手を握る小さな手は震えていたが、涙は流さないように健気にも堪えていた。
 ナマエの部屋に一緒に戻って、椅子に座ってしばらくは空を見上げていた。ナマエもその向かい側に座って、本を広げる。紅泉に借りた、昔の小説だ。
 やがて暇を持て余した小黒が、ナマエにねえ、と声を掛けてきた。
「ナマエも寂しいの?」
 そう言ってそっと椅子に近づいてきた小黒は、耳を少し下げて、まんまるな目を零れそうに開いてナマエを見上げている。ナマエは少し身体をずらして小黒と向き合い、手を差し出した。小黒は神妙な面持ちで、その手をそっと握った。
「ええ。そうみたい」
 ナマエは小黒の手をきゅ、と握り返し、微笑む。あのとき言った言葉は本心だ。二人の帰りを待つ間、心許ないような、物足りないような、そんな感覚があった。それを寂しいというのだろう。兄弟たちと一緒にいたころは感じなかった感覚だ。あのころは、彼らはすぐにナマエの元へ帰ってきてくれた。
 無限の来訪を喜ばないものがいる。
 だか、ナマエにとってはこんなにも必要な人たちなのだ。どうして寂しくないわけがあるだろう。わがままかもしれない。だが、ここに会いに来てほしい、という思いは、確かにナマエの胸のうちにある。それを無視することは、もうできなかった。
「師匠、すぐ帰ってくるよね?」
 ナマエが手を伸ばすと、小黒は素直に抱かれ、その膝に収まった。
 ナマエはその丸い肩を撫でてやる。
「ええ。すぐよ。約束したものね」
 そのときのことを思い出すと、くすりと笑みがこぼれる。真剣な表情の無限がおかしかった。けれど、小黒のために、そしてナマエのためにも、確かに約束してくれたのだ。
「一緒に待っていましょうね」
「うん」
 小黒と二人で、何をしようか。
 それを考えると、わくわくしてきた。
 

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