第二十四話 表



「あれ、無限様は?」
 逸風が部屋を見渡しながら、ナマエに訊ねた。
「ちょうど今出ていったところです」
 ナマエは茶杯を片付けながら答える。
 逸風は入れ違っちゃったか、と頭を掻いた。
「何か用事でしたの?」
「ええ、少し……。今後はいついらっしゃるんですか?」
「さあ、それは……」
「そうですか……」
 逸風は顎に手を添えて、困ったように呟いた。もう少し早く来ていれば、走って追いかければ間に合ったかもしれないが、すでに館を出てしまったあとだろう。
「もし、無限様がいらっしゃったら声を掛けていただいてもいいですか?」
 逸風はおずおずと控えめな態度でナマエに頼んだ。
「わかりました。お呼びしますね」
「助かります」
 ナマエが快諾してくれて、逸風はほっと胸を撫でおろした。
「無限様は、いままでは館長へ報告をするとすぐに館を離れてしまっていたので。ナマエさんがいてくれて、無限様も館に居やすくなったようです」
「そうなんですの?」
「望まない選択をしてここにいる妖精もいますから……。彼らにとっては、無限様の存在は憎いようです。無限様もそれを感じていらっしゃるようで。申し訳ないことです」
「それは……難しいことですわね」
 ナマエは頬に手を当て、小さく息を吐く。
 無限はきっと、風息たちに対してしたように、たくさんの妖精たちに対して法を執行してきたのだろう。その過程で、妖精たちと軋轢が発生してしまうこともきっとあったはずだ。今の時代、妖精たちに選択の余地はほとんどないと言っていい。強いられてきた彼らに、無限を憎むなと言うのは無理というものだろう。
「そんな無限様が館に長居してくれるようになって、僕も嬉しいんです」
 逸風はにこりと笑ってナマエを見つめた。
「妖精たちだって、わかってるんです。無限様がどれほど心を砕いてくれているか。ただ、受け入れるのが難しいだけで……」
「きっと、時間が必要なんでしょうね」
「ええ……」
 妖精と人間の関係は少しずつではあるが変化している。それがいい方向に行くように、館の執行人たちは日々尽力している。館にいて、それを知らない妖精はいない。ただ、すぐに飲み込むことは難しい。そういうことなのだろう。
 逸風が帰っていったあと、ナマエは茶杯を洗い、片付ける。
 心にあるのは虚淮たちのことだった。
 牢から出てくるときが来たとして、そのとき彼らは館にいることを望むだろうか。もし望まないなら、ナマエも共に別の居場所を探すことになるだろう。館を出たら、小黒に会うのは難しくなるかもしれない、と思うと、少し寂しく感じた。
 無限が館に長居するのは珍しいと逸風が言っていたが、無限がナマエのところに来てくれるのは、小黒の顔を見せに来てくれているからだ。わざわざ足を運ばせることは、申し訳ないと思う。だが、小黒の顔を見て、こんなことがあったと話してくれるのを聞くことが今一番ナマエの心を和ませる。だから、無限が小黒を連れて来てくれることはありがたい。館に彼の居場所がないとして、ナマエが居場所になれているとするなら嬉しいことだと思う。執行人として働いているものにとって、館は家でもあるはずだ。そこに居づらいというのは悲しいことだ。普段、無限がどこで寝泊りしているのか、ナマエは知らない。どこか落ち着ける場所があればいいと思う。
 特に小さな子供を預かっているのだから、移動は大変だろう。
 無限が任務中、小黒はどうしているのだろうか。危険な戦いがつきものだろうから、つれていくことはきっとしていないはずだ。
 一人で無限の帰りを待っている小黒の姿が想像できて、ナマエの胸はきゅっと痛んだ。

 それから、一週間ほどで二人が館に戻ってきた。
 ナマエはちょうど外にいたので、直接無限と小黒を出迎えに行っ
た。
「ナマエ!」
「小黒、おかえりなさい」
 小黒は猫の姿に戻り、ナマエの腕に飛び込んだ。ナマエはそれを抱き留めて、曲げていた膝を伸ばしこちらにゆっくりと歩いてくる無限に向き直る。
「任務、お疲れさまでした」
「うん」
 無限は館長への挨拶を後回しにして、ナマエの部屋でお茶を飲むことを優先した。ナマエはさっそく湯を沸かし、用意していたお菓子を小黒に与えた。小黒はお茶を淹れるのを待てず、さっそくお菓子を頬張った。
「無限様、今回はどれくらいこちらにいらっしゃるんですか」
「館長に聞かなければわからないが、すぐに経つことはないよ」
「でしたら、逸風を訪れていただけませんか? 何か、無限様にお話したいことがあるそうで」
「そうか。わかった。あとで伺おう」
 無限は請け負うと、お茶を啜った。
「今回の宿で飲んだジュース美味しかったんだよ!」
 なんの果物か忘れちゃったけど……と付け加えながら、小黒はそのジュースの美味しさをナマエに語った。
「お昼に飲んだら美味しかったからね、次の日宿を出る前にもいっぱい飲んじゃった」
「宿?」
「任務先の近くのホテルだ。客に寝泊まりできる部屋を提供してくれるところだ」
 宿という言葉も、ホテルという言葉もナマエには耳慣れない。恐らく、館のように滞在できる施設なのだろう。
「普段から、その、ホテルというところに?」
「そうだよ。ホテルによってご飯が食べれたりするから、ぼく楽しみなんだ!」
「任務上、あちこちに出向くが、だいたいどの街にもホテルはあるから便利なんだ」
「そうなんですのね」
 考えてみればその通りだ。無限は定住する場所を持つより、行く先々で寝泊りできる場所を探す方が合理的なのだろう。この館だけでなく、依頼があれば遠くの館へ行くこともある。
「でもね、たまにベッドが固かったりするの。ぼくふかふかの方が好き!」
「そうなの? 寝心地が違うのかしら」
「そう! それに、柔らかい方がよく弾むの」
「ベッドの上で飛び跳ねるのはやめなさいと言ってるだろう」
 眉根を寄せた無限に、小黒ははーいと悪びれずに返事をしてお菓子を齧る。
「あちこち、遠くへ行くのは大変ではない?」
「ううん。楽しいよ。師匠が一緒だし!」
「そう」
 ナマエは小黒の曇りのない笑顔を見て安心する。小さな身体で、長旅は負担になるだろう。もちろん無限が気を付けているから問題ないだろうが。小黒自身が楽しんでいるならそれが一番だ。
 お菓子を食べ終わったあとも、二人はゆっくりと椅子に座っている。
 小黒の方は、卓子に腕を置き、その上に頬を押し付けて、今にも目を閉じそうになっている。
「小黒、眠い?」
「ううん……」
 ぐずぐずとする小黒の頭はどんどん腕の中へと沈んでいく。雪梅は立ち上がり、小黒の身体を抱き上げた。
「少し、寝ていくといいわ。無限様、よろしいでしょうか?」
「助かるよ」
 無限に断りを入れて、ナマエは小黒を自分の寝室へ運び、寝台へとそっと寝かせた。小黒は枕に顔を埋めると、幸せそうに身体を丸めた。肩まで布団を被せて、そっと頭を撫でてやる。すぐに穏やかな寝息が聞こえてきて、ナマエは音を立てないようにそっと寝室を出た。
 部屋に戻ると、無限はまだお茶を飲んでいる。
「この間に、館長へのご挨拶にいらっしゃっては?」
「ん? ……ああ。今回は特に呼ばれたわけではなく、近くに来たから寄っただけだから」
「まあ、わざわざ」
 無限が立ち寄ってくれるのは、館長に用があるときだけだったので、この答えには少し驚いた。無限は少し申し訳なさそうに眉を下げた。
「迷惑だったか」
「まさか。小黒の顔を見られるのは嬉しいですわ。このくらいの年の子は、目を離すとすぐに大きくなりますもの」
 ナマエは小黒のあどけない寝顔を思い浮かべて、目を細める。虚淮たちも成長するのはあっという間だった。昨日まで手を引いていた子に翌日には手を引かれている。
「その貴重な時間を、少しでも共に過ごせることはありがたいですわ」
「……そうか」
 無限も僅かに口角を上げた。
「あの子の成長は、私も楽しみだよ」
 今はまだ丸い頬も、手のひらにすっぽり収まる手も、隠せない耳も、愛らしい特徴を見せるのは今だけだ。それもすぐに変わっていくだろう。
「たびたびあの子を連れてきていただいて、私の方こそご迷惑になっていなければよいのですけれど」
「いや、あの子があなたに会いたがっているから……違うな」
 無限はそう言いながら、何か言葉を探すように視線を動かし、それを見付けた様子で茶杯を卓子に置いた。
「私があなたに会いたいんだ」
「え?」
 それは予想外の言葉で、ナマエはすぐにその意味を察しきれなかった。
 無限は微笑みを浮かべて、そんなナマエの顔をまっすぐに見つめる。
「あなたのことが好きだから」
 それだけを言って、無限は満足したかのように、また一口お茶を啜る。ナマエは、もう少し話が続くと思っていたから、聞く姿勢をとったまま、相槌を打つ機会を逃してしまった。
 そのため、沈黙が下りる。
 ことり、と茶杯が卓子に置かれる音が部屋に響いた。
 無限はすと立ち上がった。
「では、逸風のところへ行ってくるよ。その間、小黒をお願いしてもいいだろうか」
「ええ、もちろんですわ」
 ナマエも慌てて立ち上がって、無限を部屋の外まで見送った。
 ナマエはすぐに戸を締めず、去っていく無限の後ろ姿を眺める。手を腰の後ろで組み、髪を左右に揺らしながら、ゆっくりと歩いていく。
 どうしてかその姿から目が離せず、彼の姿が角に消えるまで、ナマエはその場でじっとしていた。

[*前] | [次#]
[Main]