第二十三話 樹



 天虎との面会を終えて、ナマエは氷雲城を出た。
 空は灰色に曇っている。天虎のふかふかの毛皮は、長い投獄期間のせいか、ぱさぱさとしてしまっていた。天虎は物悲し気な目で、ごめんと謝り、風息のことを少し話し、最後に「ねえねのそばにいたい」と小さく零した。けれど、それはまだできないことを、本人が一番自覚していた。彼もまた、龍遊を取り戻す夢を、簡単に諦めることはできない。
 館の考え、その法律に従って生きる誓約ができなければ、彼らはあそこから出ることができない。それがどれほど難しいことか。彼らはナマエが反対したにも関わらず、計画を強行した。その決意は固い。風息が故郷に身を捧げたことで、より強固になったとも感じる。人間たちのために、彼らが犠牲にしてきたことを思えば、ナマエは何も言えなくなる。強いられてきたのはこちらの方だ……。もちろん、だからといって何をし返してもいいということにはならない。ナマエも、この方法は間違っているという強い意志に関しては彼らに譲ることはできない。では、どうすればよかったのか。
 こうも性急に事が運ぶことがなければ。
 もっと時間があれば――。
 あのときどうすればよかったか、何度も考えてしまう。あのとき、もしくはあのとき、もっとできることがあったのではないか、そうすれば少しでも何かが変わっていたのではないか。
 風息。
 ナマエはまとまらない心を抱えて、彼の墓前に向かった。

「ここからは、一人で……」
 ナマエは、一緒に来てくれていた小黒と無限に告げる。二人は案じるようにナマエを見たが、立ち止まってナマエの歩みを見送ってくれた。ナマエは一人、先へ進む。
 この区域一帯は、未だに立ち入り禁止とされていた。散らばった瓦礫は大方片付けられ、危険は取り除かれている。だが、大樹が絡みついたビルの残骸だけは手を入れられず、そのままにされていた。
 ナマエは小さく息を吐き、意識的に息を吸う。
 そうして一歩を踏み出し、大樹に向かい合った。
「……っ」
 見上げた途端、様々な思いが胸に込み上げる。
 どうして、風息。あのとき、止めることができていれば。身を挺してでも、やめさせられていれば。この手は振り払われ、守ることができなかった……。
 ナマエは胸の前で拳を握り締める。震える唇を噛みしめ、眉を寄せ、目を伏せないよう、まっすぐに見上げるよう、顎に力を込める。
 大樹は何も語らず、ただそこにあった。縦横に伸びた木の枝は力強くコンクリートを貫き、ものともせず空を目指すように上を向いている。
 あの日からずっと、風息はここにいる。
 ナマエは口を開きかけて、咽喉の奥で言葉が詰まり、奥歯を噛む。もう一度呼吸を整えて、改めて風息へ向き直った。
「風息」
 答える声はない。それでもナマエは語り掛ける。
「家族が離れ離れになってしまいました」
 胸元で、指が白くなるほど手を握り締める。
「みんな、牢にいます。最近、ようやく面会ができたけれど、それもわずかな間だけ……。また家族揃って過ごせるのは、いつになるか……」
 声が震え、ナマエは右手で口を覆う。唾を飲み込み、目を上げる。
「それでも、私はその日を待ち続けます。館で……。ずっと待っています」
 手を下ろし、身体の前で緩く繋ぐ。それは宣言というよりは、自分自身に言い聞かせる言葉だった。
「あなたが求めたものを、私も欲しかった。今も思います。あのころのまま、ずっと過ごせたならと」
 心は同じだったはずなのに、いつからこれほど大きくすれ違ってしまったのだろう。
「しかし、それは叶いませんでした。なら、私は、新しい生活を、模索しなければなりません」
 今の環境で、家族で共に暮らす方法。きっとあるはずなのだ。もしないとしても、それならば作り上げるまでだ。家族が一緒にいるために。それだけが、譲れないナマエの願いだ。
「……新しい、方法を……。私たちは、一緒にいられたはずなのに」
 どうして、と一度思ってしまうと、それ以外のことを考えられなくなる。
 風息。
 あなたが欠けてしまったなら、私の願いは永遠に叶わないものになってしまった――。
「どうして。どうして私たちを置いて行ってしまったの。どうして一人で決めてしまったの。どうして私たちを顧みてくれなかったの……っ」
 溢れる涙をもう止めることはできなかった。
 ナマエは口を抑え、その場に蹲る。そのまま倒れ込みそうになって、手を地面に着く。小さな石が手のひらに食い込んだ。
「どうして、風息。どうして。他に道はなかったの。どうしてもそうしなければならなかったの?」
 彼がひとりで決めてしまったことを思うにつけ、自身の無力さに囚われてしまいそうになる。自分では風息を踏みとどまらせることはできなかった。彼に希望を見せてやることができなかった。取り返さねばと狂気的に思いつめるまで、それ以外の方法を見出すことができなかった。
「ごめんなさい……。ごめんなさい」
 助けられなかった。守れなかった。導いてやれなかった。
 一度堰を切った後悔はもう止められなかった。ナマエは地面に額をこすりつけ、呻く。あなたの心に添えなかった。手を離し、背を背け、対立してしまった。そしてそのまま、永遠の別れに直面してしまった。恨まれたかもしれない。なぜ賛同してくれないのかと、憤っていた風息の顔を思い出す。それでもやはり、ナマエはそうしなければならなかった。
 風息が誰かを傷つけることを厭わないなら、それを止めてやらねばならなかった。
 しかしそれも、敵わなかった。
 この手は役立たずだ。
 誰も何も、守れはしない。
 苦しみ、悲しみ、喘いで、抱え込んでいた感情を吐き出して、残るものは虚無感ばかりだ。
 それでもナマエは生き続けなければならない。
 弟たちを出迎えてやらなければならない。
 だから今日、ナマエはここに来た。
 奪われた未来と向き合うために。
 ナマエは嗚咽を飲み込み、ゆっくりと立ち上がる。
「風息。大切な弟」
 そっと手を伸ばし、その幹に触れる。
「見ていてね。至らない姉のこと――」
 歩み続けると、決めたから。



 どれくらいの時間が経っただろう。ナマエが戻ると、無限と小黒は別れた時と同じ場所で待っていた。
「ナマエ!」
 小黒が耳をぴくりと立て、ナマエの元に駆け寄ってくる。その目元が濡れていることに気付いて、遠慮するように足を緩めた。
「待たせてごめんなさいね」
 ナマエはそんな小黒に微笑んで見せる。無理をしているわけではない、自然なものだ。
 無限は何も言わず、ナマエを迎えてくれた。口元には、すべてわかっているかのように微笑を浮かべている。ナマエの嘆きも、苦しみも、彼は知っている。そう思えることは、ナマエにとって救いだった。
「無限様。ありがとうございました」
「うん」
 無限の返答は短いが、心が籠っていた。
 三人はゆっくりと歩いて、立ち入り禁止区域から外に出る。少し行けば、人の営む街が広がっていた。近辺もずいぶん壊されてしまっていたが、すでに瓦礫は撤去され、新たな建物が建っている。人間たちの回復能力は目を瞠るものがあった。
 館に通じている転送門も、あのときに壊されてしまったということで、帰りは飛行妖精の背の上だ。ナマエは少し身を乗り出して、地上を見下ろした。ビルが乱立する中、ぽっかりと空けた場所に、大樹の立つ場所がそこだけ緑色をしている。龍遊の森は、なくなってしまった。胸の痛みは薄れてもくれない。ナマエはずっと抱え続ける。この喪失の悲しみを。
 この先、何を得て、何を失うことがあっても、この悲しみだけは色褪せない。ナマエの霊域に刻まれたまま、塞がることはない。
 それでもナマエは生きていく。この命が尽きるまで。

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