第二十話 水



 ナマエは空を飛んでいた。空は淡緑に濁り、白い雲が風に流されている。足元には森がある。龍遊の森だ。小鳥たちや猪が木の葉の影からちらちらと見えるのをナマエは俯瞰している。
 しかしなんの音もしない。小鳥の鳴き声も、木々の葉擦れも、風が吹くのも何も聞こえない。下で思い思いに過ごしているだろう弟たちの姿も見えない。ナマエは下に降りてみることにした。ゆっくりと高度を下げたが、やはり物音はしない。ナマエの足が下生えをそっと踏んだ。しかしかさりとも音はしない。
 ふと、後ろから名前を呼ばれた気がして振り返る。
 そこには風息が立っていた。
 風息はナマエを右の眼で見つめる。左眼は前髪に隠れて見えない。
 ナマエは風息に駆け寄ろうとした。
 久しぶりね、会いたかった、会いたかったのよ。
 どうしてこんなにも彼の存在に焦がれるのだろう。小さなころから、風息とはずっとこの森で一緒に過ごしているのに。これからだって、ずっと離れることはないのに。
 風息、
 と呼ぶ声は音にはならない。けれど風息が微かに顎を引いたように見えた。
 風息の方へ手を伸ばしたつもりだが、身体は動いていない。足を一歩踏み出したつもりだが、一歩も前には出ていない。
 そばに行かなければ、手を掴まなければ、今にもどこかへ行ってしまいそうなのに。
 ナマエは焦る。
 もう一度彼の名前を呼ぶ。
 呼ぶ声はナマエの耳にすら届かない。
 風息は動かない。じっとナマエを見据えている。
「風息、どうして」



 はっとしてナマエは目を覚ました。
 目を凝らして天井を見上げ、自分の身体に掛けられた布団を見、部屋を見渡す。ここは龍遊にある館の一室だ。森ではない。森は、もうない。
 昔のことを夢に見るなんて、とナマエは頭を片手で押さえながら寝台から身を起こし、厨へ向かう。水差しから杯に水を注ぎ、唇を湿す。ひんやりとした冷たさに、頭の奥がつんとして、意識が覚醒していく。昨日、無限たちは任務に出ていった。一週間ほどは帰ってこないという。ナマエは服を着替え、朝食の準備に取り掛かった。無限と小黒がいない日は、思っていた以上に静かだった。紅泉のところへ行こうかと思ったが、あいにく彼女も予定が入っていた。
 ナマエは一人、あてもなく館の中を歩く。
 館の妖精たちは、それぞれの事情で、この場所に身を寄せている。紅泉のように故郷を失ったもの、人に変化できず都市に馴染めないもの、様々な妖精を、館は受け入れ、居場所を用意し、生きる術を与えてくれる。
 回廊ですれ違う妖精たちは、みなナマエに挨拶をしてくれる。ナマエも彼らの顔を覚えようと、しっかり見つめながら挨拶を返す。
 そうして歩いていると、見覚えのある大きな背中があった。あれは、と思いながらナマエがそっと近寄ると、彼の隣に座っていた小柄な兎に似た妖精がナマエに気付いて、ぱっと跳ねるように立ち上がった。
「あれっ、ナマエじゃない!?」
「ん?」
 兎は珀、大きな角を持つ妖精は豪雷だった。
 豪雷は立ち上がって両手を広げた。座っていても大きかったのに、頭が天井につかえそうだ。
「おお、ナマエ! 久しぶりだ」
「ええ、本当に……二人も館に来ていたのね」
「うん! だいぶ前にね。龍遊の森、切り開かれちゃっただろ。だから……」
 珀はそう言いながら、長い耳を折って項垂れる。
「風息のこと、聞いたぞ。人間と、戦ったってな」
「……ええ」
 豪雷に言われ、ナマエは頷くしかできなかった。
「協力できず、すまん」
 そう言って、豪雷は深く頭を下げるので、ナマエは驚いて手を振った。
「顔をあげてくださいまし。そのようなこと……」
 豪雷は真剣な表情で首を振り、大きな拳で自分の胸板を叩いた。
「いや。風息には恩義ある身だ。それを報いてこそ義というもの。しかし、俺たちはもう館を選んじまった。館の方針を破ることはできなかった」
「お互い、守るべきものがあります。今回はそれが違ったということでしょう。……風息も、そう言うと思いますわ」
 ナマエは咽喉を詰まらせながらも、なんとか言葉を押し出した。
「ナマエも、これからはここにいるんでしょ?」
 わざと声を弾ませて、明るく笑いかけてみせる珀に、ナマエも笑みを返した。
「ええ。そのつもりです」
「あのときはすぐにお別れしちゃったからね。またみんなと会いたいな」
「珀」
「あ、その……。早く、みんな解放されればいいね」
 豪雷に発言を諫められて、珀はしゅんとしながら言い直した。ナマエは気にしないというように笑顔を見せ、そうね、と同意した。
「本当に」
 氷雲城のある方へ顔を向ける。虚淮には会えたが、洛竹や天虎にはまだ会えていない。いまごろどうしているだろう。まだ難しいだろうと言っていた潘靖の表情は険しかった。時間がかかるのは承知しているが、しかし、どれだけ待てばいいのかまったくわからないというのもつらいものがある。氷雲城には精神感応に長けた妖精がおり、常に囚人たちの精神状態を監視している。そのため、精神状態が思わしくないうちは、解放されることはない。
 虚淮の頑なな瞳が思い出される。館がよしとするような考え方に変わることができるかどうか……。だが翻意を望むことも残酷なような気がする。
 彼らは命がけで龍遊を取り戻そうとしていた。
 それはきっと今も変わらない。
 風息を失ったとしても。
 失ったからこそ――。
 風息。あなたのいなくなったあとの空虚は、こんなにも大きい。



 一週間がほどなく過ぎた。ナマエはそろそろ無限と小黒が戻ってくるころかと窓の外を見やる。部屋にいても落ち着かないので、外へ出てみることにした。外に面した廊下側には、何人かの女性妖精たちがいて、彼女たちも無限の帰りを待っているらしかった。無限はああ言っていたが、ここには無限を好ましく思っている妖精だってたくさんいる。彼が気にするほど、無限を疎んでいる妖精も、本当はそんなにいないのではないかとナマエは疑う。だが、実際過去にそういった軋轢があったのかもしれない。もしそうなら、寂しいことだと思う。無限は人間の身でありながら、妖精のために立ち働いている。彼は自分を雑用係だなどと言うが、その存在の影響力はどれほどだろう。
「ナマエ」
 やっぱり部屋に戻ろうかと悩んでいると、豪雷に声を掛けられた。
「この前言っていたことだが」
「ああ、あのことですね」
 ナマエは豪雷とその場で立ち話をする。しているうちに、女性たちが黄色い声を上げるのが聞こえた。
「無限様よ!」
「無限様ー!」
「お帰りなさいー!」
 ナマエもつられて皆が見ている方へ目を向ける。一体の飛行妖精が悠々と曲線を描いて降りてくるところだった。
「無限、戻ってきたのか」
 豪雷も無限のことを知っていた。ナマエより館暮らしが長いのだから、知っていて当然なのかもしれない。その言葉や表情には棘は感じられない。彼も無限を受け入れている一人のようだ。
 飛行妖精の姿はすぐに見えなくなってしまう。小黒は元気だろうか、とナマエは浮足立つ。しかし、まだ豪雷との会話は終わっていない。会話が済むころには、女性妖精たちは部屋に戻ってしまい、無限たちがどこにいるのかわからなくなったので、ナマエも部屋に戻ることにした。

 しばらくすると、戸が叩かれる音がした。
「はい」
 ナマエが戸を開けると、無限と小黒だった。向こうから訪ねてくれるとは思わず、ナマエは顔を綻ばせて二人を迎え入れた。
「ナマエ、ただいま!」
「おかえりなさい、小黒」
 ナマエはしゃがんで小黒と目を合わせ、その頬を撫でる。小黒はくすぐったそうに肩を竦めた。
「遅くなった」
「いえ、任務、お疲れ様です」
 謝る無限に、とんでもないと首を振り、労う。
「もうお茶は飲まれました?」
「いや、まだだ」
「ぼくお腹空いた!」
 二人を座らせると、ナマエは厨に向かってお茶の準備をする。
 昨日作った肉包が残っていたので、それを皿に移して持っていく。
「どうぞ」
 小黒は肉包にさっそく手を伸ばし、口いっぱいに頬張る。無限はお茶を一口飲んでから、肉包を一口齧った。
「あのね、今回の任務でね」
 小黒は口をもごもごさせながら、任務中にあったことをナマエに話してくれた。ナマエは微笑を浮かべながらそれを聞く。小黒は話しているうちに嬉しい気持ちも思い出しているようで、上機嫌だ。
 あれも、これもと話すうち、肉包を咽喉に詰まらせて咽た。
「けほ、けほっ」
「ああ、話すのと食べるの、同時に欲張るからですよ」
 ナマエは背中を撫でてやりながら、お茶を手渡す。小黒はお茶で流して、はあ、と大きく息を吐いた。
 無限は甲斐甲斐しく小黒の世話をするナマエを眺めている。
「そういえば、ナマエ」
 ふと、小黒は目をくりっとさせてナマエを見上げた。
「さっき、誰と話してたの?」
 帰ってくるとき見かけたんだ、と言って、小黒は無限を見る。
「ね、師匠が気にしてたの」
 無限は小黒から目を逸らした。
「豪雷のことかしら」
「豪雷」
 しかし、ナマエが相手の妖精の名前を口にすると、ぴくりと耳をそばだてる。
「昔、龍遊の森で会ったことがあるんです」
 ナマエはそのときの経緯を二人に話した。
「いやなやつがいたんだね!」
 磊塊のことを聞いて、小黒は思い切り顔を顰めた。無限もそこまで露骨ではないものの、眉を寄せている。
「それ以来、豪雷たちは元の場所に戻って、お互い干渉せず過ごしていたのですけれど……。その居場所が、なくなってしまいましたから」
 ナマエは寂しそうに窓の外へ視線を向ける。その横顔を、無限は見つめた。 
「豪雷も珀も、ここで元気に過ごしているそうで、よかったですわ」
 ナマエは寂しさを笑顔で打ち消して、そう続けた。
「気安い……」
「え?」
 ぼそりと無限が何か言うが、ナマエにはうまく聞き取れなかった。
「いや。おかわりをもらえるか」
 無限は咳払いして茶杯を示した。ナマエの過去についての話は興味深かったが、それ以上に、豪雷について彼女が話す口調が自分に対するそれと違って妙に親し気に感じてしまった。少し、面白くない。
 しかし、茶を注ぐナマエにはそう悟られないよう、無表情に努める。少々子供っぽい感情だ。無限がナマエに出会ったのは、豪雷たちとの出会いとどちらが先だろうか。
「それは、何年前のことだった?」
 なので、聞いてみることにした。ナマエはそうですね、と考える。
「確か……二百年でしょうか」
 越した年月は曖昧だ。大雑把な記憶だったが、無限は満足して頷いた。
「私の方が先だ」
「なにが?」
 小黒に耳ざとく聞きつけられて、無限は誤魔化すようにお茶を飲む。ナマエも不思議そうに訊ねる。
「無限様とお会いしたのは、龍遊を出てからですから……まだ百年経っていないのではなかったかしら」
 そう言われるのも無理はない、と無限は目を瞑る。そして少し間を開けてから、口を開いた。
「子供のころ、あなたに会ったことは伝えたと思うが……」
「……あ、そういえば」
 離島を出てから、無限の霊域に入れてもらったとき、確かそんな話をした。ナマエには覚えのないことだ。無限は当然だろうという風に口角を微かに上げる。
「私は四百年ほど前の生まれだ。当時は、まだ修行もしていない幼子だった」
 つと、無限は口を開いた。
「七歳のころ。私は自分に能力があることを知った。人に見えないものを見、人にできないことができた。人間やけものとは違う、妖精という存在に、魅入られていた」
 村のはずれで蝶のような妖精を見付け、追いかけているうちに山奥へ分け入ってしまったと無限は言った。
「あなたは氷の玉座にいらっしゃった」
 物憂げに座り、無限を見て、「迷子のぼうや」と呼びかけた。
「暗くなる前におかえり」
 そして、氷の橇を造った。それに乗ると、一飛びで村に帰り着くことができた。
「……美しい、と思った」
 訥々と語り終えて、無限はぬるくなったお茶を啜った。
 聞いているうちに、ナマエにも過去の情景が蘇っていた。
「あのときの子でしたの……」
 今から振り返ると四百年は前のことになる。虚淮にも出会っていないころだ。まだ館で暮らしていたころ。治療のため立ち寄ったとある街にある館の近くの森が故郷を思わせて懐かしく、しばらく滞在していたのだ。
「そのあと、何度かあなたを探して森に入ったが、もう二度と見付けることはできなかった。だから、夢だったのかもしれないと思った。諦めかけていたとき、もう一度あなたに会えた。あなたは毒に侵されやつれていたが、変わらず美しかった」
 無限は茶杯を机に置き、ゆっくりと立ち上がった。小黒はもう肉包を食べ終わっている。
「では、そろそろお暇しよう。小黒」
「はーい。ごちそうさま、ナマエ!」
 小黒はぴょんと椅子から飛び降りる。もうそのお尻から尻尾は生えていない。無限に言われ、ちゃんと隠すようになった。
 ナマエも立ち上がって、戸まで見送りに出た。
 二人が去った後の部屋は余計に静かに感じる。ナマエは片づけをしながら、ぼんやりと先ほどの会話を反芻していた。
 子供のころの無限。はっきりとは覚えていないが、確かに人間の子供と会った記憶はある。それが無限だとは、縁というのは奇妙なものだ。無限の方ではそのことを今もしっかり覚えていて、もう一度会いたいと思ってくれていたことを思うと、不思議な気もするし、だからこそこのような巡り合わせになったのかもしれないとも思う。
 無限が気に掛けてくれるのは、このためだろうか。
 もちろん、あの事件があったからナマエのことを心配してくれているのだろう。なら、ナマエがもう心を揺らさないようになれば、この縁も終わるのだろうか。
 それは少し寂しい、と思う。
 蛇口から流れる水が、凍り付きそうになって、ナマエは慌てて冷気を抑えた。考え事をしていたせいで、気がそぞろになっていた。
 小黒は無限の弟子であり、ナマエの弟だ。
 小黒がきっと縁を繋いでくれる。
 そう思うと、少し肩から力が抜けるような気がした。

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