第十九話 歩



 翌朝、ナマエは目を覚ました。
 ナマエは不思議そうに天井を見上げる。自分がどこにいるのかよくわからなかった。覚醒するにつれ、徐々に思い出す。館に来たこと、山火事のこと、そこで無理をしてしまったこと。
「ナマエ」
 ぼんやりとしていると名前を呼ばれた。嬉しさの滲む優しいその声音に聞き覚えがある。ナマエは苦労して首を動かし、声の主を見上げる。
「無限様……?」
 寝台の隣にいた無限は、ナマエの顔をじっと見つめ、安堵したように口元をほころばせた。
「目が覚めたんだな。よかった」
「無限様、私は……」
 ナマエは身を起こそうとして、そのあまりの重さに驚く。全身が気怠く、力が入らなかった。
「このような姿で、失礼いたします……」
「気にするな。身体を起こしてはいけない。まだ寝ていなければ」
 無限は手のしぐさでナマエにそのまま寝ているよう伝えた。
「気分は?」
「まだ……すぐれません」
 ナマエは起き上がるのを諦めて、自分の身体を改めて確認する。霊質を随分消費してしまった。修行で広げてきた霊質の総量が減ってしまっている。こうなると、すぐに取り戻すのは難しい。
「何か欲しいものは」
「……何も……」
「飲み物だけでも、飲むといい」
 ナマエの返答に、無限はそう言って、立ち上がると厨へ向かってしまった。どうして無限がここにいるのだろう、とナマエはいまさらながらに疑問に思った。無限は小黒を連れて、館を出て行ったはずだった。小黒はどうしているだろう。弟は――そう考えて、ナマエは息を詰まらせる。痛む胸に顔を顰め、蘇った悪夢をやり過ごそうと唇を噛みしめる。少し気が緩むと、すぐに喪失感に襲われ、どうにもならなくなってしまう。
 すぐに無限が戻ってきて、右手で水の入ったコップを持ち、左手をナマエの首の下に差し入れた。
「失礼する」
 無限に支えてもらい、ナマエはなんとか水を飲む。冷えた液体が唇を湿らせ、身体全体に染み渡る。
「ありがとう、ございます……」
 無限は優しい手つきでナマエを寝かせると、コップを寝台の傍にある机に置いた。
「あなたは数日眠っていたそうだ」
「そんなに……」
「館長に聞いた。私は任務を終えて、館に報告に立ち寄ったところだった。あなたが倒れたと聞いて、目の前が暗くなった……」
 そう説明しながらナマエの顔を見つめる無限の瞳には、限りない想いが込められいた。ナマエはその碧色の瞳に己が映っていることを見とめると、安心感に包まれた。寄る辺ない魂が、宿れる木の枝を見付けたように、揺らいでいた足元が定まったという思いがする。
 無限は風息を失ったときも、壊れそうになるナマエの心を引き留め、支えてくれた。そのときのように、心を落ち着けさせてくれる。
「無茶はしないでほしい」
「……ご心配をおかけして、申し訳ありません……」
 無限は険しい表情で問いかける。
「逸風から聞いた。近頃、よく眠れていないそうだな」
「……ええ。あまり……」
 万全の体調ではないのにも関わらず、無理をして迷惑をかけてしまった。そのことに気付いて、ナマエは内省する。
「無限様はお忙しいのに、お引止めしてしまったようで……」
「いや。今は任務もない。館に泊まっている。小黒も一緒に」
 だから、そばにいる。そう伝えてくれているように、ナマエには思えて、それは思い上がりだとすぐに首を振った。無限がナマエを気に掛ける義理はない。奇妙な縁は、館で別れたときに終わったはずだった。だが、無限が小黒の師匠であるかぎり、その繋がりは途切れないのかもしれない。無限と小黒が館を離れると聞いて、寂しくなかったと言えばうそになる。またこうして会えたことは、単純に嬉しいと思った。もう一度会えるのは、もっと先のことだと思っていたから。
「小黒は、今は……?」
「部屋に」
「顔を見たいですわ」
「負担ではないか」
 案じる無限に、ナマエはいえ、と答えた。
「連れてきていただけませんか」
「あなたが望むなら」
 無限はすぐに立ち上がり、部屋を出て行った。きっと小黒にも心配をかけてしまった。もう大丈夫だということを見せてやらなければならない。身体はまだ思うように動かなかったが、言葉を交わせれば安心させてやれるだろう。
 無限に連れられて入ってきた小黒は、ナマエの枕元に駆け寄ってきた。
「ナマエ! 起きたんだね、よかった……!」
「小黒。ごめんなさいね……」
 手を動かして、小黒の丸い頬を撫でてやりたかったが、指先を動かすのも億劫だった。
「ずっと心配してたんだよ。ひとりぼっちにしてごめんね」
「ありがとう。小黒はいい子ね」
「師匠、しばらくは任務ないんだって。だから、一緒にいられるよ。ね、師匠」
 小黒が無限を振り向くと、無限は小さく笑みを浮かべて頷いてみせた。
 すっかり「師匠」という呼び方が定着している。無限と二人で過ごしたこの数週間、深く心を通わせただろうことが伺えた。
「それは嬉しいわ。任務がない間は何をしているの?」
「修行だよ! ずいぶん金属を操るのうまくなったんだ。今度見せてあげるね」
「ふふ。楽しみね」
「小黒」
 しばらく話をしていると、無限が静かに立ち上がった。
「そろそろナマエを休ませてやろう」
「あ、そうだよね……。ごめんね、いっぱい話しちゃって」
「いいえ、聞けてよかったわ」
 やはり小黒は無限と共にいることが正しかった。それを知ることができて、ナマエは胸がいっぱいになる。もし、無限と出会わずあのまま離島で六人で過ごせていたら……。それはもう叶わない夢だ。
 無限と小黒が出て行って静かになった部屋は、ただの静寂すら重苦しくナマエに伸し掛かってくるようだった。
 あの島に帰りたい。弟たちと穏やかに過ごすことができたあの島に……。


 一か月ほどかかって、ナマエは元気を取り戻していった。その間、無限たちは言葉通り傍にいてくれた。それがどれほどありがたいことだったか、ナマエには言葉に尽くせない。
 朝、共に朝食を摂り、その後無限は小黒に勉強を教え、昼食をまた三人で摂り、午後からは金属の操り方など、身体を動かす修行をする。そして夕食を終えて、それぞれの部屋に戻って眠りにつく。
 霊質を削ってしまったせいもあるかもしれないが、近頃はよく眠れるようになっていた。目を閉じると恐ろしいものを見てしまいそうだったが、その前にすっと意識が遠のき、眠りに落ちる。
 無限と小黒が何かをしているのを眺めているときが一番心が慰められた。無限が優しく、時に厳しく導き、小黒はその言葉に従い、時に逆らい、よく笑い、ふと真剣な表情をする。それを受けて無限はまた微笑み、落ち着いた声で諭し、褒める。
 その応酬を寝台の上から、館の窓越しで、暖かな日差しの中で見ていると、心は過去にさかのぼっていく。
 風息が虚淮に挑み、洛竹が追いかけ、天虎が転がるように駆け回る。木々を揺らす風に笑い声が紛れて、青空は白くぼやけて、脳裏に焼き付いた景色は遠くなっていく。
 ――どうして……。
 いつも思いはそこへ戻ってしまう。
 ――どうして、風息……。

「ナマエ、お菓子ちょうだい!」

 汗を拭いながら戻ってきた小黒は、ナマエの隣に座ると、ナマエを見上げて待ちきれないように笑った。
 ナマエは笑みでそれを迎え、手ぬぐいで汗を拭ってやる。
「先にお茶を飲んだ方がいいようね」
「今ならいくらでも食べられそう! お腹ぺこぺこ」
「まあ。無限様の分まで食べてはだめよ」
 ナマエは用意していた茶壷から茶杯に冷たいお茶を注ぐ。小黒はそれを一息に飲み干して、お菓子に手を伸ばした。
「今日はこれで終わりにしよう」
「お疲れ様です、無限様」
 ナマエは無限にもお茶を注ぎ、腰かけた無限に手渡す。無限はお茶もそこそこに、小黒が食べきってしまう前にとお菓子を手に取った。二人ともよく食べる。その食べっぷりを見ているだけでこちらも腹が膨れそうだ。
 ふと、ナマエは無限の視線が自分の顔に注がれているのに気が付いて、袖で口元を隠した。
「何か……?」
「いや。顔色がずいぶんよくなったなと」
「おかげさまで、このように身を起こせるようになりました」
 ナマエは両手を膝の上にそろえ、背筋を伸ばす。無限はなおもナマエから目は離さず、よかったと呟いた。しかしすぐに口を一文字にして、口を開く。
「実は、そろそろ館を離れねばならないかもしれない」
「任務ですか」
 無限は頷いた。小黒はお菓子を飲み込み、手を挙げる。
「ぼくも行くからね!」
 無限はそれに微笑で頷いてやり、ナマエの方へ心配そうな目を向ける。
「しばらくかかるかもしれないが……」
「私は大丈夫ですわ」
 この通り、とナマエは自分の胸に手を当てて見せる。失った霊質をすべてとは言わないがずいぶん取り戻せた。普通に生活するのに支障はない。
「お気をつけていってらっしゃいませ」
「……ああ」
 無限が気兼ねせずいられるよう、ナマエは強いて笑ってみせる。もう同じことは繰り返さない。小黒のためにも、健常であらねばならない。氷雲城にいる弟たちを思えば、心が奮い立つ。彼らともう一度一緒に暮らせるときはきっと来る。そう信じている。
「ナマエさん、ここにいらっしゃいましたか」
 ナマエを呼びに来たのは冠萱だった。
「お話し中すみません」
 冠萱は無限に詫びて、ナマエに向き直る。
「ナマエさん、虚淮への面会が叶いました」
 ナマエはその言葉に思わず立ち上がった。
「体調もずいぶんよくなったと聞きましたが、いかがですか?」
「ええ……、すっかりよくなりました。虚淮は……」
「あなたのことを、心配していましたよ」
 では、と冠萱に促され、ナマエは無限たちに一礼すると、その場を離れた。



「姉様」
 鉄格子に額を押し付けるようにして、虚淮はナマエの顔をよく見ようとした。彼の額から伸びる二本の角が、短くなっている。力を押さえられているあかしだ。ナマエは言葉を失い、口元を戦慄かせてただただその顔を見つめた。
「虚淮……」
「倒れたと聞きました。お顔をよく見せてください」
 隙間から手を伸ばした虚淮に引かれるまま、ナマエは顔を近づけた。目の前には、心配に歪んだ虚淮の懐かしい顔がある。
「無理を言って面会を頼んだのです。傍にいられず……申し訳ありません……」
「いいえ、いいえ」
 ナマエは胸がいっぱいで、それ以上言葉にならない。虚淮はナマエの潤んだ目元を見て、少し表情を緩めた。
「まだ……あなたの傍へは、いけません」
「ええ……。わかっています」
「……風息はあそこに残ることを選んだ。それでも私たちは……私は、したことに後悔はありません」
 虚淮の頑ななまなざしは縋るナマエを拒む。
「ただ、あなたの傍にいられないことがつらい」
「いつかきっと、みながそろって暮らせる日が来ること、姉はずっと待っています」
 それでもナマエは虚淮の手をしっかりと掴み、瞳を見据える。
「あなたも信じて」
「……それは、まだ無理だ」
 虚淮は手を引き、ナマエの手を離した。ナマエは追いすがろうとしたが、身体の横に引き戻された手は、硬く拳を作った。
「お元気な姿を見られてよかった」
「虚淮……」
 それきり、虚淮は口を噤んでしまった。ナマエもそれ以上伝える言葉を持たず、後ろ髪を引かれたまま牢を後にするほかなかった。
「残念ながら、彼らが解放される日はまだ遠いようです」
 潘靖が苦い表情でナマエに告げる。ナマエもそう思わざるを得なかった。人に住処の森を荒らされたことに怒り、奪われたものを取り返さなければならないと、彼らは固く決意している。その思いは風息の選んだ最期によって盤石なものになってしまったのかもしれ
ない。
 風息をあそこまで追い詰めたのは、誰か。
 そんなやつらと、共生などできるものか。
 風息の樹は龍遊の地に根差し、長い時をそこで過ごすことだろう。ナマエには、まだその樹に会いに行く勇気がない。風息は待っているかもしれない。またあそこに、兄弟が揃い、霊質に満ちた豊かな森が広がることを。
 ナマエは嗚咽する。
 歩く先は真っ暗で、自分が前に進んでいるのかどうかすらわからない。このまま進んで、いったいどこに辿り着けるだろう。左右に手を伸ばしても、頼るべき弟たちはもういない。
 ふと、暗闇の中に碧色の瞳が見えた。
「無限、様」
 その足元には、小黒もいる。
 今のナマエの寄る辺は彼らだった。
 まだ前は見えない。けれど、歩けるだけの力はある。この一歩が願いに近づくなら、歩いていける。
 歩いて、いかなければ。
 ナマエは顎を上げ、白い雲の流れる青空を見上げた。

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