第十八話 昏



「初めまして、ナマエさん。私は紅泉よ。よろしくね」
 翌日、一人の妖精が部屋を訊ねて来た。見た目はナマエと同じくらいに見える。彼女は木属性だった。はきはきした物言いは清々しく、好感のもてる笑顔の女性だ。
「あなたは以前、館にいたことがあるそうね」
「ずいぶん昔ですけれど……」
「最近は館のシステムもいろいろ変わっているから、教えるようにって館長に言われたの」
「ありがとうございます」
「そんな堅苦しくしなくていいわ! これから一緒に住むんだもの。もっと気安くいきましょ、ナマエ」
「わかったわ、紅泉」
 ナマエは紅泉の明るく親しみやすい性格にほっとした。紅泉は館の中を案内し、使い方などをナマエにざっくりと教えた。
「わからなかったらなんでも聞いてね。近くにいるひとに訊ねてもいいわ。みんな、あなたのことを知ってるから大丈夫よ」
 歓迎している、ということを伝えるように、紅泉はにこりと笑ってみせた。
「あとね、毎週、何人かで集まってお菓子を作っているの。よかったら今度、あなたも参加しない?」
「お菓子は作ったことがないわ」
「ならちょうどいいわ。教えてあげる」
 紅泉はお菓子づくりだけでなく、ナマエが知らないことをあれこれと教えてくれた。館に一人で来たナマエには、頼もしく、ありがたい存在だった。
 館を一通り巡り終えて、ふたりは休憩がてらお茶をすることになった。
 紅泉はふうと息を吐いて椅子に深く腰掛けると、少し言いにくそうにしながら口を開いた。
「聞いたわ。あなたの兄弟のこと……たいへんだったわね」
「……ええ」
 ナマエは冷たい茶杯を両手で包み、その水面に目を落とす。
「私も木属性だから、あんまり他人事だと思えなくて……。出身はここじゃないけど、私も故郷を追われたくちだからさ」
「そうだったの……」
「まあ私は、非力だから。自分ひとり生きるので精いっぱい。ここがあって助かったわ。館には本当に助けられた」
「ほんとうに……」
 だからね、と紅泉はナマエの手に手を添えた。
「あなたはひとりじゃないからね。私たちを新たな家族だと思ってくれていいわ。ずっとここにいるんでしょ?」
 ナマエは紅泉の手を握り返した。弟たちがここにいる限り、ナマエがここを離れる理由はない。
「ありがとう」
 しっかりと紅泉の瞳を見つめ返して、感謝を伝えた。



「ナマエさん、いらっしゃいますか」
 あるとき、ナマエの元を訊ねて来たのは逸風だった。
「はい」
 ナマエが戸を開けて出迎えると、逸風は厳しい表情をしていた。その表情を見て、やはり何か起こっているのだと、ナマエは悟る。
 さきほどから、館全体がざわざわとしていたことには気付いていた。
「何か、事件が?」
「ええ。山火事だそうです。そこで、あなたの力もお借りできればと……ですが」
「わかりました」
 ナマエはすぐに頷いた。逸風はナマエの顔を見て何か言いたそうにしたが、口を噤み、ナマエを先導して歩き出した。広場に行くと冠萱がいて、数人の水属性の妖精を集めて飛行妖精に乗ろうとしているところだった。
「ナマエさん、助かります」
「お役に立てるなら、いくらでも」
 館長にも伝えてあった。自分の力が――治癒が、役に立てるときは、遠慮なく呼んでほしいと。そのときは思っていたよりもすぐにやってきた。館の自室でひとり過ごす時間は、やけにゆっくりと過ぎていくものだった。持て余された暇に思い出すのはやはりあの事件についてだった。その傷はまだ塞がる様子もなく、生々しい。
 飛行妖精に乗り、しばらくすると、空の一部が黒い雲に覆われているのが見えてきた。さらに近寄ると、それが雲ではなく絶え間なく燃え上がる炎から吹きあがった黒煙であることがわかった。山奥での火事は、とっくに人間の手に負えない広さまで広がってしまっていた。
 ――木が燃える。
 ナマエは眉を寄せてその光景を見下ろした。巨大なけものの口のような炎がちらちらと緑の歯に噛みつき、舐め、燃やし尽くしていく。
 そのけものが通ったあとに残されるのは黒焦げの残骸だけだ。
 さらに高度を下げると、妖精たちが懸命に消火に当たっている姿が見えてきた。ナマエたちは彼らから少し離れた場所に降り、広がろうとしている炎を抑え込むことになった。逸風と冠萱は上空から状況を見るため飛行妖精に残り、ナマエたちだけ森へと降りた。地上は煙で視界が悪い。炎は見えないが、むっとする熱さが肌を包んだ。ナマエは口元を袖で覆いながら、火元へ向かう。これほど大きな炎に向かうのは初めてだったが、尻込みする暇はない。
 ナマエは炎を囲い、まだ燃えていない木々と隔てるように氷の壁を作った。炎の逃げ道を塞いで、一方向に向かわせ、そこを水で消していく。そういう手はずだった。ナマエと同じく氷使いの妖精たちが、あちこちで壁を広げていき、ナマエの壁と繋げた。作業には時間を要したが、順調に進んだ。
「西への飛び火は完全に防げたな」
 それを上空から見ていた冠萱は、額に汗を滲ませながら炎の行く手と風向きに注意を凝らしていた。このまま風が東へ流れていけば、木の少ないところへ炎を誘導できる。
 ナマエも飛び上がって、壁の様子を確認した。炎の勢いに負けず、その侵攻をよく阻んでいる。水の妖精たちは狭められた範囲の中で、一気に消火しようと息巻いていた。
「……っ」
 その時、突風が吹いた。下から吹き抜けるように鋭い風がごうっと唸り、ナマエの髪を逆立てる。炎が一瞬膨れ上がり、氷の上に乗り上げた。
「……いけない……!」
 炎の勢いは強く、あっという間に燃え広がる。周囲の木の中で一際大きな老木がそれに巻き込まれる。
 ――風息
 ナマエの中で、風息の樹が炎に巻かれたような錯覚が起きた。がくりと視界が揺らぐ。あの日から、ナマエはろくな睡眠を摂れていない。万全とはいい難い中、すでに随分霊質を使ってしまっていた。
「だめ……!」
 ナマエは怯えを振り切り、老木の元へ急ぐ。
「燃やしてはだめッ!」
 自分にできる精いっぱいの力を出し切って、老木を取り巻く炎ごとすべてを凍らせた。それと同時に、ナマエの意識が途切れる。
「ナマエさん!」
 逸風の声が空に響いた。
 飛行妖精が斜めに飛び出し、ナマエの元へと向かう。落下するナマエの身体を、間一髪のところでその背中で受け止めた。逸風はすぐにナマエの様子を確認する。
「彼女は大丈夫か」
 冠萱に訊ねられて、逸風は小さく首を振った。
「力の使いすぎです。……なんて無茶を――」
「お陰でもうすぐ鎮火できそうだ。ふたりは先に館に戻りなさい」
「はい」
 冠萱が森へ飛び降りると、飛行妖精は向きを変えた。


 逸風はナマエの寝台に彼女を横たえると、その手を取り、自分の手の平に乗せた。失われた霊質は与えることができない。逸風にできることは消耗しているナマエの身体を少しでも楽になるようにしてやることだけだ。
 あの後、ナマエが大部分の炎を抑えてくれたおかげで山火事は鎮
火された。対処が早かったため、延焼は狭い範囲ですんでいた。
 幸い人や妖精の怪我人は出なかった。そのため逸風もナマエの傍についていることができる。
 冠萱にナマエを呼びに行くよう言われ、部屋を訊ねたとき、出迎えた彼女の顔は白かった。よく眠れていないことは一目でわかっていた。だから、体調がよくないのであれば冠萱にそう伝えて、手伝ってもらうのを断念した方がいいと思った。だが、ナマエは逸風がそう言う前に、行くと答えたので止めるタイミングを失ってしまった。実際、ナマエがいてくれたから火事は大事になる前に収めることができた。しかしそれは、ナマエの犠牲のおかげとも言える。彼女はここまで身を削る必要はなかったはずだ。誰かが無茶をしなければならないような人数ではなかった。彼女自身、本調子ではなかっただろう。それなのに、どうして。
 逸風は青ざめたナマエの顔を見つめ、眉を寄せる。
 あの日、ビルが倒れ、領界が広がるのを、少し離れたところから逸風は見ていた。そのまま龍遊を飲み込んでしまうかに見えた領界は、しかし夜明けとともに消え、あとには大きな樹が一本、残された。
 その樹に縋っていたナマエの後ろ姿を、逸風も遠目から見た。
 やがて無限に伴われ、歩き出した様子は、今にも折れてしまいそうなほどか細かった。無限がいなければ、彼女はずっとその樹に寄り添っていたのかもしれない。彼女の大切な人が成った樹だ。
 あの夜何が起こったのかを、冠萱と一緒に館長から聞いた。妖精の反乱。人間社会にあれほどの混乱をもたらした妖精を、逸風は初めて見た。故郷を取り戻す。その動機を聞いて、逸風も感じるところがなかったわけではない。その悲願を聞けば、首謀者の顛末がより一層悲痛に聞こえた。
 彼女もまた龍遊の出だと聞いている。彼らと共にいたが、この反乱には反対していた。弟を目の前で失ったのだ、その悲嘆はどれほどのものだろう。逸風には想像することしかできない。だが、彼女は少なくとも人前では気丈に振る舞っていた。ただ館の好意に甘えるわけにはいかないからと、自分の力が必要なときがあればいつでも言ってほしいと、働く意思すら見せていた。まだ泣き暮れていてもおかしくない日数しか経っていない。それなのに、彼女はそうしない。けれど、やはり無理をしていたのだろう。その結果がこれだ。
 やはり声をかけるべきじゃなかった、と逸風は唇を噛む。
 自分が冠萱にまだ仕事を頼むのはやめておきましょうと進言するべきだった。彼女の顔色が悪いことには気づいていたのに。彼女自身、自分の憔悴に気付いていなかったのかもしれない。そうでなければ、倒れてしまうほど力を使うことはなかっただろう。
 後悔が逸風を苛み、ナマエの回復を願う気持ちをより強めていた。
 早く顔色が戻って、その瞼が開かれますよう。
 心を込めながら、ナマエの手を握る指に少しだけ力を込めた。

 任務に一区切りがついて、無限は小黒を連れ龍遊を訪れていた。潘靖に報告するためと、ナマエの顔を見るためだ。小黒と共に館を離れることになり、ナマエを残していく形になって、ずっと気にかけていた。それは小黒も同じで、あの事件の爪痕はそう簡単に薄れはしない。事件の首謀者の自決に一番心を痛めているのは、彼女だろう。彼はずっと共に過ごしてきた姉の目の前でその命を絶った。
 彼の決意がそれほど硬かったことに、無限は気付けなかった。
 小黒が巻き込まれないようにするのに手一杯で、彼を止めることはできなかった。もとより、彼に小黒を害す気持ちはもうなくなっていただろうが。
 天を衝く勢いで伸びる樹を呆然と見上げる彼女の横顔が目に焼き付いている。必死に樹をかき分けて弟を救い出そうとする姿が痛々しかった。
 館に彼女を預けた判断は間違いではないと思う。潘靖はもちろん、他の妖精たちも彼女によくしてくれるだろう。自分が傍にいたところで、何の役に立てるというのか。
 なんと声を掛けるべきか、何をしてやれるかはわからない。
 ただ顔を見たかった。
 彼女からすれば己の顔を見るのは嫌かもしれない。彼を追い詰めたのは己だ。その事実は変わらない。
 あるいはもっと早くに止めていれば、あの離島で身柄を捉えていれば、あそこまでの被害は起きなかった。小黒が傷つけられることも、彼女が弟を失うこともなかった。
 そう考えればますます彼女に会う資格などないという気持ちになっていく。
 小黒はただナマエのことを案じていた。
「僕には師匠がいるけど……ナマエはひとりぼっちだよね」
 館に残してきてしまったことを、ずいぶん悔やんでいるようだった。優しい子だ。あまり思いつめないようにとは言ってやったが、気丈に振る舞っていたナマエの姿が心に残っているのだろう。弟たちと引き離されて、館にひとり、彼女はどんな思いでいるだろう。
 小黒の顔を見せてやれば、慰めになるかもしれない。
 館に寄る理由を何かとつけて、数週間ぶりに戻ってきた。
 だが、そこで知った彼女の現状は想像を上回るものだった。
「数日前、山火事を消すため、彼女の力も借りました。彼女は限界を越えて力を使い、今は――寝込んだまま、まだ目覚めません」
 潘靖との話が終わる前に、無限は部屋を飛び出していた。その後を小黒が追う。逸風がナマエの部屋まで誘導してくれた。
 ナマエは、寝台の上に青ざめた顔を横たえて昏々と眠っていた。
「ナマエ……っ」
 小黒は顔の傍へ飛びつき、その瞼が震えることもないのに悲し気に眉を下げた。
「ナマエはどうしちゃったの?」
「失った霊質の量が多かったのです。まだしばらくは、このままかと……」
 逸風も暗い顔で小黒と無限に説明をした。無限は小黒の後ろからナマエの顔を見つめ、息を詰める。
「……なぜ、そこまで……」
「近頃、よく眠れていらっしゃらなかったようです」
 無理をされたんでしょう、と逸風が声を掠れさせる。
「僕がお止めすべきでした。怪我人は彼女以外出なかった。僕が――」
 自分を責める逸風の肩を、無限は掴み、それ以上言わなくていいと首を振る。
「彼女は自分の身を賭すことを厭わない人だ。たとえ止めたとしても、意志を貫いただろう」
 逸風ははっとして、物言わぬナマエの顔に視線を落とし、唇を噛みしめた。
「ナマエ、いつ起きるの?」
「それは……」
 小黒の問いに答えを持つものはいなかった。
「しばらく任務はない。ここに泊まるか、小黒」
 代わりに無限がそう言うと、小黒は泣きそうな顔を手で擦って、うん、と頷いた。無限が館に長居することはほとんどない。今まで戦った妖精たちとの軋轢が原因だ。彼らの中には、無限を恐れ、厭うているものたちが少なくない。無駄に彼らの神経を逆なでするのは無限も望むところではないから、なるべく彼らを刺激しないよう、距離を置いていた。だが、今回はそうも言っていられない。せめて、彼女が目を覚まし、元気になったことを確かめるまでは、滞在を許してほしい。
「館長に言って来よう。小黒、ここで待っているか」
「……うん」
 小黒はナマエの顔から目を離さないまま頷いた。
「それなら、僕が伝えてきます。部屋の用意も」
 すぐに動こうとした無限を止めて、逸風が申し出た。無限はそれをありがたく受けることにして、部屋を出る逸風を見送った。
 寝台の枕元にしがみついている小黒のために椅子を動かしてやり、自分は少し離れたところに腰を落ち着けた。
「ナマエ……」
 小黒は、布団から出ているナマエの手にそっと自分の小さな手を重ねた。その体温はいつも以上に冷たかった。

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