第七話 襲



 風息たちが旅立って数日経ち、ナマエが落ち着かない心を持て余して北を見ていると、兎に似た妖精、珀がその隣に立った。
「きっと、豪雷たちはいまごろ磊塊をやっつけて、こっちに向かっているところだよ。今日には、ここに帰ってくるよ」
「ええ、そうね」
 珀は心からそう信じているという顔で、ナマエを励ました。ナマエも風息たちの強さは知っている。そうそう負けないことはわかっていたが、それでも不安が拭えなかった。珀のように、まっすぐに弟たちを信じてあげよう、と思ってもう一度空を見たとき、虚淮がこちらに向かって飛んできているのを見付けた。
「虚淮だわ。戻ってきた!」
 ナマエは珀と顔を見合わせると、いてもたってもいられず飛び上がり、虚淮を迎えに行った。
「姉様。ただいま戻りました」
「虚淮。顔をよく見せて。怪我はない?」
「私も、皆も元気です」
 虚淮が振り返って見せると、後方に豪雷の大きな姿が木々の合間から見えた。
 風息たちが帰ってきたその日は宴になった。匿われていた妖精たちは木の実をたっぷり集め、狩りをして肉を焼き、風息たちを労った。
「磊塊に従っているやつらを蹴散らして、磊塊を懲らしめてやった。やつらはさらに北に逃げていったよ」
 風息は酒を旨そうに呷りながら、戦いの様子を話してくれた。
「北はこれからの季節、住みにくいだろう。だから南下してきたのかもしれんな」
 虚淮は鳥肉を噛みながら磊塊たちがなぜ今やってきたのかを考える。洛竹は両手に果物を持ってその甘さに舌鼓を打った。
「風息も虚淮もすごく強かった! ナマエ姉に見せたかったよ」
「お肉。うまい」
 天虎は珀が焼いた肉を食べ、満足そうに目を細めた。
「ははは、おまえらのお陰でおれたちの居場所を取り返せた。たいしたやつらだ! さあさあ、たくさん食ってくれ」
 豪雷も大声で笑いながら、風息の背をばしばし叩く。持っていた木の器から、酒が溢れそうになって、風息も笑った。
 ナマエは勝利に沸く彼らを眺めて、危険が去ったことに安堵し、弟たちのことを誇らしく思った。

 翌日、豪雷たちは元の場所へ帰ると言って旅立っていった。
「自分より小さな若い妖精にやられて、磊塊も恥ずかしくて戻ってこれんだろうさ」
 豪雷はそう言い放って、万一何かあればまた頼むと風息と手を握り、妖精たちを引き連れて帰っていった。
「本当に、そうだといいのだけれど」
「しっかり懲らしめてやったからな。少なくとも今年の冬は動けないさ」
 豪雷たちを見送りながらつい零したナマエに、風息はそう答える。
 賑やかだった洞窟が静かになり、少しだけ寂しさを感じた。だが、妖精たちがそれぞれの居場所で平和に暮らせることが一番だ。
 珀のような幼い妖精が脅かされずに済むように祈りながら、ナマエは洞窟を出た。
 日月は過ぎていき、秋も深まり、実り多かった木々が枯れ始める季節に入っていた。けものたちは活動を鈍らせ、鮮やかだった森がくすんでいく。ひんやりと澄んできた空気はナマエにとっては好ましい。ナマエは冬の兆しを探そうと森を歩いた。
 枯葉が木々の根を覆い隠し、けものたちが足早に行き交う。冬ごもりの支度をしているのだ。小鳥たちは声を潜め、空を低く飛んでいく。今年もたくさん雪が降りそうだ。
 ナマエはふと気になる音を捉えて、足を止めた。
 硬い蹄や毛皮に包まれた爪先が草を踏むのとは違う、這うような音だ。木々の影に何かがうごめくのを見つけて空に飛び上がろうとしたが、なぜか身体が動かなかった。
「……っ!?」
 指の先すらぴくりとも動かせない。木々の向こうから、金色の双眸が光り、ナマエを睨みつけていた。
「動けんだろう。俺の術だ」
 金の瞳は茂みから這いだすと、吐息が漏れるような掠れた声で咽喉を鳴らし笑った。細い舌がちろちろと口先から伸びる。蜥蜴の姿をした妖精だった。顔の幅は樹の幹ほどもある。全身が茂みに隠れて見えないほど長い。ナマエは氷を張ろうとしたが、霊質自体を操れなくなっていた。
「ククク……。お前がやつらの“姉”だろう。こんなところで一人でいるとは、不用心だな」
 蜥蜴はナマエの目の前まで来ると、首をくねらせながらナマエの全身をねめつけ、しゅるしゅると尻尾をナマエの身体に巻き付け、うなじに乾いた息を吐きかけた。
「……っ」
「俺は磊塊。覚えているだろう、この名を。もう二度と忘れさせんぞ」
 それは風息たちが懲らしめたはずの妖精だった。
「不意を突かれるとは不覚だった。貴様の弟は卑怯者だ。俺が気を抜いている隙を狙ってくるとはな。お陰でせっかく手に入れた場所を追い出され……忌々しい! あの日から、お前たちのことを忘れたことはなかったぞ」
 磊塊は牙を剥いてナマエに威嚇する。
「今度はこちらの番だ。あの程度で俺たちを追い出したと思うとは。思い知らせてやろう……俺の屈辱を」
 蜥蜴はナマエに巻き付かせた尾に力を入れる。抵抗しようにもまるで身体が動かない。ぎしぎしと身体が軋む。ナマエの身体を持ち上げるため、磊塊がぐっと尾を縮めると、ぱきりと音がしてナマエの左足が膝下から折れた。
「なんて冷たい身体だ。お前も氷か。今すぐ砕いてやってもいいが、それじゃあつまらん。砕くなら弟たちの目の前だ」
 ククク、と蜥蜴は愉快そうに咽喉を鳴らした。


 夜になってもナマエが戻ってこない、と気が付いたのは洛竹だった。
「きっと何かあったんだ。すぐに探さないと!」
 風息もこれに賛成し、それぞれ探す方向を割り振って、散開した。
 虚淮は空から、天虎はけものたちに協力してもらい、それぞれのやり方でナマエの行方を探す。天虎の元に、ナマエが攫われたのを見たけものが急いで駆け寄ってきて、欠けた左足の落ちている場所を教えた。風息たちはその場に集まり、確かにその足がナマエのものであることを確かめた。
「巨大な蜥蜴……。あいつしかいない」
 風息は奥歯を噛みしめて、蜥蜴の這った痕跡を睨む。それはこれみよがしに残されていた。まるで早く追って来いと挑発しているようだ。
「磊塊」
 虚淮も姉の足を大事に抱えながら、表情を険しくする。
「また戻ってきたなんて……。風息!」
 洛竹も拳を握り締めて、風息の指示を求めた。風息は頷いた。
「ナマエを取り戻しに行く」
 四人は残された痕跡を追いかけて、走った。
 痕跡は開けた丘の上まで続いていた。そこには、逃げも隠れもせず、磊塊とその手下が待ち構えていた。
「磊塊!」
 風息は地面を踏みしめ、磊塊と対峙した。その尾は、ナマエの身体に巻き付けられていた。
「それ以上近づくな。こいつがバラバラになるぞ」
「そんなことしてみろ。お前が肉塊になる」
 風息は怒りに低くなった声で凄む。
「ナマエを離せ」
「いいだろう。だが条件がある」
 蜥蜴は顎を上げ、風息を見下すようにして舌をちらつかせた。
「お前たち、俺の手下になれ」
「……」
「風息、私のことはかまいません、逃げて」
「ナマエ」
 声を発したナマエの首に蜥蜴の尾が巻き付く。風息はナマエの方を見ず、鋭い視線は憎き敵に向けたまま、口元に笑みを浮かべて見せた。
「大丈夫だ。俺が助ける。必ず」
「はっ、俺に睨まれて、お前に何ができる!?」
「……っ!」
 磊塊は術を風息に向ける。途端に風息の身体が強張った。少し後ろに控えていた虚淮たちも同様に術に掛けられる。
「どうだ、俺の術は! この間は食らわせてやる暇もなかったからな。不意打ちなんて卑怯な真似さえされなければ、この俺がお前たち程度に負けるわけがないのだ!」
「風息……!」
 磊塊は勝利を確信して笑い声を上げた。ナマエの身体から尾を離し、風息の身体に巻き付ける。躊躇わずに尾を縮めて、風息の身体を締め上げた。
「……っ」
「クククククッ! 為す術なく骨を砕かれる気分はどうだァ!?」
「やめて!」
 ナマエの悲痛な叫びが空しく響く。風息の肩が締め付けられて縮こまる。
「この……程度で……」
 しかし、それ以上尾の輪はなかなか縮まない。
「な……っ」
「俺を、抑えられると……思うなぁっ!」
 風息が吠えると同時に、その足元から木の蔦が伸び上がり、蜥蜴の身体のあちこちに絡みついた。
「ぐぅっ! な、なぜ動ける!」
「お前ごときの力が俺にきくものか」
「くう……!」
 磊塊は身体中を縛られて、身悶えする。ナマエの傍に、同じく磊塊の術を解いた虚淮が来て、ナマエを抱えて飛び上がった。
「姉様、遅れてすみません」
「虚淮……あの子たちは」
 洛竹と天虎も動き出して、磊塊の手下たちを抑え込んでいた。
「二度とこんなことができないようにしてやる」
 風息は磊塊の喉元に爪を立てて掴みかかる。
 磊塊はその手を通して力を奪われていくのを感じた。
「なっ……、なんだこれはっ……、お前、俺に、何を……っ!?」
「その下衆な術と霊質を奪ってやる。これ以上悪さをできないように」
「なんだとっ……!」
 磊塊の身体から霊質がどんどん吸い出されていき、風息が戒めを解いても、まるで動けない様子で地面に転がった。
「なんて……ことを……っ」
 磊塊はだらしなく胴体を伸ばしたまま、目だけをぎょろりと動かし風息を見上げる。風息はその顔を冷たく見下ろした。
「姉さんを傷つけた罰にしても軽いくらいだ。命を奪わないでやることに感謝しろ」
「……っ」
「二度と龍遊に足を踏み入れるな。次はない」
 風息は磊塊とその手下たちを睨みつける。手下たちはすっかり怖気づいて、ただただ風息の怒りが自分たちに向けられないよう大人しくしているしかなかった。
 虚淮は磊塊の身体を氷で固めると、空へ浮かせた。
「龍遊の外へ捨ててくる」
「頼んだ」
 風息に頷いて見せると、虚淮は手下たちには目もくれず飛んでいった。風息がナマエの方に目を向け、殺気を潜ませると、手下たちは今だとばかりに方々へ逃げ出していった。風息も彼らにはもう構わず、ナマエに駆け寄る。
「ナマエ、足は」
「このとおりよ」
 ナマエは虚淮から受け取って元通りくっつけなおした左足を裾を少し上げて見せる。風息はそれを見て険しかった表情を少し緩めた。
「ナマエ姉!」
 洛竹と天虎ももう手下たちが戻ってこないのを確認して、駆け寄ってきた。
「あなたたちも。ありがとう」
「よかった……! ごめんな、ナマエ姉」
「ごめん」
 洛竹と天虎は情けない顔で俯く。大事にならなかったとはいえ、大事な姉を危険に晒してしまった。風息も眉を下げるので、先ほどまでの気迫との落差に、思わずナマエは笑った。
「もう、あなたまで。おかげで、私はこのとおり無事よ」
「……うん。よかった」
 風息はやっと笑顔を見せた。
「じゃあ、帰ろうか」
「ええ」
「帰ろう!」
 洛竹がナマエの隣に来て、その手を握る。ナマエは手を握り返して、微笑んだ。

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