第十七話 喪



 気が付けば、ナマエはふかふかとした大きな妖精の背に揺られ、空を移動しているところだった。
 妖精の背には無限と小黒、潘靖と冠萱、逸風、若水と鳩爺、そしてナタが乗っている。
 これから、妖精会館に行くのだっけ、とナマエはぼんやりと目的地を思い出した。
 そこには、捕えられた弟たちがすでに連れて行かれているという。
 弟のことを思った瞬間、ナマエは胸から込み上げる衝動に口元を抑えた。
「ナマエ」
 すかさず、無限がナマエの肩に手を添える。ナマエの目の前にはあの樹が生い茂っていた。あの子の身体を貫いて成った樹。かろうじて、無限の手のぬくもりが、それが今は幻であることを教えてくれる。
「ナマエ」
 小黒がナマエのそばに寄ってきて、前にしゃがみこんだ。ナマエの視線が彷徨い、小黒の顔で焦点を結ぶ。ナマエは大きく息を吐いて、なんとか心を落ち着けた。
 そうして目に入ったのは、傷だらけの小黒の肌だった。
「こんなに怪我をして」
 ナマエは小黒の頬に手を添えて、怪我を治してやる。小黒はくすぐったそうに目を瞑ったが、されるままにじっとしていた。目を開けると、ナマエの指先が欠け、氷の表面がのぞいていることに気付いた。ナマエ自身がそれを気にしていない――気付いてすらいない様子であることを、痛々しく思う。
 そんな小黒の視線には気付かず、逆にナマエが小黒を気遣い、乱れた髪を指で梳いた。
「痛かったでしょう。……可哀想に」
「ぼく、……大丈夫だよ!」
 声を掠れさせたナマエを安心させるために、小黒は必要以上に声に力を込めて答えた。こんな怪我、なんでもない。傷つけられたことは、気にしてもいない。だから、心配しないで。
 小黒の小さな手がナマエの手に重ねられる。ナマエは小さく息を吐く。小さな弟の前で、姉が取り乱すわけにはいかなかった。
 少し前には、家族の一員として受け入れると決めた子猫の妖精だ。今も、ナマエの大切な弟となったことに変わりはない。
 その子に心配をかけまいと、ナマエは心を奮い立たせ、強いて平静を装うように努めた。
 青ざめ、強張ってはいたが、涙にくれるでもなく凛として前を向くナマエの横顔を見守っていた無限は、そっとその細い肩から手を離した。
 飛行妖精は湖を越え、さざ波を立てながら桟橋の先端に着水した。妖精の背から降りるとき、先に降りていた無限がナマエに手を差し出す。ナマエはその手に捕まり、そろそろと桟橋に足を付けた。
 小黒は若水に手を引かれて、館を見上げていた。これから彼もナマエも、ここに住むことになる。建物の欄干には無限や潘靖らの到着に気付いた妖精たちが顔を並べて手を振っていた。
 無限様、と女性たちの声が聞こえて、ナマエは彼の人望の厚さを知った。長年執行人を務めていることが何よりの証拠だ。彼の強さを目の当たりにした今、彼が人間であるということがどれほどの障害になろうかという気もする。
「では」
 一番後ろを歩いていた無限が、ふいに立ち止まった。ナマエも、小黒も何かと思い振り返る。
「ここでお別れだ」
 それは意外な言葉だった。小黒は驚き、無限の元に走り寄る。
「一緒に住まないの?」
「よく思われてないからな」
 潘靖の隣にいた鳩爺が、「強すぎる。無限に負けた妖精も多い」と口添えした。ナマエは島を襲撃されたときのことを思い出した。確かに、あのように一方的にねじ伏せられれば、恨みを抱く妖精も出てくるだろう。
「きっと、ここを気に入る」
 無限は小黒に微笑みかけ、踵を返す。
「ときどき様子を見に来る」
 そして歩き出してしまう。館とは反対の方向へと。
 ナマエはその後ろ姿を見送り、静かに頭を下げた。
 無限が遠ざかるにつれ、小黒の頭が下がり、肩が丸まり、震えた。駆け寄ったものかとナマエが案じていると、
「師匠ー!」
 小黒が涙に震える声で叫んだ。
 無限は驚いて足を止める。
「ぼく、師匠と一緒にいても、いいですかぁ!」
 涙を手で拭い、鼻をすすりながら、小黒は一生懸命訴えた。ナマエは、無限が振り返る前に、呼吸を整えるように肩を上下させたのを見逃さなかった。
「……もちろん」
 そして振り返った無限の表情には、優しい笑みが浮かんでいた。
 小黒は喜んで猫の姿のときのように四つ足で無限に駆け寄り、その胸に飛び込んだ。そんな二人の姿を見て、ナマエの目も潤んでくる。あの子は居場所を見つけられたのだ。
 ナマエの脳裏に、島から大陸への道中の二人の姿が蘇る。初めは敵対していたが、同じ属性であることをきっかけに、少しずつ歩み寄っていったことで、ナマエも人間と妖精の関係について希望を見出すことができた。無限の傍にいるなら、小黒はきっと幸せになれるだろう。
 無限の胸で涙を拭っていた小黒は、ふと腕から降りると、ナマエの元に駆け寄ってきたので、ナマエはしゃがんで小黒と視線を合わせた。
「あのね、ナマエ」
 小黒の目元も丸い頬も小さな鼻の頭も真っ赤になっている。
「ぼく、師匠と一緒に行くよ」
「ええ、それがいいわ」
 小黒の成長を傍で見られないことは残念だが、彼のところにいるのが一番いいだろう。ナマエは小黒の頬を袖で拭ってやる。小黒の体温は熱いくらいだった。
「また来るね!」
 眩しい笑顔と共にそう言い残して、小黒は無限と一緒に飛行妖精に向かう。
 ナマエはその姿が見えなくなるまで二人を見送った。

 館の中に、ナマエは一室を用意してもらった。そこで少しだけ休んでから、潘靖に会えないか冠萱に訊ねた。冠萱はすぐに潘靖を呼びに行ってくれた。
「館長」
「ナマエさん、ご無沙汰しておりました」
「潘靖さんも、ご健勝でなによりですわ」
 丁寧に挨拶を交わしたあと、ナマエは表情を引き締める。
「お呼び立ていたしましたのは、お願いがあるからです」
「……虚淮たちの処分についてですね」
「はい」
 ナマエは膝をつき、額が床につくほど頭を下げた。
「どうか寛大な処置をお願いいたします。あの子たちはたくさんの妖精、人間を傷つけ、街を壊し、法を犯しました。しかし、それも故郷である龍遊を取り戻し、妖精たちのための森を改めて育てるためでございました。あの子たちの心情をどうか思いやってくださいまし」
 ナマエは唇を震わせ、言い淀んだ。
「……風息という犠牲を、私たちは払いました。あの子のその覚悟を、どうか、無下にはなさらないでくださいまし」
 潘靖はじっとナマエの訴えを聞いた後、頭を上げてくださいとナマエに言い、椅子に座るよう勧めた。ナマエはその勧めを断って立ったまま潘靖の言葉を待った。
 潘靖は難しい表情のまま口を開いた。
「彼らが起こした事件は人間と妖精の関係を揺るがす大きな問題になります。これほど大規模に破壊されたとなれば、妖精の存在を隠すのは難しい。あなたのおっしゃることは理解しますが、彼ら自身がどう考えているのかが、今後の処分を左右するでしょう」
「判断をお下しになるときには、どうか私の言葉をご一考くださいますよう、なにとぞお願い申し上げます」
 ナマエは深く頭を下げて、部屋を辞した。
 処分が決まるまでは、虚淮たちと会うことはできないと言われてしまった。ナマエには処罰が少しでも軽くなるよう祈るしかできなかった。

 部屋に戻り、一人きりになると、身体から力が抜けてしまった。倒れ込むようにして椅子に凭れ掛かる。
 風息、と音にはせず彼の名を呼ぶ。
 無限と小黒に敗れ、目的が叶わないと理解した風息は、そのまま捕まることをよしとしなかった。
 最後に見た彼の瞳が、その壮絶で悲痛な最期の叫びを、ナマエの心に刻みつけている。
 故郷の地からもう離れたくないと、自ら伸ばした樹の鋭い先端でその身を穿ち、龍遊の呼吸となった。
 もう少し早く、それに気付けていたら。
 風息の心がそれほどまでに深い絶望に飲まれていることを、もっと早くに知れていたら。
 龍遊でなければ意味がないと焦がれていた心に、寄り添うことができていたら。
 龍遊が取り戻せないなら、己に価値はないと思いつめていたのだろうか。たくさんの妖精たちが龍遊を去らざるを得なかった。風息は彼らの背中を、いつも手のひらに爪をくいこませながら、歯を食いしばりながら見送るしかなかった。
 そんな彼らのために、故郷を取り戻すことこそ、己の存在理由であると決め込んで、小黒の力を足がかりに、こんな大それた計画を打ち立て、失敗し、命を絶った。
 この結末を、変える手立ては本当になかったのだろうか。
 本当に己は尽力できていただろうか。
 もっと他に、できることがあったのではないか。
 もっと別の未来が、あったはずではないのか。
 離島を見付けた時に、もっと強く引き留めていれば。
 小黒と出会ったときに、踏みとどまらせていれば。
 無限に負けを悟った時に、あなたはもう充分やったと、抱きしめてやれたら。
 後悔は次々と溢れ、果てしない。
 悔やんでも悔やんでも、もう風息は戻ってこない。
 風息は選んでしまった。あの場に根を張ることを。
 その決断が悲しくて、やりきれなくて、胸が張り裂けそうになる。
 ナマエはまんじりともせず、椅子の上から少しも動けなかった。

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