第十三話 家



「ナマエ! 見て! おっきいのが獲れたよ!」
 すっかり泳ぎがうまくなった小黒は、ぴちぴち跳ねる魚にしっかり爪を食いこませてナマエの前まで運んできた。
「美味しそうでしょ」
「ええ、すごいわ、小黒。無限様と一緒にお食べなさい」
「えー、あいつとはやだよ……」
 そう答えてやると、小黒は残念そうに魚を見下ろした。ナマエは体質的に肉を必要としない。森にいたときも、弟たちが肉を食べる横で果物と水だけを摂取してきた。ナマエの力があれば海水から真水を作ることができる。水だけで生活しているナマエの姿は、しかし小黒からすると心配になるようで、ときどきこうして魚を勧められた。
 しかし小黒はすぐに気を取り直して筏に戻ると、ばりばりと牙を突き立てて魚を噛んだ。ナマエもヤシの実の器に掬った水で咽喉を潤す。食べ物は問題なかったが、ずっと日差しに当たっているのは辛かった。氷で屋根を作ってみようかとも思ったが、光を透過してしまうのであまり意味はなかった。
 食事のあと、無限が立ちあがる。小黒の修行が始まる合図だ。無限は金属片を操って輪っかを造り、霊域への入口を開けた。小黒も慣れたもので、迷わずそこに飛び込んでいく。いつもなら無限がすぐにそのあとに続くのだが、無限はナマエの表情を伺った。
「茶を振る舞おう」
 まさか誘われるとは思っていなかったのでナマエは驚いたが、何度も断るのも無限を信用していないことになるので、「では」と身体を浮かした。
 人の霊域に入るのは初めてだ。いったいどんな様子だろうかとどきどきしながら爪先を白い空間に入れる。中に入ると潮風が止み、ぎらぎらと照らす太陽も消えて、ただ柔らかい白ばかりが目に入った。
「ナマエー!」
 下の方で小黒が呼ぶ。ナマエはその近くに足を下ろして、周囲を見渡した。
「まあ」
 まず目に入ったのは小さな家だった。家の後ろには水が湧いている。静かで落ち着きのある場所だった。これが、無限の霊域。なんて穏やかなんだろう、というのがナマエの正直な感想だった。風息を追う冷酷な執行人という印象はすっかり拭われてしまった。
「これは私の生家だ」
 後からナマエの後ろに降り立った無限はそう説明して、小屋の中に入っていった。しばらくすると、茶器を持って戻ってきた。
「こちらに」
「ありがとうございます」
 東屋の椅子をナマエに勧めて、無限は急須から茶碗に茶を注いだ。湯気は立っていない。
「どうぞ」
 手に持ってみると、やはり冷たかった。
「この方がよいかと」
「お気遣い、身に染みます」
 ナマエはありがたく押し抱いて、冷えた茶を啜った。太陽の熱気から逃れて、風に悩まされることもないこの空間に入れて、久しぶりにほっとすることができた。お茶を飲むたびほうと胸から息が漏れる。
 小屋の階段を下りたところにある開けた場所では、小黒が金属片とにらめっこしていた。まだ無限のように自在にとはいかず、今は少しの間浮かせることができる程度らしい。無限も座って茶を喫しながら小黒のやり方を眺めていた。
 舟旅を共にすることになってから、少しずつ、無限の性格を知るようになっていた。それは小黒にとっても同じだろう。とはいえ、あまり気持ちを口に出す性質ではないので、まだ打ち解けるまでには至っていない。
「私の生まれ故郷は、雪の深い森でした」
 ナマエはぽつりと、自分のことを語る。
「龍遊の北のはずれにあるところ。虚淮も同じ場所で生まれたので、私の弟と思って育てました。風息、洛竹、天虎……他にもたくさん、仲間たちがいた。霊力に満ち溢れた、いいところでした」
 無限は茶を喫しながら、静かに聞いていた。
「昔は、人間たちともうまくうやっていたんです。彼らはいろいろなものを生み出した。音楽、演劇、祭り……。それらを見るのが、とくに好きでした。親から子へ、受け継がれていくのを何代も見守っていた……」
 ナマエの瞳は遠く、過去を見るように焦点がぼやけていった。
 一度は人間とうまく行かなかった。だから今度はうまくやろうと考えていたのに。人間の発展速度は妖精たちの想像を超えていた。
 今ではどちらが力を持っているかと言われれば、もしかしたら人間の方かもしれない、とナマエは思う。科学も医術も発展して、人間は仙の力を必要としなくなった。なんでも自分たちで行い、他の種族など存在していないかのように振る舞う。その横暴さに、たくさんの妖精たちが嘆き、家を失ったことを哀しみ、悲嘆にくれた。
 力で奪われたものを、風息は力で取り戻そうとしている。だが、そうして取り戻せたものはもう元通りの故郷ではない。別物になってしまった、とナマエには思えた。
「もう、あのころのようにはいかないのでしょう」
 ナマエも覚悟を決めるときが近いのだろう。人間に対して、どのように接していくべきか。その選択肢はほとんどないとはいえ、どれかを選ぶしかない。これも天命のうちだろうか。
「実を言うと、初めはあなたを恨めしく思いました」
 ナマエは無限に心の内を明かす。
「弟たちと静かに暮らしていた島を荒らされたのですから。でも、今はこれもひとつの契機なのだと思えるようになりました」
「契機?」
「はい」
 ナマエは小黒を見つめる。もし、あのまま島にいたら、風息は小黒に自分の計画を打ち明け、一緒に龍遊から人間を追い出そうと話しただろう。それを聞いて、小黒はどんな反応をするだろうか。同じく故郷を追われた身の上ならば、よしやろうと言っても不思議ではない。今の小黒を見ていると、そうならないでよかった、という気持ちが強くなった。人への恨みで凝り固まる前に、いい出会いがあってよかった、と。
「いらしたのがあなたで、よかったのかもしれません」
 ナマエはそう言いながら、無限に正面を向けた。無限は茶を飲むのも忘れ、ナマエの言葉に聞き入っていた。話している間は気付かなかったが、どうやら無限はじっとナマエの顔を見つめていたようだった。それに気付くと急に気恥ずかしくなって、ナマエは袖を口元に寄せ、目を伏せた。
「あの。……小黒のこと、あなたにお願いしたいのです」
 無限の視線を意識しながら、ナマエは続けた。
「みれば小黒の持つ力はあなたと似ております。あなたを師とすればあの子の力をもっと引き出すこともできる。それに、人間であるあなたと共にいることが、あの子のためになるように思えるのです」
 ナマエは一度、人間たちとうまくいかなかった。だが、結果は悪くとも、彼らの中で過ごした記憶は、今のナマエを形作る大切な時間となった。今や人間と関わることなしに生きるのは難しい。そんな時代だからこそ、老君の認めた人間である無限の元で学ぶことが重要に思えた。
「……確かに、あの子のことは案じている」
 無限はすとナマエから目線を外し、小黒に向ける。ナマエはこっそり息を吐いた。
「だが、それ以上に妖精であるあなたと過ごした方がいいのでは」
「そうですわね。館で皆で過ごせれば……それがいいのかもしれない」
 もう島に戻ることはできない。霊道が壊れたからというだけではない。風息の計画は、恐らく動き出してしまった。この機会を、彼が逃すとは思えない。なにより、無限という人間に島を荒らされ、小黒を奪われたと知れば、もう黙ってはいられないだろう。彼はそういう性格だ。ナマエはよく知っている。であれば、小黒の扱いは慎重にしなければいけない。
 思索にふけっていると、また無限からの視線を感じた。
 何かおかしいところがあるだろうかと、落ち着かなくなる。無限の瞳はただ静かで、何かを問うでもなく、訴えるでもなく、ただただナマエの姿を映しているだけのように見える。鏡であれば気にしないが、その奥には確かに心がある。どのような思いを秘めているのか、その顔には表情らしい表情も浮かんではおらず、知り合ったばかりのナマエにはうかがい知れない。
「実は、館には以前お世話になっていたことがあるのです」
 気まずい沈黙を払拭しようと、ナマエは過去を打ち明けた。
「館に?」
「ええ。もう四百年も前ですわ」
 そのころを思い出し、ナマエは目を細めた。時折老君が訊ねてきて、言葉を交わした。必要があれば、他の館へ行って治癒を施した。妖精たちだけの組織の中での経験もまた、得難いものだった。
「……そのころ、お会いしたことがある」
 ふいに無限が口を開いたので、ナマエは首を傾げる。
「子供のころ。あなたに」
 無限はそう言って目を伏せた。ナマエの答えを期待していた風だったが、わからないのも当然だと諦めているようでもあった。
「私に……?」
 ナマエは思い出そうとして上を見つめた。無限は人間にしては長く生きていると聞いたことがある。四百年前。子供のころであれば、まだ執行人にはなっていないはずで、館で会うこともなかっただろう。龍遊の森の近くにある村に住んでいた人間の子供たちの顔がいくつか浮かんできたが、どれが無限の幼いころかわからない。
「もう一度会いたいと思っていた」
 ぽつりと言って、無限は茶を飲み干して小黒のところへ戻っていった。一人残されたナマエは、無限の言葉の意味をずっと考えていた。

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