第十二話 月



 筏はあっという間に嵐を抜け出し、静かな海に着地した。ナマエはまた舟を造ってそちらに移り、小黒と無限の様子を見守ることにした。あの嵐の中、無限はナマエのことも小黒のことも気にかけ、嵐から守ってくれた。そのことに間違いはない。彼が追っているのはあくまで風息だ。
 無限は小黒の力に興味を示し、自分の霊域に呼び込んだ。突然の行動にナマエが驚いていると、中から声が掛けられた。
「あなたはどうする?」
「……遠慮しておきますわ」
 普通、他人の霊域に簡単に入ることはない。霊域内では、その持ち主がすべてを支配する。気後れすることは確かだが、同時に無限に害意がないこともナマエは感じ取っていた。だから小黒が呼ばれるのを止めなかったのだ。とはいえ不安がないわけでもない。どきどきしながら待っていると、しばらくして二人が筏の上に戻ってきた。戻ってきた小黒はむすっとした顔をして、無限の金属片を手に持っていた。無限は用は終えたとばかりに筏の前に戻って、舟を進めはじめる。ナマエもどんなことがあったのか気になりながら、そのあとを舟で追いかけた。しばらくすると、小黒がこちらに手を振ってきた。
「ねえ、ちょっとだけそっちに行ってもいい?」
 すぐに逃げよう、という調子ではなかったので、ナマエは不思議に思いながら小黒の傍へ飛び、小黒を抱えて筏に戻った。
 小黒はナマエの膝の上で少しもじもじしていたが、やがて言った。
「あのね、あいつにぼくは金属系だって言われたの。だから、修行すればぼくも金属を操れるようになるって」
 確かに無限は霊域内で小黒の能力を探っただけのようだった。
「正しいわ。あなたは金属が操れるようになるわよ」
「そうなの……」
 小黒はむう、と金属片を睨みつけていたが、やがてにやりと悪だくみでもするように笑って見せた。
「じゃあ、強くなって逃げてやろう」
 強かな小黒の様子を見て、ナマエは安堵感から吐息を零した。風息たちと別れてしまったことでずいぶん落ち込んでいたから、心配していたのだ。
「それがいいわ」
 逃げることについては保留にしておいて、ナマエは金属を学ぶことを勧めた。小黒は筏に戻ると、無限の隣へ並び、腰を下ろした。
 二人の背中が並んでいるのを見て、ナマエは少し微笑ましくなってしまった。

 小黒は敵意ばかりを向けることを止め、金属の操り方を習い始めた。しかし、完全に信頼したわけではなく、隙を見ては逃げ出そうとした。無限は辛抱強く小黒に術を教え、逃げ出そうとするたびにそれを阻止した。
「見て! ナマエ!」
 小黒はナマエの前に無限にもらった金属片を置くと、両手をかざして強く念じた。すると、金属片がカタカタと揺れたので、得意げに笑って見せた。
「すごいわ小黒。どんどんうまくなっているわね」
「うん! これであいつを倒して、逃げてやるんだ。もう少し待っててね、ナマエ」
 小声で悪だくみをしてみせる小黒に、ナマエは苦笑する。実際、小黒の腕前はめきめきと上がっていった。

 月の光が氷の縁に反射して海面に複雑な光の筋を落とすのを眺めながら、ナマエは笛の音色に耳を傾けていた。大地の息吹のような震え、草木が語り掛けてくるときのさわめきにも似た旋律。ナマエはうっとりと、演奏を邪魔しないようにそっと、息を吐いた。
 ヘイシュウ――小黒の尻尾からときおり現れる小さな丸い妖精――が無限の肩へ飛び乗った。同じく、音楽に聞き惚れているようだ。しかし無限は一曲吹き終わると、ヘイシュウを指で弾いてしまった。それを見て小黒が不愉快そうに鼻を鳴らす。
 波の穏やかな夜だった。
 月を見上げて気にかかるのは、風息たちのことだった。彼らは大陸のどの辺りにいるだろう。洛竹なら、種霊を使ってナマエたちのことを探せるはずだ。陸に着けばきっと再会できる。ナマエは、彼らを館に行くよう説得するつもりでいた。
 無限に島を荒らされたことについては怒っているが、いい機会だというのも事実だ。館と決裂して以来、風息はますます頑なになってしまった。故郷に思いを馳せ、奪われた楽園を取り返せないでいることに苦しむ横顔をずっと見てきた。ナマエもあの頃を懐かしく思う。たくさんの妖精たちと、霊力に満ちた森で、人間たちと楽しく暮らしていたあのころ。戻れるものならば、戻りたい。けれど、時間は巻き戻せない。どんな力ある仙だとしても、こればかりは難しいだろう。妖精と人間の間にある断絶は、時と共に深く、広がっていくばかりだ。そこになんとか橋を掛けようとしている館の考えを、風息にも知ってほしい。いや、彼は賢い。ナマエが思っているよりずっと、現実を見て、痛感しているはずだ。それでも、今の彼は、道を自ら狭め、追い込んでいこうとしているように見える。それが切ない。
 どうにかして、他の道を探せないものか。
 どうにかして、彼が傷つかない未来を見出せないものか。
 ナマエは、無限と小黒の姿を見て、その糸口があるような気がしてきている。人間と妖精の関わり方。それをいまいちど、風息と話し合いたい。言葉を交わしたい。ずっとまっすぐに向き合ってこなかった、向き合うことを避けていた――難しい問題だ。
 そして館は、その問題にずっと向き合い続けてきた。
「陸についたら、自由にしてくれる?」
 小黒が無限の背中に訊ねた。無限はやはり沈黙を貫くかと思われたが、微かだが「ああ」と確かに答えた。それはナマエにとっても、小黒にとっても意外な答えだった。
「ほんとに? うそじゃない?」
 小黒が思わず聞き返すが、無限はうるさいと言ったきり、もう答えなかった。
 小黒がふて寝してしまうと、ナマエは自分の舟からふわりと浮き上がり、無限に声を掛けた。
「月見でもいかが?」
 そう言って雲の掛かった月を目指してすうっと高度を上げる。しばらくすると、無限が追い付き、横へ並んだ。
「先ほどの笛の音が、まだ耳の奥で響いているようです。こんなふうに、月にそっと雲を掛ける風のような音でしたから……」
 風は静かに細く薄い雲を、たゆまなく流していく。
「あなたの心根もきっと、そのように穏やかであるのでしょう」
 ナマエが振り返ると、無限もナマエを見つめていた。
 月の淡い輝きが、その瞳に映り込んでいる。黒い髪は艶やかに、風に任せて揺れていた。
「私は、あなたと共に館へ行こうと思います。ただ、あの子たちは反対するでしょう。一度、あの子たちと話をする必要がありますわ」
「……いくらあなたでも、説得は難しいのでは?」
 無限は言いにくそうにしながら眉根を寄せる。
「だとしても、何も言わずにいることはできません」
 きっともう、そのときは近づいてきている。領界を持つ小黒との出会い、人間無限による遺跡島の破壊。嫌な予感がナマエの胸に黒い染みのようにぽつりと落ち、それは払拭されることなく広がっていた。
 ナマエの決意を込めた表情を見て、無限は頷いた。
 大きな雲が月を覆い隠そうとしていた。

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