第九話 島



「風息、助けて!」
 土の妖精たちが駆け込んできたのは、地響きを聞いた後だった。
「人間たちが、でっかい腕を使って地面を抉ってるんだ!」
「どこだ?」
「風息」
 すぐに向かおうとする風息を、ナマエが止める。風息はナマエを振り返り、強い意志を秘めた瞳で見つめた。
「大丈夫、見てくるだけだ」
「……気を付けて」
 心配ではあったが、ナマエは風息を見送るしかなかった。
 地響きと、木が切り倒される音は連日聞こえていた。人間たちが重機を用いて森を切り開いているということはすぐにわかった。妖精たちは居場所を破壊され、風息を頼ってやってきた。
 虚淮が修行をした岩場も、風息が駆け回った茂みも、洛竹が見付けた花畑も、天虎が育てた果樹園も、毎日休むことなく抉られ続け、みるみる森は小さく狭くなっていった。
 昔は森を開拓するのにただ木を伐るだけだった人間たちは、より大きな道具を作り出し、根を掘り起こして岩を砕き、新たな木が芽吹かないよう地面を硬いコンクリートで封じ、空に、川に、毒を流すようになった。
 その速度は森が育つよりもずっと速く、妖精たちが脅威を抱いたときには事態は取り返しのつかないところまで進行していた。
「私たちの住処はすっかり掘り返されてしまった。もうここにはいられない……」
 中には、龍遊の森を出ていく妖精もいた。もっと静かな、人間のいない場所を求めて出ていく彼らを、風息たちは止めることができなかった。
「風息」
 彼らを見送り、握り拳に力を込める風息の手の甲に、ナマエはそっと触れる。
「ナマエ。俺たちはいつまで耐えればいい?」
 その問いに、ナマエは答えることができなかった。
 このままでは妖精と人間の衝突は避けられない。そのときが近いことを二人とも感じていた。ナマエが倒れたのはその矢先であった。

「姉様!」
 寝床から起き上がろうとしてふらついたナマエを、虚淮が支える。その身体は硬く、強張っていた。浅い息を繰り返し、腕は力なく垂れている。虚淮はナマエを慎重に寝床に戻してやり、その顔色を観察した。
「近頃、姉様の体調がよくないことは気付いていた。やはり、毒の水のせいでしょう」
「身体が重いわ……虚淮」
 ナマエの手を握り、虚淮は悔しそうに顔を顰めた。
「こうなる前に、手を打つべきだった」
 そう言い捨てると、つと立ち上がり、外へ飛び出していく。その姿を見送る力も、今のナマエにはなかった。
「姉様が倒れた」
 風息たちの元へ降り立ってすぐに虚淮はそう吐き捨てた。
「工場が垂れ流している毒のせいだ」
「そんな……風息!」
 洛竹は拳を握り、風息を振り返るが、その表情もまた怒りに満ちていた。背中に流れた髪が逆立ち、牙と爪が鋭く光った。
「もうこれ以上は見過ごせない。やつらに思い知らせてやる」
 生活に必要な分だけの木を切り森を切り開く、などという域はとっくに超えていた。ただ妖精たちの居場所を奪うだけでなく、風息たちの大切な姉の命まで脅かすというのなら、もはや戦いを厭うてはいられない。
 風息たちはとうとう人間たちを森から追い出すために行動を起こした。工場を破壊し、線路を抉り、重機を捻り潰した。
 開発を一時的に停止させることに成功したが、妖精会館はこれを看過しなかった。すぐに風息たちを捕縛するため、執行人が派遣された。
「風息。やりすぎだ。これ以上は犠牲者が出てしまう」
「知るか。こちらは充分犠牲を払った!」
 館が定めた法に逆らった風息たちは、館の執行人に追われる身となってしまった。

「……ナマエ」
 寝床で昏睡していたナマエの元に、風息が姿を現したのは、騒ぎを起こして数日してからだった。風息は動けないナマエの身体をそっと抱き起し、腕に収めた。
「すまない。……ここを離れなければならなくなった」
 臥せっているナマエに無理をさせるのは忍びないところではあったが、もう猶予がなかった。ナマエは朦朧とした意識ながら、外で起きていることをある程度把握し、風息の首にそっと腕を回して身体を預けた。
「みんなが一緒なら、どこでもいいのよ」
「……ああ」
「静かな場所を探しましょう、風息」
「そうだな」
 家族揃って安寧に暮らせる場所こそナマエの求めるところであった。その願いをそっと抱え、風息は故郷から追われるままに背を向けた。

 それから、ナマエたちは人目を避けて方々を転々とした。ようやく見付けたのは龍遊から離れた山奥の、比較的霊質の濃い場所で、少しだけ身体を休めることができた。
 一人の人間が前触れもなくそこに踏み入ったとき、ちょうどナマエ以外は出払っていた。ナマエは湖の水面を一部凍らせ、その上に椅子を作り座っていた。男はそれを見上げ、感心したような表情をした。
「あなたは、氷の精ですか」
「それ以上近づくのはおやめなさい。凍り付いてしまいます」
 今のナマエには、自身から溢れ出る冷気を止めることができないでいた。男はその冷気を肌で感じ、氷の上に乗ろうとしていた足を止めた。
 妖精の存在に驚くことなく、まっすぐ見上げてくる視線は静かな力を湛えている。そもそも、ここは人里離れた険しい山の奥深くだ。ただの人間でないことはすぐにわかった。
 男は少し頭を下げた。長く伸ばした黒髪が背中でさらりと流れた。
「お休みのところ、邪魔をして申し訳ない。見たところ、辛そうでいらっしゃる」
「ここでしばらく静養すればまた冷気を治めることができるでしょう。私に構わないで」
 人間がこの場所を訪れたことを風息たちが知れば、ただではすまないだろう。ナマエは彼らと鉢合わせることがないよう、早めに彼を帰さなければと考えていた。男も長居を歓迎されていないことを感じ、一歩下がった。
「……私は執行人、無限。お困りのことがあれば、館においでください」
 そう言い残して、彼は去っていった。
 無限という名に、ナマエは聞き覚えがあった。館の創立者の一人、老君が選んだ執行人のはずだ。人間の身ながら、当代最強と名高い金属使い。
 執行人がこんなところに、とナマエは椅子に凭れ掛かりながら風息たちと鉢合わせないことを祈るしかなかった。ここも安住の地ではありえない。少しでも早く回復して移動しよう、と目を閉じて気を整えた。

「姉様」
 虚淮に起こされて、ナマエは目を開いた。
 そこは懐かしい龍遊ではなく、新たに移り住んだ離島だった。
 長い放浪の旅で、ナマエの体調は悪くなる一方であり、これ以上の移動は辛いものだったので、偶然放棄された離島に繋がる霊道を街の中で見つけられたのは僥倖だった。
 森は人に汚されておらず、霊力に溢れている。
 ナマエは澄んだ池を見つけると、そこに頭の先まで身を浸し、身体の氷を解かして水と一体になった。
 清らかな水がナマエの身体から毒を抜き、清浄にしてくれる。存分に身を清めた後、ナマエは水から上がった。すっかり生まれ変わった気分だった。
「風息は?」
「帰ってきています」
 ナマエが立ち上がろうとすると、虚淮が手を差し伸べてくれた。ナマエはそれをやんわりと断り、自分で立ち上がる。ふらつく様子のない姉を見て、虚淮は安堵の笑みを浮かべた。
 ナマエの身体は、虚淮と同じく氷でできている。だが、ナマエの方が身近にある水の純度に影響を受けやすかった。
 生死の堺を彷徨っていたナマエのために、皆が働いてくれた。これからは、ナマエが返す番だ。
 離島は本当に穏やかだった。移住してずいぶん経つが、人間はおろか、大陸の妖精が現れる気配もない。
 小さな島だから彼らの必要とする資源はないのだろう。ナマエたち五人が住むのに充分な、最低限の恵みがあるばかりだった。



「ナマエ。起きて平気か」
「もう大丈夫よ。ありがとう、風息」
 ナマエがしゃっきりとした姿を見せるのはどれくらいぶりだろう。風息は目を細めた。
「龍遊の様子はどうだった?」
 ナマエの問いに、風息は途端に表情を曇らせた。
「すっかり変わってしまったよ。森はほとんど残っていない」
「そう……」
 ナマエは現在の文明の発展具合を知らない。しかし、風息がそういうなら、故郷はもう原型を留めていないだろうことが察せられた。
「悲しいことね」
「……ああ」
「ナマエ姉! 元気になったんだな」
 風息の後ろから、洛竹が跳ねるようにして顔を出しだ。
「洛竹。あなたにもたくさん助けてもらったわね」
「当然だろ! ここの水は綺麗だし、霊力もたっぷりある。ほんと、見つけられてよかったよ」
「そうね」
 大陸を彷徨っている間、人間がいないところを見つけるのはほとんど不可能だった。どんなに山深くでも、どこからともなく人間は現れる。妖精の居場所はなくなるばかりだった。
 このまま島に住み続けることができるならいいが、人間たちが絶対に目を付けないという保証はない。
 そんな焦りを、風息たちの行動から感じていた。

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