第四話 弟



 百年ほどは、穏やかに時間が過ぎていった。
 ある日、ナマエは蝶の姿をした小精霊がどこかに流れていくのを見付けた。気まぐれに小精霊を追いかけてみると、洞についた。
 洞の中は冷たい霊質で満たされていた。気持ちよく感じながら中へ入っていく。洞の突き当りで小精霊たちが囲んでいるのは妖精の子供だった。額に二本の角が生えている。子供は身体を丸めて硬い岩の上に眠っていた。しっかりと閉じられていた目と、固く結ばれている口に、孤独を耐えるような痛々しさを感じて、ナマエはその傍にそっと膝をつく。小精霊が子供の鼻先で弾け、子供の睫毛が震え、ゆっくりと持ち上げられた。その水晶のような瞳が、上に向けられ、ナマエの姿を捉える。子供は不思議そうな顔をしてじっとナマエを見つめていた。
「おはよう、小さな妖精さん」
「あなたはだれ?」
「私はナマエ。あなたは?」
「わたしは……虚淮」
 思ったよりもしっかりした受け答えだった。虚淮は身体を起こすと、ナマエの前に姿勢よく立った。
「あなたは、氷の精ですか?」
「ええ、あなたと同じね」
 ナマエも立ち上がり、洞の外へ虚淮を導いた。
「私も、この近くの湖で生まれたのよ」
 湖の方角を指さして、虚淮を振り返る。
「だから、私達は姉弟ね」
「きょうだい……」
 虚淮は自分の中にしみ込ませるように言葉を繰り返すと、ナマエに拝礼した。
「今日からわたしはあなたの弟となります。あねさまと呼ばせてください」
「虚淮。かわいい弟。好きなようにお呼びなさい」
「はい、あねさま」
 それからナマエと虚淮は毎日一緒に過ごすようになった。
 ナマエは虚淮に氷の扱い方を教えた。虚淮はもともとそれらを扱うのに長けていたので、すぐに上達した。
「虚淮、あなたの身体は私と同じように、氷でできているわね」
「はい」
「なら、氷を操る要領で、飛べるようになるわ。このように」
 ナマエはふわりと五尺ほど浮かんで見せた。虚淮は少し口を開けて、音もなく浮かび上がった姉を見上げた。
「わたしにもできるようになるのでしょうか」
「ええ。練習しましょうね」
「はい」
 虚淮は真面目に修行に取り組み、日々成長していった。


 ナマエの元に、一羽の小鳥が舞い降りて来た。小鳥はナマエに猪が深手を負っていることを告げた。
「ここから少し遠いわね。虚淮、今日はここで待っていて」
「いいえ、わたしもいっしょにまいります」
 怪我をした猪の居場所に向かうには飛行して最短距離で向かわなければ間に合わない可能性があった。しかし、虚淮はナマエに縋りつく。
「わたしも空を飛べるようになるのでしょう」
 言い募る虚淮に、ナマエは向き直った。
「そのとおりね。自分をいつも操っている氷と思い、身体を浮かせてみなさい」
 虚淮は言われたとおりに自分の身体に気を集中させると、すぐに二尺ほど浮かび上がった。
「上手ね」
 ナマエは虚淮の手を掴み、上空へと引っ張った。始めはナマエに引っ張られるがままだったが、次第に飛び方を学び、自分でバランスがとれるようになると、ナマエの手を離し、横へ並んで見せた。
 小鳥は虚淮の周りを祝うように飛ぶと、さらに速度を上げた。ナマエに遅れまいと、虚淮は懸命に飛んだ。
 小鳥が降りた場所には、猪が横たわっていた。胸に木が杭のように刺さり、赤黒い血を流している。まず虚淮が猪の傷を広げないよう、注意深く傷口を凍らせ、ゆっくりと杭を抜いた。途端に血があふれ出るのを、ナマエが手を翳して押さえる。痛みに嘶いた猪の牙がナマエにぶつかってしまわないか虚淮は案じたが、猪にそこまでの力は残っておらず、微かに首を振るので精いっぱいのようだった。
「じっとしていなさいね」
 ナマエは傷口に霊を注ぐ。虚淮はいつ猪が暴れても止められるように身構えていた。次第に出血が収まり、猪の呼吸が落ち着いてきた。
「もう少しよ」
 ナマエの額に汗が滲む。治癒の力を使うのは身を削るのと同義だ。しかしナマエは苦しむ素振りも見せず、傷口を完全に塞いだ。
「これでもう大丈夫ね」
 猪はゆっくりと身体を起こすとその鼻先を感謝を伝えようとするかのようにナマエの胸元に押し付けた。ナマエはその鼻面を撫でてやる。血は水と同じようにナマエの力で操ることができる。毛皮にべっとりとついた血をすべて地面に落としてやった。ナマエ自身の手もすぐに綺麗になる。
 虚淮と並んで、帰っていく猪を見送った。
「さあ、私たちも帰りましょうか」
「はい」
 帰り道では、もう虚淮は一度もふらつくことなく、完璧に飛べるようになっていた。

 夏の間はナマエの動きが鈍る。暑い日差しに身体が耐えられないため、洞の中で過ごすことが多かった。
「姉様、食べ物を持ってきました。食べられますか?」
 虚淮はナマエより強い身体を持っていた。日差しの元でも自由に動ける。彼が手にした果物を見て、ナマエはそっと上体を起こす。
「少しでも食べて、力をつけてください」
「そうね、いただくわ」
 ナマエはそう言って三口ほど食べて、残りを虚淮に分けた。
 太陽を覆い隠してしまえたらいいのに、と虚淮は思う。ナマエの周囲に出した氷がもう解け始めている。虚淮は滴る水滴の上から凍り付かせて洞を氷室にした。
「虚淮、近くに来て」
「はい」
 ナマエは虚淮の手を取ると、頬に当てた。
「冷たい。気持ちいい」
「姉様の頬は少し熱い。熱が籠ってしまっているようだ……」
 どうすればそれを冷ましてやれるのか、虚淮は思案する。入口も氷で塞いでしまったら、熱気が入ってこないので随分ましになるのではないかと思った。
 洞に閉じこもって、時折外に食べ物を探しに行く。ナマエの世話をするのは、頼られていると実感できて嬉しいことだった。
「姉様。何かしてほしいことがあればおっしゃってください。私にできることならなんでもいたします」
「ありがとう、虚淮。でも、いいのよ。傍にいてくれれば」
 館を出て百年あまりを、ナマエは一人で生きて来た。ときおり妖精と出会うこともあったが、一緒に過ごすことはなく、すぐに別れることが多かった。だから、こうして世話を焼いてくれる存在がいるということがただ嬉しかった。
 暑い盛りはしだいに過ぎて、秋の風が聞こえてくるころ、ナマエの体調もよくなり、洞から出ることが増えていった。

 虚淮が一人出かけて行ったあと、遠くに紫の炎が空にはじけるのが見えた。ついで氷の柱が立つ。その柱も紫の炎に砕かれた。
「紫雲焔!? 虚淮……!」
 ナマエはすぐに飛んで氷の柱目掛けて一直線に駆けていった。
「虚淮!」
 ナマエの呼びかけに、飛び上がろうとしていた虚淮の足が一瞬止まる。紫の炎がその眼前を掠め、虚淮は少し身体を後ろに反らすことでそれを避けた。
 ナマエは虚淮の前に立ち、紫雲焔を放った本人と向かい合った。
「おやめなさい」
「あなたは……」
「姉様、かまいません」
「でも」
「本気でやり合っているわけではありません。力比べです」
 虚淮は落ち着いてそう説明した。ナマエは相手と虚淮の顔を見比べる。どちらも敵意はなさそうだった。
「ごめんなさい。どうやら邪魔をしてしまったようね」
「いや、勘違いするのも無理はない。俺の炎は強いからな」
 相手が自信満々にそう言うので、虚淮は微かに眉を寄せた。
「確かに氷は炎に解けるが、私が押されていたとでも言うつもりか?」
「そうだ。今回は俺の勝ちだ」
「あのまま続けていれば勝ったのは私だ」
「いいや、俺様だ」
 虚淮は一歩前に出てナマエの前に立つと、相手と睨み合いを始める。相手の手に紫の火花が散り、今にも力比べを再開しそうだった。
「二人とも、もう充分でしょう」
 再度ナマエは二人の間に割り込み、手を伸ばして二人を制すると、相手の方に向き直った。
「失礼をいたしました。私はナマエ。この子の姉です」
「ナマエか。俺は諦聽」
 男は短く名乗ると、戦闘態勢を解いて、虚淮を睨んだ。
「俺はもう帰らなきゃならない。次会った時は決着をつけようじゃないか」
「望むところだ」
 諦聽は挑むようにそう言って、軽やかに森の中を駆けて行った。ナマエはしげしげと虚淮の常ならぬ好戦的な顔を眺める。
「お友達?」
「……いいえ、違います」
「珍しいわ、あなたがこんな顔をするなんて」
 普段ほとんど表情を変えない虚淮の変化が目新しいナマエに嬉しそうにじっと見つめられて、虚淮は面映ゆく目を反らし、居心地の悪い思いをする。
「良き相手に巡り合えたのですね」
 ナマエはうんうんと、まるで自分のことのように満足そうに頷く。
 そんなものではないと言ったところで聞いてもらえなそうだったが、ナマエが嬉しそうにしている分には虚淮にも喜ばしいことなので、彼女の笑顔に水を差すようなことはやめておいた。

 ある日、崖下に耳慣れない声を聴いて虚淮は立ち止まった。
 木立の隙間に、蹲った何かの姿と、微かに血の匂いがした。
「あねさま、あれは?」
 ナマエも足を止めて下を見ると、少し目を細めた。
「あれは人間です」
「にんげん? 怪我をしているようです」
「人間はけものと違い、医術を心得ています。心配はいりません」
 人間たちを観察していると、怪我をした男の足に薬草を塗り、布で傷口を縛っているのが見えた。確かに、自力で怪我を治せるようだ。
「それに、私たち妖精とは理が違う。みだりに関わってはいけません」
 彼女にしては強い物言いに、虚淮はただ黙り込んだ。そして、その戒めを胸に刻んだ。
「行きましょう」
 虚淮は人間からようやく目を反らして、ナマエのあとに従った。
 それ以来、ほとんど人間を見かけることはなかった。
 ナマエは、老君の言に従い、虚淮に自分の力を打ち明けていた。虚淮は賢く、その力の重要性をすぐに理解した。
 けものたちを救うために奔走する姉の姿は眩しく尊いものとして虚淮の目に映っていた。
 だから、目の前の怪我人を見捨てるような彼女の言動が咄嗟に受け入れられず、戸惑った。
 彼女のいつになく強い言葉のせいもある。
 人間たちと、過去に関りがあったのだろう。だが、現在は何らかの理由でそれを断っている。ナマエがそう決めたことなら、虚淮が口を出すことはない。虚淮は姉の背を見つめ、ただ口を噤んで、その後に従った。

[*前] | [次#]
[Main]