第四十一話 春



「一週間、休みをもらった」
 無限は開口一番、そう言った。
 ナマエはそれなら一週間一緒にいられるのか、と嬉しい思いがまず浮かび、すぐに他に用事があるかもしれない、と思い当って浮かれた気持ちを慌てて打ち消した。
「いいことですわ。たまにはゆっくりお過ごしください」
「うん。それで……餃子を作ろうかと」
「餃子?」
 休暇に行うことにしてはずいぶん慎ましいものだと、ナマエは小首を傾げた。それを見て、説明する順番を間違えた、と無限は小さく咳ばらいをする。
「春節という、私たち人間の祭りがあるんだ」
「春節、ですか?」
「ああ。一年が終わり、新たな年を向かえる大切な行事だ」
「そうなのですね」
 ナマエも、話は聞いたことがあった。その時期には、人間たちは特に盛大にお祝いをしていたように思う。
 無限は、いままで春節といっても特別に何かをすることはやめていた。妖精に近い身分になった分、人間としての生活から離れていた。だが、今年、久しぶりにそれをしたいと思えた。新たな弟子でもあり、家族とも呼べる小黒の存在と、ナマエと共に過ごしたいという自然な欲求から、ふと休暇をとろうと思い至った。
 そこでさっそく館長に打診してみれば、一も二もなく許可が下りたという流れである。
「その中で、期間中に食べる餃子を作る習慣がある。家族皆で作るんだ。だから……あなたと、作りたいと」
「……まあ」
 それは、ナマエのことを身内として見ているという意味に他ならなかった。嬉しさが胸の底から込み上げてきて、ナマエはぽっと頬を染め、口元を袖で覆った。
「それなら……ぜひ」
 その答えを聞いて、無限は満足そうに微笑んだ。
「餃子を作ったことは?」
「まだ……」
「なら、私が教えよう」
 無限はどこか楽しそうに答える。無限に習うことができると思うと、ナマエも楽しみになった。
 人間の世界で働いている洛竹も、春節の期間は仕事が休みになったと言っていた。洛竹も呼んで、小黒と無限と、四人で餃子を作ろう。
 曇り空が続く鬱屈とした日々が過ぎ、いよいよ春節が到来した。
 人間の街は紅に彩られ、どこか浮足立って、どこもかしこも華やいでいた。
 館でも、そんな空気に煽られたのか、少し普段と違う気配があるような気がする。
 ナマエは浮かれているのを自覚しながら、食材を用意して、無限と小黒がやってくるのを待っていた。
「春節ってさ」
 卓子に肘をつきながら、ふいに洛竹が口を開く。
「人間は、家族と過ごすものなんだってさ」
「そのようね」
 ナマエもそわそわと落ち着かない気持ちを抱えながら、椅子に座って洛竹の言葉を待った。
「風息たちと、過ごせればいいのにな」
「洛竹……」
 その言葉は、ナマエの心も切なくさせた。人間たちは、普段離れたところで生活していても、この時期には必ず帰省して、家族と一緒に過ごすそうだ。その時期をせっかく祝おうというのだから、ナマエの方でも家族が欠けずに集まれたらそれ以上のことはない。
 だが、実際問題それはできないことだった。
「そうね。来年や……いつか、そうして過ごせるときがくればいいわね」
「……うん」
 ふたりはしばらく沈黙して、それぞれに家族へ思いを馳せた。
 しばらくすると戸を叩く音がして、ナマエは無限と小黒を迎え入れた。
「ナマエ! お待たせ!」
「いらっしゃい、小黒。では、はじめますか、無限様?」
「ああ」
 ナマエは厨に三人を招いて、材料を並べた台の前に誘った。作り方と必要なものは、事前に紅泉に聞いておいた。無限は皮を手に取ると、慣れた手つきで具材をそこに乗せると、綺麗にひだを付けて皮で包み込んだ。
「こう作るんだ」
「はーい!」
 小黒は意気込んで皮を手に取る。無限はそこに具材を乗せてやった。洛竹とナマエも、真似をする。ナマエは洛竹と自分の手元を見比べて、注意した。
「洛竹、少し餡が多いのじゃない?」
「そうか? たっぷり入ってる方がいいだろ」
「餡が多いとうまく包めない。破れる原因にもなる」
 無限はそう言って適量を示す。洛竹は自分の手のひらの上に乗せた分量と見比べて、多いか、とぶつぶつ言いながら少し減らした。
「こうして……」
 ナマエは無限がやっていたようにひだを作ろうとするが、いまいち要領を得ない。見かねた無限が隣に来て、手本を見せてくれた。
「こう、つまむように」
 無限はナマエの手の中の皮を指でつまみ、折って見せる。ナマエはようやくそれでこつがわかって、いい具合にひだを作ることができた。
「難しいな。無限、これで合ってるか?」
「そうだな」
 洛竹のひだは多きさがばらばらで、少し不格好だ。だが、無限は細かいことは言わず、それでいいと頷く。洛竹は少し自信が出てきて、よし次! と皮を手に取った。
 五日分となると、結構な量になる。だが、会話を交わしながら作っていると、時間はあっという間に過ぎていった。
「材料、少し多く用意しすぎたと思ったけれど、ちょうどよかったわね」
「これだけあれば五日間保つだろ」
「僕いっぱい食べれるよ!」
 小黒は何枚かの大皿にぎっしりと乗せられた餃子を前にして、元気に手を挙げた。餃子は大きさも形も不ぞろいだったが、それが好ましいとナマエは目を和ませた。
「あとは飾りを飾ろう」 
 無限は赤い対聯や灯籠、提灯、年画などの飾りを用意していた。四人でそれを手分けして部屋中に飾り付ける。赤と金が華やかに部屋を彩った。
 これで、新年を向かえる準備が整った。

 街は一年に一度の祭りとあって、人で賑わっていた。無限は小黒が人波に飲まれないよう、肩車をしてやる。ナマエと洛竹はその後ろから、逸れないようについていった。
「師匠、あれ食べたい!」
「冰糖葫蘆か」
 両手が塞がっている無限が動く前に、洛竹がそれを四本買い求めて、一人に一本ずつ手渡した。
「ほら、小黒」
「ありがとう、洛竹!」
 小黒は洛竹から串を受け取ると、さっそくぱくりと食いついた。
 ナマエは小さな赤い玉のようなサンザシが六個刺された串を前に、目を輝かせた。とても綺麗なお菓子だ。一口齧ってみると、飴の甘さとサンザシの酸味がうまく混じって、しゃきしゃきとした歯ごたえが小気味よかった。
 通りの左右には赤い提灯が切れまなく下がり、どこかで爆竹の音が響いている。その大きな音で邪悪なものを打ち払う意味が込められているそうだ。人々の流れに流されながら道を進み、獅子舞を見て、美味しいものを食べて、暗くなるころには帰路についた。
 館についたら、四人で餃子や魚、春巻を食べる。
 穏やかで、どこにでもありそうな、ひとつの家族の過ごし方だった。
 翌朝目覚めて、朝日を眺めたとき、その光がえもいわれぬ清浄さを湛えていて、これが新しい年を迎えるということか、とナマエは思った。
 今年はどのように過ごすことになるだろう。無限と、小黒と、洛竹と。館の友人たちと、そして牢にいる弟たちと。
 この休みが終われば、無限はまた忙しい日々に戻る。それは確かだ。そうなれば、会える時間は不定期になる。胸のペンダントに触れれば心を彼に添わせることができるが、それだけではもう足りないほどになっていた。
 愛を一度知った心は、快い蜜に浸ることをどこまでも求めてやまない。
 ひとつ、無限に提案してみようか。
 ナマエの胸に、新たな願いが浮かんでいた。

 春節の最後の日、無限の休日が終わる日。
 その日も四人で出かけ、四人でご飯を食べ、夜を迎えた。無限が小黒を寝かしつけに行き、洛竹が自室へ引き上げて、ナマエは一人窓から月を見上げていた。館から見上げる月は、森で見上げていたものよりも近く感じる。
 藍色を滲ませる金色の光に、ナマエの瞳もじわりと滲む。
「ナマエ」
 小黒が眠ったようで、無限が戻ってきた。ナマエは暗がりの無限を振り返る。月を見るため、部屋の明かりは消していた。
 無限もナマエの隣に来て、月を見上げ、目を細めた。黒い髪の輪郭が光にぼやける。
 ナマエが見上げていることに気付いて、無限は視線を地上に下ろした。ナマエを見て、小さく笑みを浮かべる。ナマエはその微笑に引き込まれそうになりながら、胸元に手を押し付けた。
「……無限様」
 そして、意を決して語り掛ける。
「お願いが、あるんですの」
「なんだろう」
 無限は穏やかな声音で、どんな願いでも聞き届けようと、待つ姿勢をとった。ナマエは椅子から立ち上がり、無限を見上げる。
「私の霊域に、あなたのものを、置いてほしいのです」
「私の?」
「なんでもいいのです。普段身に着けているものとか……」
 無限の髪を結んでいる紐や、肩口、手元にナマエは視線を泳がせる。無限はそれに気付いて、自分の右手に左手で触れた。
「では、金属の腕輪を」
 今は休日のため外しているが、任務中はずっとつけている。金属の輪。それらは無限の如意に動く。無限の手足といってもよかった。
「ありがとうございます」
 ナマエはほっとして笑みを零した。
「それと……」
 そして、もうひとつ、願いを打ち明ける。
「私の小鳥を、あなたの霊域に、住まわせてほしいのです」
 ナマエの霊質を分けた鳥霊を一羽、手元に出現させる。小鳥は飛び立ち、無限の手に移った。
 離れているときにも、相手を偲ばせるものを己の内に抱いておきたい。そして、相手にも自分を偲んでほしい。どうすればそれが叶うか、ナマエが考えた答えがそれだった。
 そばにいるときは瞳を向けていてほしい。抱きしめてほしい。口づけをしてほしい。
 離れているときは、心を向けてほしい。ふと、思い出してほしい。恋しいと、思ってほしい。
 そんな思いを込めて、提案したことだった。
 無限はナマエの心を知ると、笑みを深めて、自らの手に彼女のたおやかな手を乗せ、彼女の心の底まで見透かしたいというように、その瞳を覗き込んだ。
 気が付けば、この瞳に囚われていた。じっと見られていることが気のせいではなく、本当に見られていると気付いたとき、驚きよりも嬉しさが大きかった。だが、どうして嬉しく思うのか、すぐにはわからなかった。膨らむ思いが何故なのかわからなくて、知りたかった。
 そしてその思いに恋と名付けたとき、世界が変わった。
 今まで感じたことのない想いに焦がれ、初めてのことに戸惑い、くすぐったい喜びにただ身を任せるしかなかった。
 彼と共に歩むにつれ、少しずつ、自分がどうしたいか、この感情の動きの所以は何か、わかるようになっていった。それがとても楽しかった。誰かに何かを望むなんて我儘にも思える振る舞いを、幸福な眼差しに受け入れられる幸せは、他にない。
 これからも、ずっとこの眼差しの先にありたい。
 ナマエは未来への誓いを込めて、彼の瞳を見つめ返した。
 無限の瞳が柔らかく弧を描き、顔がゆっくりと近づいてくる。ナマエが目を閉じると、額に唇が押し付けられた。
「私は幸せ者だ」
 ナマエをそっと抱き寄せ、その胸に収めながら、無限は囁く。ナマエも震える心を彼に添わせながら、ぎゅっと目を閉じた。
「私もですわ」
 せめて月が沈むまでは、こうしていたい。

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