第四十話 劇



 今日は久しぶりに二人で出かける日だ。
 ナマエは紅泉に手伝ってもらい、髪を編み込みにした。
 彼の瞳に映る自分の姿が、少しでもいいものになっていたらいい。
「ナマエ」
 迎えに来た無限が、戸を叩く。ナマエは急いでおかしなところがないか確認し、そっと戸を開けた。
 無限はハイネックのセーターに厚手のコートを羽織っていた。
「お待たせいたしました」
 はにかみながら出てきたナマエの姿を、無限の目は吸い込まれるように眺める。
「きれいだ」
 囁き声は半ば独り言のようで、ナマエは反応したものかどうか困ってただ頬を赤く染めた。
「行こうか」
 ゆっくりと歩き出した無限について、ナマエも歩き出した。
 無限が手を握ってきたのは、館を離れてからだった。
 今日も手を繋ぎたい、だがどうしようと迷っていたナマエの心のうちを知っていたのか、同じ思いだったのか、その行動にどうしようもなく嬉しくなる。ナマエはしっかりと無限の手を握り返して、少しでも緩くならないように気を付けた。
 今日は映画というものを見に行くことになった。
 ナマエが読んだ小説が映像化されたものと説明されているが、ナマエは映画を見るのは初めてだった。劇のようなものと聞いて、それなら祭りの舞台で見たことがある、と少し想像することができた。
 劇場のロビーは薄暗く、すでに人で溢れていた。人気の映画のようだ。
「何か食べるか?」
「では、飲み物を」
 無限に訊ねられて、ナマエはメニューを眺め、紅茶を選んだ。
「買ってくるよ」
 売店に並んでいる人数を見て、無限はナマエに座ってるように伝え、一人列に並んだ。ナマエとしては無限と一緒に並んでもよかったのだが、そう答える前に彼は行ってしまったので、そわそわしながら椅子に座った。周囲にいるのは大人が多く、子供の姿はほとんどない。大人向けの内容なのだろう。小黒を誘わなくてよかったかもしれない。洛竹はあいにく仕事だった。
「お姉さん、映画見に来たの?」
「え? はい」
 突然横から声を掛けられて、ナマエは瞬きをしながら答えた。二人組の若い男がナマエのそばにいつの間にか立っていた。
「この映画話題だもんね。原作読んだ?」
「ええ……」
 初対面のはずだが、やけになれなれしい。
「誰かと一緒? 友達?」
「あの……」
「ナマエ」
 そこへやってきたのは列に並んでいたはずの無限だった。
「待たせてすまない。行こう」
「あ、はい……」
 ナマエは無限に手を引かれ、男たちに軽く頭を下げてからその後ろを追いかけた。
「なんだ、男連れか」
 後ろでそんな残念そうなつぶやきが聞こえた。
 無限はナマエを連れて列の一番後ろに並びなおした。何も言わないが、その表情は少し怒っているように見える。
「無限様?」
「一人にしてすまない」
「いえ」
 怒っているかと思ったが、ナマエに対してはとても申し訳なさそうな顔をした。よくわからないが、ナマエが話しかけられているのを見て、列を離れて連れに来てくれたらしい。
「ああ、並ぶ時間が伸びてしまった」
 珍しく失敗した、とでも言うような憔悴した様子を見せる無限に、ナマエは気にしないでほしいと笑って見せる。
「私、並ぶのはいやではありませんわ。……無限様と一緒にいられますから」
 無限の答えはすぐには返ってこなかった。どうしたのだろうと見れば、無限はそっぽを向いている。肩は小刻みに震えていた。前にも、こんな姿を見たことがあるような。
「……あなたはそうやって、すぐに私を喜ばせる……」
 そして、負けた、と笑って見せた。
「そういう健気なところが、ますます私を惹きつけるんだ」
「あ……」
 今度はナマエが言葉を失う番だった。
 実際、無限と並んでいる時間はあっという間に過ぎて、ふたりは無事開演前に買い物を済ませることができた。
「暗いから、気を付けて」
 無限はナマエの分もドリンクを持って、先導する。ナマエは無限のコートの裾をつまんで、離れないようにしながら、小さな段差を降りて行った。
 指定されたシートに腰を落ち着けると、目の前が開けた。大きなスクリーンがそこには広がっていた。そこに、動く絵が投影されている。
「大きい……」
 思わずナマエはそう呟いていた。
「映画館では、これを食べるものなんだ」
 そう言って、無限がポップコーンの容器を差し出してきた。両手で抱えるほどの大きさに、白い親指大の花のように弾けたとうもろこしの粒が詰まっている。ひとつ口に含んでみると、塩気が効いていて、噛む前に溶けてしまった。
「そろそろ始まる」
 無限が小声でそう言うと、場内が暗くなった。思わず椅子の持ち手を握る。無限の手が、安心させるように上から被せられた。
 上映中は声を出してはならない、という注意を事前に聞いていなければ、ナマエは声を上げてしまっていただろう。
 それくらい、映画というものは白熱的で、情動的だった。主人公の女性が走るシーンでは思わず身体が動いたし、彼女が泣けばナマエも涙を零してしまった。彼女が微笑めばナマエも楽しくなり、すっかり物語にのめり込んでいた。
 無限はスクリーンよりも、ナマエの方ばかり見ていた。くるくると変わるナマエの表情が珍しく、普段見られないようなものばかりで、目が離せなかったのだ。なんて可憐に笑うのだろうか。なんて無邪気に怒るのだろうか。純粋無垢な反応がとても新鮮で、目を離すのがもったいなかった。
 映画は悲恋で幕を閉じた。主人公の女性は、命を懸けて愛した男性を失ってしまった。その悲劇に人々は涙し、共感して話題を呼んだ映画だった。
 上映が終わり、幕が下りても、ナマエは鼻を啜っていた。
「ナマエ?」
 衝撃が強すぎたのか、なかなか立ち上がろうとしないナマエを無限が促すと、ナマエは無限の手を握り、自分の方に引き寄せた。
「無限様……」
 目元を赤くして、潤んだ瞳に心を射抜かれる。
「私……私」
 何かを言おうとして、せりあがってきた涙に口を塞がれる。ナマエは握る手に力を込めて、気持ちを伝えるかのように無言で訴えた。無限は空いている方の手でナマエの肩を撫でてやる。
「映画は終わったよ」
「はい……」
「いい物語だった」
「はい……でも」
 ナマエは目元を擦る。
「とても悲しい……」
 人前でなければ、抱きしめているところだった。今は彼女を慰めたくても、頬を拭ってやるしかできない。
「まるで自分のことのように感じてしまいました」
「見入っていたね」
「だから……余計に、別れが悲しくて……」
 命あるものはみな、いつかは死別のときがくる。
 無限は普通の人間とは違い、修行をすることでその寿命を延ばしている。だが、不死ではない。ナマエもそうだ。人間に比べれば永遠とも思える命でも、限りはある。
 たとえ離れたくないと思い、願っても、それは叶わない話だ。
「無限様」
「ナマエ」
 握る手に優しく力を込めて返すことで、無限はそのナマエの気持ちを受け止め、応えてやる。
「いつか終わりはくるだろう。しかしそれは、私が自分からあなたの手を離すときではないよ」
「……っ、私も……っ」
 ずっとこの手を握っていたい。
 祈りにすら似た思いを込めて、ふたりは指を絡め合った。

 劇場から外に出ると、明暗の差に目がくらんだ。
 白日のもとに現実が戻ってきて、ナマエの足が地に着くにつれ、さきほどまでの悲しみが映画のワンシーンのように思い出となっていく。すると、ずいぶん心を乱してしまった、という恥ずかしさが募ってきた。言ってしまえば、映画はすべて作り物だ。それにあれほど没頭し、無限の前で取り乱してしまうなんて。きっと困らせてしまった。
 けれど、抱いた感想は本物だ。無限を失う、という避けられない未来のことを、初めて意識した。
 思えば、無限と初めて出会ってから、こうして寄り添うようになるまでに、ずいぶん長い時間が掛かっていた。
 子供のころの無限を見守りたかった、とふいに思う。
 無限が修行をしていなければ、こうして再会することはないまま、二度と会うことはなかっただろう。そう考えると、彼がいない日々だなんて、今となっては想像もできない。それぞれに過ごした歴史があって、今日に続いている。そして今日を重ねて未来を紡いでいくのだろう。
 これからは、ふたりで。
 そんな思いを、ナマエは強くして、無限と並んで街を歩いた。

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