第三十九話 火



「糸雲、紅泉、お願いがあるの」
 神妙な顔をしてそう言うナマエに、糸雲は眉間に皺を寄せ、紅泉は唇を尖らせた。
「私に、お料理作りを教えてもらえないかしら」
「あなた、火が苦手なんでしょう。どうするつもり?」
 鋭くつっこんで来たのは糸雲だった。紅泉も控えめながらうーん、と首を捻る。
「無理にしなくてもいいんじゃない? お菓子は作れるんだし」
「けれど、お菓子ではお腹は膨れないでしょう」
 ナマエは頬に手を当て、真剣に思い悩んでいる顔をする。
「できることなら、克服したいの」
 糸雲と紅泉は顔を見合わせた。糸雲の方が先に目を逸らして、ナマエを見据えた。
「それ、本気ね」
「ええ」
 ナマエは急いで頷く。それを見て、糸雲はふん、と鼻を鳴らした。
「なら、やってみればいいわ。来なさい」
「ありがとう、糸雲」
「糸雲、お手柔らかにねえ」
 ふたりは糸雲の部屋に向かうことになった。
 厨について、糸雲は手早く料理器具と食材を並べる。そしてささっと切り分け、ナマエに鉄勺を渡す。
「まずは中火で鍋を温めて」
「はい」
 ナマエはどきどきしながらコンロのつまみを捻る。ガスが出て、ぼっと火が付く瞬間、びくっとして手を引っ込めてしまった。火が大きすぎる気がするので、つまみを一番下まで下げると、糸雲が手を出した。
「中火って言ったでしょ。これじゃ弱火よ」
「はい……」
 火がもとの大きさに戻り、ナマエは鉄勺を握り締めた。しかし、これくらいで弱音を吐いていてはとうてい料理など不可能だ。
「本当に火に弱いのね」
 紅泉が引けているナマエの腰を見てしみじみと呟いた。
「火照りが強くて……」
 ナマエにとってみれば充分熱い。肌の表面が剥がされるような不安があった。
「油、入れて」
「はい」
 ナマエは糸雲から油を受け取り、指示された量を計り入れる。熱した鉄に触れた瞬間じゅうじゅうと音が鳴って弾け、ナマエはさっと部屋の隅へ避けた。
「あはは、そんなに逃げなくても」
 思わず紅泉は笑ってしまう。糸雲はあくまで厳しかった。
「油を入れた鍋を放置する料理人がありますか!」
「すみません!」
 ナマエは勇気を奮い起こして火のそばへ戻った。
「次行くわよ。野菜を炒めて!」
「はい!」
 野菜は糸雲が鍋に入れてくれた。ナマエはできるかぎり腕を伸ばしつつ、鉄勺で鍋をかき混ぜる。
「そんな混ぜ方じゃ焦げるわよ。もっと底から掬うように」
「はい……!」
 鉄勺の取っ手を持つ手が熱気に当てられて熱くなってくる。鍋の中の野菜はどんどんくたくたになってきた。どれくらい炒めればいいのかナマエにはよくわからない。糸雲はじっと炒め具合を見つめ、頃合いを見計らってぱっぱと調味料を入れては均等に混ぜるように指示をした。
「もういいわ。火を止めて」
「はい……」
 その声にほっとしながら、ナマエは火を止める。鍋から立ち上る余熱にのぼせそうだった。
「これで炒め物は完成よ。どれくらい炒めたらいいかは、何回か作って感覚を覚えなさい」
「わかりました」
「よくできてるじゃん。おめでとう」
 紅泉は初めての炒め物の出来を見て手を叩いてくれた。
 ナマエは炒め物を皿に移し、三人で試食する。
「……おいしい」
「まあ、初めてならこんなものね」
「糸雲の指導がいいのねー。いいかんじじゃん」
 火と戦いながらも恐怖を乗り越えて作った炒め物に、ナマエは達成感を覚えた。これなら、いつか火に慣れる日も来るかもしれないと希望が見えた。
 ナマエはふたりに対して、しおらしく頭を下げた。
「糸雲、紅泉、また、よろしくお願いします」
「仕方ないわね。面倒見てあげる」
「私たいして役に立たないけど、まあ味見係はするわよ」
 そんな風に、その日は終わった。



 その後何度か練習をしたが、なかなか一人でできるところまでは上達できなかった。だが、今日は三品作ることができたので、いよいよ無限に振る舞うことに決めた。糸雲にも、この味なら出してもいいと言われている。といっても、味付けをしたのは糸雲だが。
 ナマエはどきどきしながら卓子を整えた。
「ナマエー!」
 元気に入ってきたのは小黒だ。その後ろから無限が続く。
「来てくれてありがとう、小黒。無限様」
 ナマエは卓子の傍に立ったまま二人を出迎える。小黒は鼻をひくひく動かした。
「美味しそうな匂い! 今日はお菓子じゃないんだね」
「ええ。お友達に教わって作ったの」
 無限と小黒を椅子に座らせ、ナマエはそれぞれにお茶を淹れる。
「うまくできたと思うから、ふたりに食べてほしくて」
「では、いただこう」
 無限は箸を持って、さっそく一皿目に手を伸ばした。小黒も箸を握る。まだ上手く持てないので、苦労しながら一口を口に運んだ。
「ん……。うまい」
「美味しいね!」
 無限と小黒は一口食べてそう言ってくれて、ナマエはほっとして胸をなでおろした。
「だが……」
 無限はふいに箸を置くと、ナマエの右手を掴んだ。素早い動きだったので、ナマエが隠す暇もなかった。
「怪我をしている」
「これは……」
 無限が言う通り、ナマエの右手はところどころ傷つき、氷の断面がきらめいていた。
「熱が……。少しですので、すぐに直りますわ」
「そういう問題ではない」
 無限は真剣な顔で手を引き寄せると、ナマエの顔を覗き込んだ。
「私たちのために、無理をしないでくれ」
「無理なんて……。していませんわ」
 ナマエは無限の目を見つめ返した。
「ただ、お料理を作るのが楽しいのです。もちろん、みんなに振る舞いたいから習っているのですけれど……。これは、私がしたいからしていることですわ」
「ナマエ……」
 きらきらとした意志を宿した瞳を向けられて、無限は長く息を吐いた。
「ずっと、火はきれいだけれど怖いと思っていましたの……。けれど、誰かが一緒にいてくれるなら、それは美味しい料理を作るための火力になるんですのね」
 糸雲が、紅泉がそばにいて、ナマエの手元を見てくれている間は、火に近づくことも少しだけ慣れてきた。今後、一人ですぐに向き合えるようになるかと言われると難しいが、少なくとも誰かと一緒ならできる、とナマエは今自信を深めていた。
 そんなナマエの表情を見て、無限に責められるはずもない。無限は苦言を苦笑に変えた。
「あなたにそう言われては、私もこれ以上言えない。ただ、これだけは覚えていてほしい。あなたが傷つくのを、私は見るのが耐えられない」
「無限様……」
 そうしてまた見つめ合う二人をよそに、小黒は残りをぺろりと平らげた。
「あ」
「ごちそうさま、ナマエ!」
「小黒」
「師匠の分も残ってるでしょー」
「まったく……」
 小黒は無限に睨まれても、悪びれなく皿に二口分ほど残っているのを示して見せる。無限はちゃっかりしている弟子に舌を巻いた。
「ふふ。また作りますわ。こんどはもっとたくさん」
「ああ。楽しみにしているよ」
 楽しそうにそう言われては、無限もそう言うしかなかった。火が苦手なら、無理に慣れようとせずとも、料理はできる人がすればいい。自分も洛竹も充分に役目を果たせると思っている。だが、それではナマエの気が済まないようだということも今回わかった。それなら、できるかぎり傍にいて、彼女が傷つかないよう見守ってやりたいと願うのだった。

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