第三十七話 本



 戸を叩く音が聞こえて、ナマエは端末の画面から顔を上げた。
 以前よりは操作を覚えたが、まだ文をやりとりすることしかできず、洛竹に聞いたところもっといろいろなこと――様々な料理の作り方を知れたり、現代の音楽を聞いたり、動画を見たり――といったことができるとかで、ナマエにはどんなものかわからない仕様がたくさんあった。
 端末を置いて戸を開けると、小黒が飛び込んできた。
「ただいま! ナマエ!」
「おかえりなさい、小黒」
 足元に飛びついてきた小黒の頭を撫でてやり、視線を上にやると、少し後ろに控えていた無限と目が合った。
「おかえりなさいませ、無限様」
「ああ。……ただいま」
 このやり取りをするのはまだ数回だったが、交わすたびに言い知れぬ喜びがナマエの胸を満たす。もちろん、何日も会えなかった彼とようやく再会できたのだから当然だ。だがそれだけではなく、遠くどこへでも自由に飛び回ることができる無限が、戻る場所としてナマエを選んでくれたようで、それを実感できるこのときが、とても嬉しい。
「今お茶を淹れますね」
 二人を椅子に座らせ、ナマエは湯を沸かしに行く。
 お茶とお菓子を乗せた盆を持って戻ると、小黒が卓子の上に突っ伏していた。
「あら、お疲れかしら」
「んんー……、あ、お菓子!」
 鼻をひくひくさせると、小黒はくっつきそうになっていた瞼をぱっと開いて、お盆の上に手を伸ばした。
「これを食べてから少し寝るといいわね」
 ナマエは急いで月餅を頬張る小黒を微笑んで眺め、無限に茶杯を渡した。無限はそれを一口飲むと、懐から本を取り出した。
「これを、あなたに」
 表紙には鏡花縁と書いてある。以前、本を読んでいると話したときに薦めたいものがあると言っていたことを思い出した。
「これは、主人公が不思議な国々を巡る話だ。気に入るといいんだが」
「まあ、嬉しいですわ。ありがとうございます」
 ナマエは本を押し抱くように受け取り、その表紙を撫でた。無限の体温が微かに残っている。どんな物語が描かれているのか楽しみだった。
「さっそく今晩読みますわ。あの……寝る前に」
 無限が何か言いたそうな顔をしたので、ナマエはそう付け加えた。夜、小黒が寝たあとの時間は、ナマエも待ち望んでいた彼と過ごせる貴重な時間だ。その時間にナマエから別の用事を入れることはない。無限も納得したような顔をした。
「ナマエ、この前温泉に入ったんだよ」
 お腹がある程度膨れたようで、小黒は食べる速度を落とし、ナマエに今回の旅の様子を語り始めた。
「温泉?」
 聞き慣れない言葉に、ナマエは首を傾げる。
「暖かいお湯が湧いてるんだよ! 池みたいなんだけど、湯気が立ってるんだ」
「まあ、そんな場所が?」
 ナマエが興味津々に小黒に顔を寄せると、小黒は自慢そうに丸い頬を引き上げた。
「外は雪が積もってるのに、あったかいから凍らないんだ」
「知らなかったわ。温泉なんてあるのね」
「ナマエは、温泉入りたい?」
「そうね、暖かいのは少し苦手かしら……」
 ナマエは苦笑して小黒に答える。小黒はいかにも残念そうに眉を八の字にした。
「そっか。気持ちいいんだけどなあ。ねえ、師匠。冷えた足の指がじーんってして、じっと我慢して浸かってると、だんだんぽかぽかしてきたよね」
「そうだな」
 無限は頷いて茶を飲んだ。
「ナマエとも入れたらいいのにな。温泉に入ると、疲れがとれるんだよ。僕も任務と修行で疲れてたけど、すっかり元気になった!」
「それはよかったわ」
 ナマエは微笑みながら、小黒の口元についた食べかすを払ってやる。ひんやりしたのか、小黒はくすぐったそうに肩を竦めた。
 雪景色の中、湯気に包まれた湯に浸かる二人の姿を想像して、ナマエはこっそり笑みをこぼす。ゆっくりと浸かって、旅の疲れを癒したのならなによりだ。
「小黒、寝るのは部屋に戻ってからだ」
 無限が、頬杖をついてうとうとする小黒に注意する。あれだけ元気に喋っていたのに、少し目を離した間にすっかり寝ぼけている。子供の感情の落差というものに、ナマエは微笑ましくなった。
「では、一度小黒を寝かしつけてくるよ」
「ええ。おやすみなさい、小黒」
「んん、おやすみ、ナマエ……」
 頭を重そうに傾けてむにゃむにゃしている小黒の手を引いて、無限は部屋を出て行った。その間に、ナマエは片づけを済ませる。それが終わってもまだ無限が戻ってくる気配はなかったので、さっそく無限が薦めてくれた本に手を伸ばした。
 数ページ読み進めて物語に心が入っていきそうになったとき、戸が叩かれた。ナマエはしおりを挟み、声を出して答えた。
「どなた?」
「私だ」
 戸の向こうからくぐもって聞こえたのは予想通り無限の声だった。
「お入りください」
 ナマエが伝えると、すぐに戸が開けられた。無限はナマエの隣に先ほど贈った本があるのを見付けて、少し笑みを見せた。
「まだ最初の方を読み始めたばかりですけれど、面白そうですわ」
「なら、よかった」
 無限はナマエと対面になる椅子に腰かけ、本をぱらぱらと捲っているナマエの姿を眺めた。
 今では当たり前のように感じているが、無限は暇があればナマエを眺めている。ナマエも無限の姿を自身の瞳に映していられる時間を好ましいと思うが、それでも無限ほどには見つめていないと思う。
 以前、どうしてそんなに見つめるのか訊ねてみたが、明瞭な回答は得られなかった。ナマエは視線がついてくるのを感じながら立ち上がり、窓際に立つ。
「だいぶ寒くなってまいりましたわね。小黒が風邪を引かないといいのですけれど」
「いまのところは元気だよ」
 無限も立ち上がって、ナマエの隣に来た。
「温泉は身体を強くもしてくれる。あの子が冷えないように私も気を付けるよ」
「ええ。お願いしますわ」
 ナマエにとって、小黒はすでに弟のようなものだ。洛竹たちを案じていたのと同じように、あの小さな子猫に気配りをしている。
 無限にとってもそれはありがたいことだった。かつては自分の子を持ったこともある。だから接し方はわかっているつもりだが、どうしても男親としてのものになる。母ほど細かい気配りはしてやれていないかもしれない。無限は目を細め、窓の外を見、室内に目を戻した。隣に立つナマエは、変わらず外の雲を眺めている。
「あの子はどんどん成長している」
「そうですわね」
「ただ、やはり文字は苦手なようだ」
「あら」
 ナマエは袖を口元にやってくすくすと笑った。
「またお願いするよ」
「はい。お任せくださいな」
 ナマエは頼もしく頷いて見せた。なにせ四人の弟たちに教えた自負がある。
 そのまま無限の視線がナマエの頬の辺りに残されているのを感じて、ナマエはすと目線を落とす。見つめ合うのはどうも慣れない。
「ナマエ」
 名前を呼ぶ声の甘さといったらどうだろう。さきほどまでの淡白さに比べると胸を引き寄せられるようで思わず窓枠に縋ってしまう。
「どうしてそう、離れたところに?」
「あ……」
 無限との距離はあと一歩分、空いている。ナマエが窓へ寄った分、さらに開いた。無限はそこに立ったまま、ナマエの方から動くのを待っていた。
「もう、そんな言い方なさらないで……」
 ナマエは照れながら、どうしようか迷う。このまま一歩近づいたら、その腕に抱きしめられるのだろうか。胸に飛び込むような塩梅になってしまわないか。躊躇っているうちに、無限を焦らしてしまっているかもしれない、と心が揺れる。
「すまない、意地が悪かったな」
 無限はそう言って喉の奥で笑うと、一歩踏み出してナマエの腰に緩く腕を巻き付けた。
「近づいてもいいだろうか」
「はい……」
 ナマエの思案など一瞬で晴れてしまった。ただこの温もりに身を預ければよかったのだ。
 無限の胸元に頬を寄せると、うなじを髪が滑っていくのを感じた。
 無限の腕が上に動き、ナマエの肩を抱き寄せる。額にその唇が押し付けられて、ナマエは目を閉じた。


[*前] | [次#]
[Main]