第三十六話 書



「小……小……」
 がりがり、と握り締めた鉛筆で、白いノートを埋めていく音が部屋に響いていた。
「黒……?」
 小黒は書き終わってから首を傾げ、ナマエの書いたお手本と見比べる。
「点がひとつ足りないわね。あと、横棒が一本多いわ」
 雪梅は赤ペンで小黒の書いた字を訂正する。小黒はあーと頭を押さえて鉛筆の尻を噛んだ。
「まずは自分の名前を書けるようになりましょうね」
「うー」
「それから、無限様の名前と」
「うん……。師匠の名前、書けるようになりたい! ナマエのも!」
「そうね」
 ナマエは微笑んで、小黒の隣に無限、ナマエと書き足した。
 小黒は腕まくりをする仕草で気合を入れると、鉛筆を丸い手で掴んで紙に向かい合った。
「小黒、鉛筆の持ち方はこうよ」
 五本の指で鉛筆を握る小黒の指をそっと解かせて、ナマエは持ち方を指導する。これが何度やっても直らない。小黒の方では意外と厳しい、とナマエに恐れを抱き始めていた。
「綺麗な字を書くには綺麗な持ち方からよ」
「だって難しいよ、指が痛くなっちゃう」
「何ごとにも型というものがあります。慣れれば平気になって、綺麗な文字が書けるようになるわ」
「この方が僕はいいよ」
 小黒が鉛筆を握って見せると、小指側が真黒になっていた。ノートも黒鉛が擦って伸ばされて汚れている。ナマエは一度ティッシュをとって、小黒の手を拭ってやった。
「小はだいぶ書けるようになったわ。次は黒ね」
「はーい」
 小黒は唇を尖らせて、ぷるぷるする手でなんとか鉛筆を正しく持ち、線を書く。鉛筆の持ち方にばかり意識がいってしまい、線がへろへろと流れてしまった。
「うー」
 まだ机に向かって一時間も経っていないが、すでに集中力は切れはじめている。無限と身体を動かして鍛錬に励んでいるとあっという間に過ぎるのに。
「んん……」
 指に力を入れすぎて、痛くなってくる。指先は赤くなっていた。ぽき、と芯が折れるのと同時に、小黒のやる気もどこかへ消し飛んでしまった。
「あーっ、もう終わり!」
「いいえ、小黒。このページを埋めるまでですよ」
「ええーっ」
 気のせいではなく、やはりナマエは厳しかった。師匠としての無限も厳しいが、また別の怖さがあった。戦うわけではないのに、いつも穏やかな人に怒られているような感じが居心地悪い。
「うう……お腹空いた」
「これが終わったらおやつにしましょうね」
「ほんと!? やったあ!」
 おやつ、と聞いて途端に背筋がしゃきんと伸びる。こういう子供らしい素直さがかわいらしい、とナマエは微笑んだ。そこへ、無限が顔を出した。
「どうだ、小黒」
「あっ、師匠!」
 思わず立ち上がろうとした小黒を、ナマエが肩を抑えて押し止めた。
「まだ終わっていませんよ」
「ハイ……」
 そんな二人の様子を見て、無限は目を丸くする。
「無限様、このページを埋めるまで、もう少しお待ちくださいね」
「あ、ああ」
 無限は邪魔しないことにして、そっと椅子へ移動した。
「うう、この持ち方書きづらい……」
「慣れることよ、小黒」
「むー」
 ぶつぶつ言いながらも鉛筆と格闘し、なんとか小黒は課題を終わらせた。
「師匠! 見て見て!」
「……まだまだだな」
「ええーっ!」
 無限の評価も厳しかった。小黒は自分のノートを見返して、頬を膨らませる。自分では頑張って書いたつもりなのに。
「さあ、手を洗っていらっしゃい。お茶を淹れるわね」
 ナマエはいつものナマエに戻って、小黒を手洗いに行かせると、自分も台所に向かって支度をした。
「手伝おうか」
 無限もそれを追ってきたので、では、とナマエは茶器の用意をお願いした。ナマエは太白拉を四等分に切り分けて、皿に乗せる。ひとつは洛竹のために残しておく分だ。
 ちゃんと手を洗った小黒はすでに卓子で待っていた。無限がお茶を淹れ、ナマエがお菓子を並べる。
「いただきまーす!」
 小黒はスプーンを掴むとそのまま口に入れようとしたが、ナマエに「待って」と止められた。
「スプーンの持ち方はこうです」
「う? こう……?」
「そうよ、上手ね」
「うう、うー?」
 小黒は四苦八苦しながら太白拉を頬張った。持ち方を変えるだけで手が震えてしまい、落とさないか緊張していたので素直に美味しいと思えない。
「むむ……」
 難しい顔をしてスプーンと戦う弟子の様子を横目に、無限はナマエの顔を見る。ナマエは頑張って持ち方を直そうとする小黒が、零したりしないように気を付けてやっていた。
 これが姉の顔というものだろうか、と思う。洛竹や、虚淮たちが見ていたであろう、表情。
 ただ優しいだけではなく、時に叱り、良い方向へと導いてくれる存在。無限も小黒に教えてやれることは教えるが、すべては無理だ。そこを補ってくれるナマエの存在がありがたい。
「まだ勉強の時間みたいだ……」
 小黒はすっかり疲れ切った顔をして太白拉をつついている。礼儀もきちんと教えなければ、と無限は改めて己を律した。


 次の日も、無限に変わってナマエは小黒に文字を教えていた。
「鳴鶴日下、土竜雲間」
 ナマエが読み上げるのを、小黒が真似して声を出す。立った姿勢で声を出すのは、じっと文字を書くよりは、集中力が途切れないし身体も痛くない。
「毛義奉檄、子路負米」
 これなら続けられそう、と思いながら、小黒はナマエの発声に耳を澄まし、つたない舌を動かして上手く発音を真似ようとした。
「この言葉の意味は……」
 ナマエが故事について解説してくれるときは少し眠くなる。昔のだれそれがなにをした、と言われても、知らない人に対して興味が湧きようがなかった。だが、ナマエに昔に起きたことを知っておくことも大切だと言われたので、なんとか頭の中に置いておこうと耳をぴくりとさせる。
 次の語を発声しているときに、無限が戻ってきた。無限は諳んじられている句を聞いて、ナマエが使っていた教科書の名を当てた。
「蒙求か」
「はい」
 ナマエは切りがいいので一旦止め、戻った無限に軽く挨拶をした。
無限はそれに答えてから、目を閉じ、一句を諳んじる。
「向秀聞笛」
 それを聞いて、ナマエが続く句を暗唱した。
「伯牙絶弦」
 ふたりは顔を見合わせて、ふと笑う。
 ふたりが楽しそうな理由がわからない小黒は、むっと眉を寄せた。
「なに、それ」
「ああ、これも蒙求の一句だよ」
 無限は小黒の持っていた教科書を受け取ると、そのページを開いて見せた。
「知音の故事だ。自分の価値を真に理解してくれる人というのは得難いものだ、という話だ」
「へえ! 師匠もこれ知ってるの?」
「ああ。子供の頃に覚えた」
「へええ」
 無限も同じことをしていたのだと知ると、小黒の学ぶ姿勢はぐっと前向きになった。耳をぴんとたてて、ぐっと拳を握り締める。
「ナマエ! 今のやつもう一回教えて」
「いいですよ」
 ナマエはもう一度諳んじてみせる。
 小黒は一生懸命それを追いかけた。
 無限は墨と紙を持ってくると、先ほどの句をさらさらと書き写した。
「小黒、書いてごらん」
「わかった」
 無限は小黒に筆を渡す。小黒は無限の字を手本に、紙の上でぐりぐりと筆を動かす。鉛筆でちいさくがりがりと書くよりは、筆の方が楽しい。掠れたり、すっと伸ばしたり、紙の上を筆が滑り、黒い墨がじんわりと紙の繊維に滲むのが小気味よかった。
「できた!」
 できあがった書は、そんな小黒の気分が乗ったように文字が跳ねていて元気があった。
「うん。いい字だ」
 ナマエはその二枚の字を見ると、紙を受け取って壁に張った。
「好きな字だわ。こうして飾ると立派でしょう」
「そう?」
 ナマエに褒められて、小黒は自慢げに腕を組む。そんな小黒に笑い、無限は感慨深い気持ちで並べられた二枚を眺めた。
「これはいいな」
 まるで無限と小黒が並んでいる姿を見ているような字の具合だった。ナマエは無限の書いた整った字を見て、しばし見惚れた。好きな人が書いたというだけで、白い紙が輝いて見える。
 ナマエはうっかりぼんやりしてしまった、と首を振り、気分を切り替えた。
「さあ、続きをやりましょうか。無限様もご一緒に」
「はーい」
「そうしよう」
 無限はナマエの隣に来ると、教科書を受け取り、句を読み上げる。
 ナマエは小黒と一緒に、それを繰り返した。
 その日はそうして学ぶうちに、日が暮れた。

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