第三十五話 談



「洛竹!」
 外廊を走って通り抜けようとした背中に、名前を呼ぶ声が掛けられて、洛竹は足を止めた。
「若水」
 振り返れば、大きな尻尾を振って自分を追いかけていたのは狐の妖精だ。若水は走って洛竹の傍まで来ると、がしっとその手首を掴んだ。
「ちょっと聞いてもいい!?」
「えっ? 何何」
 若水の気迫はすさまじく、洛竹は押されて身体をのけ反らせる。若水はぐいっと洛竹に顔を近づけると鼻息も荒く言った。
「無限様とナマエさんのこと!」
「ああ……」
 そのことか、と洛竹は遠い目をする。あの日から、好奇心旺盛な妖精たちによく訊ねられていたのはまさしくあの二人の関係についてだ。といっても、洛竹の方が知りたいくらいで、たいして話せることはないのだが。
「ほんとなの!?」
「うん」
 洛竹が首肯するのを見て、うううと唸りながら若水は身を捻った。館の女性たちもよく似たリアクションをしていたなあと洛竹は軽く笑う。しかし、二人のことが気になるのは女性だけではなく、男性たちもしっかりショックを受けていたりするので、さすが我が姉、と少しだけ誇らしくなった。あの人に出会って、好きにならない人がいるはずがない。
「うーっ。無限様が……ナマエさんと……っ」
 若水はなかなかショックが引かないようで、まだ身悶えしている。
「もしかして、若水も無限のこと……」
 本気だったのだろうか。
 他の女性たちは影で涙を呑みつつ、ナマエが相手なら仕方ない、と最後には自分を納得させていた。
「好きだったよっ!」
 若水は眦から涙を散らしながら声を上げた。
「わーんっ! 無限様ー!」
 そのまま洛竹の胸元に顔をぶつける勢いで押し付け、泣きじゃくる。洛竹は引き離すわけにもいかず、その頭を撫でてやるしかなかった。
「まあ、気が済むまで泣けよ。よしよし」
「あうう、無限様はきっと誰のことも好きにならないって思ってたのにぃ」
 ぐすぐす鼻を鳴らす若水の肩を叩いてやりながら、洛竹はちょっと脇によける。
「それは俺もそうだなあ。ナマエ姉が誰かを好きになるなんて思ってもみなかった」
 出会ったその日から、ナマエはずっと洛竹たちの姉として、優しく、ときに厳しく接してくれていた。記憶にある姉である姿と、無限を前にして俯きがちに頬を染める姿はまるで違っていて、なんだか別人のようだと不思議に思う。
 若水がずるずると鼻を啜った。
「無限様はたくさんの人を助けてて……。妖精も、人間も、きっと、無限様にとってはそういう対象で、誰か一人を特別に思うってことが……ないのかなって思ってた」
 若水は耳をぺたんと伏せて、欄干に寄りかかる。
「でも、ナマエさんは特別だったってことだよね」
「……そうだな」
 洛竹にとってもナマエは特別だ。かけがえのない、大事な家族。虚淮や風息、天虎と同じ大切な姉弟の一人。ナマエにとっての洛竹もそうだったはずなのに、無限という別枠が増えてしまったことが、やはり寂しく感じさせる。
「ナマエさんかぁ……ううう」
 若水は欄干の上で腕を組み、外を眺めながら眉間に皺を寄せる。
「美人だし、治癒系だし、優しいし……いい人よね……」
「だな!」
 洛竹は思いっきりいい笑顔で若水に同意したが、若水はいーっと歯茎をむき出しにした。
「でもやっぱりやだー!」
「やだって」
「わかってるよ! 言ってもしょうがないって! でもすぐに割り切れないものなの!」
「お、おう。そうか」
 割り切れないといえば洛竹だって同じだ。ナマエは何も変わらないと言ったが、やはりいままでどおりとはいかないこともこれから増えていくだろう。今日だって、ナマエは無限と二人で街に出かけている。
「……無限様、ナマエさんとどんなお話するんだろう……?」
「そうだなぁ」
 洛竹も若水の隣に並んで、空を見上げた。
 白い雲がゆったりと風に流れていった。

 からん、とコップの中の氷が音を立てた。
 ナマエは目の前に並べられたかわいらしい形のケーキにすっかり
目を奪われた。
「まあ、きれい」
「美味しそうだ」
 今日も無限と二人で商店街で食べ歩き、休憩にカフェを選んだ。外装がおしゃれで、一目見てナマエはこの店を気に入った。
 フルーツがたっぷり入った紅茶は香りもよく、口の中をさっぱりと爽やかにしてくれた。甘いものを食べる準備が整って、ナマエはいそいそとフォークを持ち、ケーキの端を切り崩す。
 フォークをふわふわのスポンジに刺すと、しっとりとたわんだ。
 クリームが落ちないようにどきどきしながら口元に運び、舌に乗せる。途端に甘い香りが鼻を抜けていった。
「んん……美味しい」
 ナマエの表情も蕩けてしまう。無限はその様子をたっぷりと眺めてから、自分のケーキに手を付けた。
「このケーキ、とっても美味しいです」
 ナマエはこの感動を共有しようと、無限に話しかける。すると無限はナマエの手を掴んだと思うと、そのまま自分の口まで運び、ケーキを食べてしまった。
「うん。美味い」
「あら……」
 その子供っぽい振る舞いに、ナマエは眉を下げて微笑む。代わりに、と無限は自分のケーキを一口分差し出してきた。
「口を開けて」
 ナマエは少し気恥ずかしかったが、言われるまま口を開けると、無限がケーキを差し入れてくれた。口を閉じ、歯にフォークが当たる。無限はフォークを抜いて、美味しい? と訊ねた。
 口いっぱいに頬張っていて声が出せず、ナマエは何度か頷いてみせた。無限は微笑を広げる。
「最近、小黒に文字を教えているんだが、なかなか捗らなくて」
「まあ、そうですの?」
 金属操作の方は、旅の間もどんどん上達していた小黒だ。器用で頭もよく、なんでも得意そうに見えたので意外だった。
「あなたはいつごろ文字を?」
「まだ幼いころですわ。人に教わったこともありましたし、館でも習いました」
 そしてそのとき覚えたことを、弟たちに教えた。それらの知識は何かと役に立っている。
「今度、見てもらえないだろうか」
「そういうことでしたら」
 自分が力になれるとしたら、これほど嬉しいことはない。さっそく、どの文字から教えたらいいだろうかとナマエは考え始める。
「それなら、お手本が必要ですわね。帰りに本屋へ寄りましょう」
「わかった」
 本屋にはたくさんの知識が詰まっている。料理の本があることを友達に教えてもらい、一緒に買いに行ったことがあった。そのときはあまりの種類の多さに、いかに自分の知らないことがあるのかと圧倒された。洛竹が花に関する資料として大きな本を買っていたこともあった。人間には、学校という教育のための機関があるらしい。妖精にはそのような体系だって知識を継承する仕組みはない。教える、ということに関しては、人間を手本にするのがいいだろう。妖精の世界で生きる上でも、読み書きの技術は必要になってくる。
「私も、何か本を買ってみようかしら」
「どんな?」
「小説、というのが気になっていますの」
「小説か」
「現実ではない、空想のことを書いたものだそうですわ」
 友達に勧められて、一冊読んでみたらなかなか面白かった。それは恋に関する物語だった。とても精緻でリアリティがあるのに、実際にあったことではなく作者の想像だというのが驚きだった。
「無限様は読んだことがあって?」
「私はあまり読まないな」
 無限は正直に答えて紅茶を飲んだ。もうケーキは綺麗になくなっている。
「昔のものでよければ、勧めたいものはある」
「本当ですの? 楽しみですわ」
 無限がどんな本を読んでいるか、純粋に興味があった。
 人間の作る美しいもの、たとえばこのケーキや、小説のような――それらを知って、できることなら無限と共有していきたい。そんな思いがあった。
 ふと、店から出ていく男女の姿が目に留まった。女性の方は男性にぴったり身体を寄せて、手を握っていた。衆人の前であんな風に振る舞うのはナマエには大胆に見えて、恥ずかしさを覚えた。けれど、同時にその姿を羨ましくも思った。手に、触れたい。無限の手は、右手はカップの取っ手に掛けられ、左手は膝の上に置かれていた。無限に視線を気付かれる寸前に、目を逸らして紅茶を飲む。
 飲み終わるまでに、無限が会計を済ませてしまった。ナマエが用意を整えるころには戻ってきて、「帰ろうか」とナマエを促した。
 ナマエは無限の少し後ろから従いながら、彼の身体の脇で揺れる手を見つめた。人前でくっつくのを、彼ははしたないと思うだろうか。
「ナマエ」
 カフェを出て、階段を降りるとき、無限が振り返って手を差し出した。ナマエは驚いて立ち止まる。
「え、と、どうして……手を……」
 考えていたことが読まれてしまったのではないかと不安になって思わず訊ねた。無限は自分の仕草を見て、ああ、と笑ってみせた。
「先ほど、この階段で躓かないよう手を差し伸べている人を見たんだ。それで、つい。あなたには、不要だったな」
「あ……」
 ナマエは思いが溢れそうになって、口元を抑える。無限が手を引き戻そうとするので、慌てて掴んだ。無限は驚いて目を丸くし、ナマエを見上げる。
「あの、その……手を」
 ナマエはしどろもどろに言いながら、控えめにその手を握った。
「握って……歩いている方たちがいたので。人間の男女は……そうするの、かと……」
 口にすると、余計に恥ずかしくなった。なんだかずいぶん子供じみた駄々をこねてしまっているような気がする。
 無限はナマエの手を、繊細な硝子細工を持つように捧げ、階段を降りるよう促した。
「そうだな。恋人同士というのは、こうして手を繋ぐ」
 そして、ナマエを隣に立たせると、指を絡めてきた。ナマエの指が緊張して強張るのを感じ取り、優しく少しだけ力を込める。
「いやか?」
「いえ」
 ナマエはなんとか身体の力を抜いて、無限の指に自分の指を絡めた。
「……こうしてみたかったの」
 望みを素直に口にすると、無限の手に力が入ったのがわかった。
「あなたという人は」
 無限はそっぽを向いて、そんな風に言う。呆れられたか、と俯きそうになったナマエに、無限は言葉に尽くせない思いを微笑に乗せて振り返った。
「……なんてかわいらしい人だ」
「……っ」
 呆れられたどころか、愛を深めたというような瞳の色に、動揺してしまう。あまりの恥ずかしさに、身体が溶けてしまいそうだ。いや、恥ずかしいだけではない。こうしてナマエの望みを叶えてくれて、かわいらしいと言ってくれることが、こんなにも嬉しい。
 その日は館のナマエの部屋の前で別れるまで、できる限りずっと、手を離さないで過ごした。

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