第三十三話 楽



 糸巻を締め、調弦をする。ぴんと張った絹糸を指先で弾くと、張り詰めた音がした。
 ナマエは顔を上げ、無限に目配せをした。無限は頷き、口元に笛を当てる。無限が吹く伸びやかな旋律に合わせて、ナマエは弦をつま弾く。呼吸を合わせ、拍を合わせていると思考が幽玄な音の風景へと引き込まれていく。
 ナマエは舟旅の途中で聞いた無限の笛の音を思い出した。あのときは耳を傾けるだけだったのが、今はこうして合奏している。島を出てから過ぎた月日を思うと、感慨深さが増した。暖かい盛りだったのが、今はもう雪がちらつく季節だ。
 家族と離れてしまったけれど、新たな出会いもあった。それはナマエにとって思いがけない出会いで、こうして思いを通じ合わせた後も、彼の隣にいることが不思議に思われてくる。ひとりの人間をこれほど深く想うなど、想像もしていなかった。彼の向けてくれる深く暖かい愛情は、家族のそれとはどうしてこれほど違って感じるのだろう。離れているほど想いは募り、会えば胸がいっぱいになってなぜだか泣きたいような気持ちになる。このままずっと寄り添っていたい。できることなら、永遠とも呼べるほど長く。
 低く穏やかな笛の音に、絡まるように細く高い琵琶の弦が震える。
 最後の一音が名残惜しく、小さく消えゆくまで響いていた。
「案外、身体が覚えているものですね」
 ナマエが琵琶を習ったのは、400年ほど前、館で過ごしていたときのことだ。こちらに来てから、琵琶の上手な妖精と出会い、また習い始めた。この琵琶はその妖精が譲ってくれたものだ。森に戻るときに琵琶は持っていけなかったので、その間はまったく触れていなかった。
「心地よい音色だ」
 無限は目を細めて、琵琶を持つナマエの姿をとっくりと眺める。
「無限様の笛には、お人柄が表れていますわ。私はあの月夜にあなたの笛を聞いて、あなたを信じようと思いました」
「そうか」
 無限は嬉しそうに微笑んだ。そして、思い出して含み笑いをする。
「小黒はそうではなかったようだが」
「仕方ありませんわ。あのときは」
 ようやく見付けられた寝床を襲撃されたのだ、すぐに信用しろというのも無理な話だったろう。
「けれど、長い旅を経て、あなたのお気持ちがあの子にも伝わったのでしょう。今のあの子は幸せそうで、本当によかったですわ」
「……だと、いい」
 もし、無限と出会わず、今も風息たちと過ごしていたら。考えても詮ない話だが、少なくとも現状、小黒は健やかに成長しているといえる。金属の扱いも日に日に上達しているそうだ。身長も少し伸びたかもしれない。
 ナマエが手遊びに弦をぽろぽろと弾いていると、無限は笛を置いた。
「一曲、弾いてくれないか。あなたの音をもう少し聞きたい」
「では……」
 ナマエは求められるまま、昔習った曲を奏でた。どこか愁いを含んだ、切ない旋律のこの曲を、ナマエは一番気に入っていた。
 弾いている間、無限の視線は滑らかに動く指先に注がれていた。少し緊張したが、見守られているという感じの方が強く、ナマエは心を込めて演奏を続けた。
 演奏が終わると、無限はナマエの右手を手に取った。細く白い指は、弦の上を驚くほど俊敏に動いていた。ほっそりしたナマエの手と比べて、無限の手は大きく、骨ばっている。幾度となくナマエを、そしてたくさんの人々を救ってきた手だ。
 手を見ていると思った無限の視線が、いつの間にかナマエの顔に注がれていた。距離の近さに、思わずナマエは俯く。
「あの……」
 琵琶を片付けるのを装って、ナマエはさりげなく無限から手をするりと離す。琵琶を卓子の上に置くと、さらに無限が近づいてきた。
「無限様?」
「……あなたに触れたい」
「それは」
 頬に触れようと手が伸びてきて、思わずナマエは身を引いてしまう。
「ナマエ」
 無限は甘くナマエを呼び、背中に落ちた艶やかな髪の一房に触れた。
「いけないか」
「……冷えてしまいますわ」
「大丈夫だ」
 無限は手を差し伸べる。ナマエはどうしていいかわからず、その手と自分の手を見比べる。触れたくないわけではない。ただ、心が落ち着かない。これ以上近づいて、平静でいられるか不安があった。
 こればかりはなかなか慣れない。無限の情熱的とも言える求め方に、いつも心がかき乱される。
 辛抱強く待つ無限に根負けして、ナマエはそっと手を差し出した。無限はすかさずその手を掴むと、自分の方に引き寄せ、胸の中にナマエを収めた。
「……っ、無限様」
「あなたのそばにいるのに、どうして触れずにいられる?」
 優しく頬を額に押し付けられて、ナマエは泣きそうな目をぎゅっと瞑った。愛されている。そう感じると、涙が溢れてしまいそうだった。
「あなたの冷たさも好ましく感じる」
「無理はなさらないで……」
「していないよ」
 いくらでもこうしていられる、と無限は笑い含みながらナマエを少し強く抱きしめる。ナマエは肩を竦めて、その腕に身を委ねるほかなかった。
「それとも、私の体温は熱いだろうか」
 ふと、思い至って無限はそうナマエに訊ねた。体温の差が相手にどう感じられているのか疑問だった。
「いえ……暖かいですわ」
 ナマエはそっとその胸元に頬を寄せる。肩まですっぽりと収まる、無限の広い胸板に触れると、服の上からでもその逞しさがわかった。こうしていると、思いを通わせたあの雪の日が思い起こされた。振り返っても、夢のようなひとときだった。その夢は醒めることなく、続いている。
「無限様」
 無性にその名を呼びたくなった。口に出した響きは心地よく、ナマエの心を満たす。
「ナマエ」
 何度でも名前を呼ばれたい。耳に届くたび心が震え、喜びが湧き上がる。
 二人はずいぶんと長い間、そうしていた。

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