第三十二話 湖



 卓子の上の端末から軽快な音がして、ナマエはびくりと肩を揺らした。
「ろ、洛竹」
「はいはい」
 おろおろしながら洛竹を呼ぶと、洛竹は端末を手に取って操作し、画面をナマエに見せてくれた。画面には、『三日後に会える どうだろうか』という簡潔な文章が並んでいた。
「まあ、三日後ですって」
「返信、どうする?」
「……やってみるわ」
 ナマエは真剣な表情で端末を両手で握り締めると、画面にそっと指を乗せる。
 この端末は、無限から贈られたものだ。離れている間も連絡が取れるように、と用意してくれた。ナマエはこういったものを操作するのは初めてで、洛竹に教えてもらいながら少しずつ学んでいるところだった。
「任務、お疲れ様です……と……」
 一文字一文字なんとか入力し、間違えているところがないか確認して、緊張しながら送信する。無限からの返信を待つ時間は、永遠に思えた。しばらくして、端末からまた音がした。ナマエはその文面を見て、悩ましい顔をする。
「『どこか行きたいところは?』ですって」
「おっ、デートだ」
「もう。でも、そうね……」
 にやにやとからかってくる洛竹に怒って見せつつ、ナマエは考える。無限と街を歩いたことは記憶に新しい。
「……そうだわ」
 ふと心に浮かんだ場所があって、ナマエはさっそく苦労しながら返信の文面を作成した。
「どこに行くの?」
 四苦八苦しつつもやっとのことで送信して一息ついているナマエに、洛竹は訊ねた。
「私の、生まれた場所に」
 ナマエはそっと囁くように答えた。
 それは龍遊の北のはずれにある。無限とお互いの過去について伝え合ったあと、今はどうなっているだろうかと気になる気持ちが湧いてきていた。
「……そっか。残ってるといいな。湖」
 洛竹はそれを聞いて目を細め、強いて笑みを浮かべた。
「ええ」
 洛竹たちと過ごした森はもうなくなっている。だからあまり希望は持てないだろう。ただ、今の様子を知りたかった。

 ナマエは一人で電車に乗り、無限と待ち合わせた駅に向かった。
 なんとか迷わずに辿り着き、改札の近くで無限を待つ。
 端末で確認すると、約束の10分前だった。彼はもう来ているだろうか。どきどきしながら周囲を見渡す。あまり大きな駅ではなく、人影はまばらだ。これなら、すれ違わずに済むだろう。駅に入ってくる人影を見ては踵が浮く。違うことにすぐ気付いてすとんと下ろす。それを何度繰り返したか、待ち合わせ場所に相違ないか、時間はあっているかと不安が勝ちだしてきたときだった。
「ナマエ」
 呼ぶ声に顔を上げれば、もう視界には彼の姿しか映っていなかった。
「無限様」
 胸にぎゅっと端末を押し付けて、自然とほころんだ笑顔を向ける。無限は足早にナマエの元まで来て、あと一歩のところで立ち止まり、笑みを返した。
「待たせた」
「いえ、私も先ほど来たところです」
 話しながら、無限はナマエを先導して歩き出す。駅の外には、赤いバイクが停められていた。
「これで行こう」
 無限はそれに座り、後ろのスペースに座るようナマエに伝えた。ナマエはそっと無限の肩に手を置き、シートに腰を下ろす。
「しっかり捕まって」
 そう言われて、無限との距離を少し縮める。遠慮がちに肩に手を置いていたら、腰に回すよう言われてしまった。
「では……」
 ナマエは恐る恐る腕を回した。後ろに流した無限の髪が頬に触れた。背中に抱き着くような格好になり、恥ずかしさが湧いてくる。
「走るよ」
「はい」
 一声かけてから、無限はエンジンを掛けた。前進した勢いで身体が後ろに引っ張られ、ナマエは慌てて無限にしがみつく。背中にぴったりとくっついてしまったが、落ちてしまわないように必死な思いの方が恥ずかしさに勝った。無限はナマエの様子を身体で感じながら、気を付けて運転する。信号が赤になり、緩やかに速度を落とし、停車する。ナマエが後ろでほっと息を吐いたのが感じられて、頬が緩んだ。
 信号が青に変わり、発進するのを察したナマエはまたひっしと無限にしがみつく。それほど速度は出していないが、ナマエの身体はずいぶん緊張して強張っていた。無限は彼女を驚かさないよう、できるだけ丁寧にカーブを曲がる。坂を下りるときにはナマエが小さく声を上げたのが聞こえたし、上るときには落ちないか心配なのか、外からはわからないようにわずかに自分の身体を浮かしていた。陸地での飛行が禁止されていてよかった、とふと思った無限だった。
 こうして目的地へ行くまでの道のりも、大切な思い出になる。このバイクは小黒のために購入したものだ。猫の姿で前の籠で寝たり、後ろに背中合わせで座って桃を齧ったり、思えば彼はすぐにバイクに慣れた。ナマエも、何度か乗せていくうちに慣れて、もっと身体の力を抜いてくれればいいと思う。
 目的地に向かうにつれて、道路沿いの民家が減っていく。
 一度端に寄ってバイクを停め、端末のGPSで現在地を確認し、地図を見てナマエの記憶を辿り、湖の位置を確認した。その周辺はすっかり切り開かれていて、地図上では湖は記載されていない。だから正確な位置が掴めていなかった。ナマエも心もとない表情で地図と周りの様子を見比べる。あれほど濃く漂っていた霊質はどこへ消えてしまったのだろう。
「この辺りまで行ってみようか」
 無限は地図の北東を示す。ナマエは頷いて、バイクに乗った。また、途中で無限は何人かにこの近くに湖はないかと訊ねたが、皆一様に首を振るばかりだった。
「無限様」
 工場の近くで、ナマエは無限に停止するよう伝えた。バイクから降りて、ナマエは工場をぐるりと一周する。その影に、小さな池があった。
「……これが?」
 無限が声を掛けると、ナマエはその池のそばにしゃがみ込んだ。
「……はい」
 埋め立てられていたわけではなかった。ただ、ずいぶんと小さくなってしまった。ナマエはそっと水の中に手を入れる。澄んでいた水は緑に濁り、生き物もあまり住んでいないようだった。その後ろには、少し土地が盛り上がっている場所がある。山と呼ぶには小さいが、木が生えており、あの奥までは人の手が入っていないようだった。
「向こうに、虚淮と出会った洞窟がありました」
「それなら、残っているかもしれないな」
「ええ」
 ナマエは決別するように水中から手を引き抜くと、立ち上がって無限を振り返った。
「ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。帰りましょう」
「……ああ」
 無限は一度振り返って、池を見る。ナマエの記憶の中で見た湖の美しさは、もはや失われてしまった。
 来た道を戻る途中、ナマエはとある看板が目に入って無限に声を掛けた。
「杏仁豆腐ですって」
「食べていこうか」
 そこは個人がやってる、住居と一体になった素朴な店だった。地元の常連が何人かいて、それなりに繁盛しているようだ。
 甘くひんやりとした杏仁豆腐に舌鼓を打ちながら、ナマエは昔話を無限に聞かせた。
「暑い時期は涼しい洞穴に、虚淮と二人で閉じこもってましたの」
「二人で……」
「氷の身体には暑さは堪えますから」
「そうか……」
 二人、と聞いて無限がむっと眉をしかめていることに気付かず、ナマエは遠い記憶に思いを馳せる。
「美味しい桃が獲れる場所が近くにあって、暑さも忘れるほどでした。それも、今は残っていないようで、寂しいですわ」
「……私も食べたかったな」
「他にも、いろいろな果物が獲れました。龍遊の森は、それは豊かでしたのよ」
ナマエは夢中で語っていたが、ふいに近くに座っている客の声が耳に入った。
「うちの孫が病気になってしまってね……」
「まだ小さいんだろう? かわいそうに」
「そうなんだよ。だから雪鹿廟にお参りしてるんだ」
 その廟の名前が出たとき、ナマエははっとして息を飲んだ。無限はすと立ち上がると、その人に話しかけた。
「失礼。その廟の場所は」
「なんだい、あんた」
 ナマエが驚いている間に無限は廟の場所を教えてもらい、ナマエの元に戻ってきた。
「ここからすぐだそうだ。行ってみるか?」
 ナマエは胸をいっぱいにして頷いた。
 
 バイクを押して、二人で歩き、店の裏から舗装されていない道に入る。
「この辺りでは、病気や怪我をすると、鹿仙女に祈るそうだよ」
 無限は、場所を聞くのと一緒に仕入れてきた情報をナマエに聞かせる。
 曲がり角を曲がると、小さな廟が目に入った。
 古くはあるが、きちんと手入れがされ、香が焚かれている。
 あのときから今の時点まで、そこに通う人たちの姿が見えた気がして、ナマエは口元を抑えた。思いが溢れて、声にならなかった。振り返ってみれば、ここで治療を施していたのは短い期間だった。それなのに、人々はナマエのことを忘れず、ずっと祀ってくれていた。
 咽喉を鳴らすナマエの傍に、無限はそっと寄り添い、微笑を浮かべた。 

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