第三十一話 域



「もう一度、私の霊域に来てはくれないか」
 無限が真剣な表情で、訊ねて来た。訊ねるというよりは、願うような視線だ。人の霊域に入ることは、その人の支配下に下るということと同じだ。だから、本来であればそれがどれほど無礼な申し出かと怒る妖精もいるだろう。
 だが、以前にもナマエは彼の霊域に入ったことがある。そこで、無限はナマエに触れることもしなかった。彼の願いが支配でないことはよくわかっていた。
「それから、もし嫌でなければ、……あなたの霊域に入れてほしい」
 しかし続けられた言葉は予想外のもので、ナマエは僅かに目を見開いた。
 自分の霊域に誰かを招くなど初めてのことだ。彼は空間系だから、霊域に対する感性がナマエとは違うのかもしれない。本来なら触れられない、心の一番柔らかい部分の奥底を開くようなものだ。
 ナマエが悩んだのは、いやだったからではない。戸惑ってしまっただけだ。自分の霊域に彼を呼び込んでいいものか、危険がありはしないかと。
「大丈夫だ。溺れたりはしない」
 彼は金属性だが、水属性にも多少覚えがある。それはナマエも知っている。ナマエが彼を守れば事足りることなのかもしれない。
「……わかりました」
 覚悟を決めて、ナマエは無限の瞳を見て、頷いた。

 無限の霊域は相変わらず穏やかだった。この景色を出会ったばかりのころに見ることができたからこそ、彼を信頼し、受け入れることができたのだと改めて思う。龍遊での事件で呑み込んだはずの、大量の金属類は見当たらない。どこか別の場所に貯めこまれているのだろうか。その代わり、あの舟旅で使われた筏と、赤いバイクが増えていた。
「これは、あなたと別れた後、小黒と共に移動するために買ったんだ」
 無限はそのハンドルを撫でながら、旅を思い出すように目を細めた。
「ここには、あなたの大切なものが仕舞われているのですね」
「ああ」
 無限はナマエを家の裏手へ導いた。
 大きな樹が一本生えており、その根本にある岩の上に、小さな石碑が四つ置かれていた。
「これは?」
 無限は手にしていた花をそこに添えた。
「私の家族の墓だ」
「ご家族の……」
 ナマエは放河灯の夜を思い出した。無限が墓の前に跪くので、ナマエもそれに習う。手を合わせ、目を閉じる。人間の死に行き会うことはいままで何度かあった。人間は妖精に比べると短命で、儚い。もし修行をしていなければ、無限もここに並んでいたのかもしれない。そうなれば、今出会うことはなかった。人間として家族たちと過ごした時間があり、今、ナマエが傍にいる時間がある。
 それはとても不思議な巡り合わせのように思えた。
 小屋に戻り、無限に振る舞われた冷たいお茶を飲みながら、ナマエは物思いに耽った。
 そして、顔を上げ、無限に手を差し出す。
「無限様」
「……しかし」
 無限は眉を顰め、躊躇うようにその手を見る。
「もとよりそのつもりで参りました」
 ナマエは強い意志を込めた目で、無限に手を伸ばした。無限もその意志を認め、唇を引き結ぶと彼女の手をそっと取り、心を受け取った。ナマエは無限に、すべてを曝け出した。



 一面の水だった。
 薄い水の膜の内側にしかない酸素が心もとない。だが、彼女は平気だと、安心させるように微笑んで見せる。無限は彼女に頷き返した。彼女は、ゆっくりと気泡を下へ向かわせる。きらきらとした魚や小鳥の姿をした氷が、気泡の周りを泳いでいた。
 ――ここが、彼女の霊域。
 青い水の中に、氷でできた生き物たちが群れを成している。陸地はない。本来なら凍える寒さなのだろうが、彼女が張ってくれた膜の中は居心地がよかった。
「ここが中心です」
 ナマエは気泡の動きを止め、無限の方へ向き直った。
 氷の魚がきらめき、青い光を乱反射して、世界を煌びやかに飾っていた。無限は彼女に向かい合い、手を差し出す。
 ナマエは臆することなく、その手を受け取った。
 無限が生まれたころの記憶、ナマエと初めて出会ったときの記憶、家族と共に過ごしたときの記憶、戦争の記憶、老君と出会い、執行人として生きる記憶……。無限の心が、ナマエの中に流れ込んできた。先ほど、無限の霊域の中で自分の心を受け渡したときの気持ちを思い返し、無限がどんな気持ちで心を差し出したのかを感じ取る。
 身体だけでなく、心も文字通り一つになれた瞬間だった。

 霊域を出て、館の一室に戻ると、夢から醒めたような心地がした。
 ナマエが無限を見ると、無限もナマエを見つめ返した。何も言葉にしなくても、心の奥深くで繋がっている。その実感が得られて、ナマエは目元を濡らした。無限が指先でそれが頬に転がり落ちる前にそっと拭ってくれる。彼に触れたくて、ナマエは一歩前に進み出る。無限は優しく腕を広げ、ナマエを胸元に迎え入れた。


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