第三十話 報



 この仕事が終われば館に戻れると、少し気が急いていた。すでにこちらは雪景色で、白銀の世界は余計に彼女を想起させた。
 まだ二人で街に出た日の余韻が胸を焦がしている。できることなら伝えたい、あなたと離れているとき、いかに己があなたを想っていることか。
 任務に疲れて眠ってしまった小黒を部屋に残し、少し歩くことにした。雪の中に彼女を見出したかったのだろう、窓越しに淡く光る雪明りが眩かった。
 だから、中庭に出たときには驚いた。一瞬にして周囲から音が消え、ただ真っ白な世界の中で、彼女の存在だけが確かだった。
 こちらに駆け寄ってくる彼女の可憐なことは、思わず抱きしめてしまうほどだった。彼女も嫌がるでなく、身を委ねてくるものだから、もう抑えることはできなかった。
 己を見上げてくる潤んだ瞳。柔らかく浮かぶ微笑み。顔にかかる髪の繊細な青い影。その美しい姿が何に隔てられることなくこの腕の中にいる。
「あなたが好きだ」
 言葉を脳内で形作る前に、唇が音を紡いでいた。
「無限様。お慕いしております」
 その声の愛らしい震え。その存在を髪の毛先まで愛おしく思った。ひたすらに愛を向けていた相手に、同じ愛を返してもらえる。それがどれほど奇跡的なことなのかと思うと眩暈がする。
 子供のころに憧れ求め続けたひとが、今腕の中にいる。その事実があまりにも稀なことで、言葉にできない。
 自然と「一緒に帰ろうか」と口にしていた。
 館が――いや、彼女のいる場所が、己の帰る場所になったのだと、思い至った。
 長いこと、放浪し続けていた気がする。
 人として生き、修行を積み、人から外れ、執行人となった。
 今ようやく、再び足をつけることができる居場所を見付けた。
 彼女の隣が今の己の居場所だ。
 そう気付けば、あとはもう早かった。

 部屋に戻ると、小黒はすでに起きていた。
「あ、師匠、おかえり……あれ? ナマエ!」
 ナマエの姿に気付くと、小黒は眠そうだった目をくるっと丸くし、無限とナマエの顔を見比べた。
「どうしてここにいるの?」
 そう言いながら部屋の中を見渡したのは、寝ている間に龍遊の館に来たのかと思ったからだろう。
「私も、仕事でここに来ていたのよ」
「そうだったの! びっくりした」
 小黒はまだ何か気になることがあるようで、無限をちらちらと見てくる。別段隠すこともないが、どう言おうかとナマエを見やると、ナマエも無限を見上げてきていた。視線がぶつかると、ナマエは頬を染めて俯く。やはり顔を隠してしまうのは変わらないらしい、と少し寂しくなった。
「……ねー。なんかあった?」
 そんな無限たちのやりとりを眺めている小黒の目はじとっとしている。二人はまた目を合わせては逸らす。どう見ても何かあった、という雰囲気だ。
 無限はナマエの肩を抱き寄せ、自分の方に近づけた。ナマエは驚きながらも、それに従う。ぴったりと身を寄せ合った二人を見て、小黒は口をぽかんと開ける。
「あ……。あー! 師匠! とうとう言ったの!? 好きだって!」
「……そうだ」
 無限は目を伏せつつ弟子の問いに肯定を返した。
「えー! ほんと!? ナマエも師匠のこと好きなの!?」
 ストレートに聞いてくる小黒に、ナマエは顔を袖で隠しながらやっとのことで頷いた。
 舟旅をしていたときから、無限がナマエに好意を抱いているらしいことを、小黒も感づいていた。しかし、ナマエの方の気持ちはわからない。無限もそれがもどかしいようで、いろいろとアピールの仕方を考えていたらしかったが、小黒から見てもじりじりするじれったさだった。
「師匠は言葉が足りなすぎるんだよ。いくら行動で示してもそれで察してなんて無理があるよね!」
「えっと……」
 小黒に同意を求められて、ナマエははぐらかす。今までのナマエに向けられていた無限の態度が、好意からくるものであったと知って、急に恥ずかしくなってきた。
 小黒は満面の笑みを師に向ける。
「でもよかったね師匠! これでいくらでもナマエに会いに行けるよ!」
「うん」
 無限は微笑んでナマエを見つめた。
「では、龍遊に戻ろうか。小黒、準備を」
「はーい!」
 小黒は元気に返事をして、荷物をまとめにかかった。



 転送門をくぐればすぐに龍遊の館に戻ることができた。そのまま館長の執務室へ行けば、ちょうどよく潘靖と冠萱が揃っていた。まず無限が仕事が終わったことを告げ、ナマエも仕事を終えたことを報告した。
「皆さん、お疲れさまでした。しばらくは大きな任務はないはずですので、お休みください」
「わかった。それと、もう一つ」
 無限はナマエの背にそっと手を添える。距離の近い二人に、潘靖も冠萱も何かを感じ取る。無限は喉の調子を整えつつ、言った。
「彼女と……そういう仲になった」
「そういう……?」
「あっ、そうなんですか!?」
 潘靖はいぶかしみ、冠萱はぱっと顔を赤くして声を上げた。小黒は無限の足元でにやにやしながら二人の反応を見ていた。潘靖は二人のむつまじい様子を見て取って、目元を和らげた。
「そうでしたか。お二人が……おめでとうございます」
「うん」
 潘靖から祝いの言葉を受けて、無限とナマエは顔を見合わせ、微笑みあった。人に告げるのは面映ゆいが、認めてもらえることはそれ以上に嬉しかった。想いが通じ合ったという実感が少しずつ得られて、ナマエの目が潤んでくる。感情の昂りはどうにも抑えようがなかった。

 館長の元を辞した後、ナマエは無限の手を引いて洛竹の元を訊ねた。洛竹はちょうど休みで、部屋でくつろいでいるところだった。
「ナマエ姉、おかえり! 無限たちも一緒なんだな」
「ただいま。ええ、洛竹に伝えたいことがあって」
「なに?」
 お茶を淹れに行った洛竹は、無限たちに座るよう伝えて、手際よく準備をしながらナマエの言葉を待った。ナマエは洛竹がお茶を淹れ終えて、自分の椅子に座るのを待って、無限と目配せし、口を開いた。
「私、無限様とお付き合いすることになったの」
「へえ、そう……え!?」
 洛竹の手から茶杯がするりと落ちる。ナマエは中の茶が洛竹に掛からないよう操り、無限が金属を飛ばして茶杯が地面に落ちないよう拾い上げた。茶杯が卓子に置かれ、ナマエはその中に茶を戻す。
 見事な連携を見せつけられて、洛竹は目が点になった。
「えっ……えー、ええ……?」
 そして、二人の顔をまじまじと見て、小黒に助けを求めた。
「ほんとに?」
「ほんとに!」
 小黒は嬉しそうに肯定した。洛竹ははあーと息を吐きながら後ろにのけぞり、首を振る。
「まさか、ナマエ姉がこいつと……」
「洛竹、こいつだなんて」
「だって」
 洛竹は言葉を探すように口をつぐみ、じっと無限を見据えた。
「ナマエ姉の、どこが好きなの」
「洛竹」
 腕を組んで、無限を見下ろすようにする洛竹に、ナマエは慌てる。
「それ、僕も気になる」
 小黒は純粋に興味津々に師匠を見上げた。
 無限は二人から目を反らし、黙考する。
「……。存在が」
 そしてそれだけを答えた。
「そんざい?」
「わかる」
 小黒は首を傾げ、洛竹は深く頷いた。
「ナマエ姉は存在が尊いよ。わかる。好きになっちゃうのはすごーくわかる。でもさあ!」
 そう叫んで頭を掻きむしった洛竹に、ナマエは驚いた。
「でもなんかこう……! 素直におめでとうって言えなくてごめん、ナマエ姉」
「いえ、私も突然ごめんなさい……。でも、どうして、洛竹?」
 洛竹は頬を膨らませ、無限をねめつけている。その態度が悲しくて、ナマエはしゅんと項垂れた。それを見て、違うんだ、と洛竹は手を振る。
「無限がどうとかじゃなくて……! 俺が寂しいの! 俺が勝手に寂しいと思ってるの! この前、言ってくれたでしょ。ナマエ姉は俺たちの姉さんだって」
「もちろんよ。今だって変わらないわ」
「そうだよね。でも、ナマエ姉が誰かのものになるなんて……ううう」
「どこかに行ってしまうわけじゃないわ。いままでどおりよ」
 ナマエは懸命に洛竹を慰める。洛竹はうん、うん、といちいち頷いてみせる。
「わかってるよ。わかってる。これは俺の問題なんだ。ちょっと時間をください」
「怒ってるわけじゃないのね?」
「まさか! 寂しいだけだよ」
 洛竹はナマエの手をぎゅっと握った。
「俺もナマエ姉が好きだから」
「私もあなたのことを大切に思っているわ」
 だからこそ、自分の慕う相手を、洛竹にも知ってほしかった。いますぐに受け入れるのが難しくても、時間をかけてくれるならそれでいい。
「ありがとう、洛竹」
「うん」
 洛竹は改めて無限に向き直ると、頭を下げた。
「姉をどうぞよろしくお願いします」
 無限も居住まいを正して、深く頭を下げた。

 洛竹の態度を見て、他の弟たちにどう告げるべきか、ナマエは悩んでしまった。まだ告げるべきではないのかもしれない。彼らが無限にどのような印象を持っているかといえば、あまりいい色ではないことは想像に難くない。もちろん彼の人柄に触れればその印象は覆るだろうが、今はその機会がない。牢の中にいる心労は計り知れないのに、むやみに新たな悩み事を増やすべきではないだろう。
「風息たちには、まだ伝えないことにしますわ」
「あなたの決めたとおりに」
 無限は特に口を挟まず、ナマエに従った。
「あ、無限様!」
 外廊の向こうから、紅泉たちが駆け寄ってきた。
「ナマエも! 帰ってきてたのね。おかえりなさい!」
「紅泉、みんな、ただいま」
 よく見れば、後ろの方に糸雲の姿も見えた。
「彼女たちには?」
 と無限はナマエに確認する。ナマエは糸雲の顔を見て、決めた。
「皆にお伝えしたいことがあるの」
「え、なに?」
 ナマエは背筋を伸ばして、無限の方に半歩近寄った。
「私たち、お付き合いすることになりました」
「えっ」
「えっ?」
「ええー!?」
 途端に、うそ、びっくり、ほんと!? という悲鳴が上がった。
 糸雲は黙ったまま、じっとナマエの方を見ていた。ナマエはその視線を見つめ返した。
「ちょっとナマエ! そんな突然……! 驚くじゃないの!」
 女子たちはナマエの手を掴まえると、引っ張っていって無限に聞こえないようひそひそ話した。
「どういうことよ!」
「いつの間にそんなことになったの?」
「冠萱さんは?」
「洛竹じゃないの?」
「冠萱さんフリーだ、やった!」
「私の無限様がー!」
 いっぺんに言われるので、どこから答えていいかわからない。
「伝えたのね」
 その中で、糸雲の声だけははっきり聞こえた。
「ええ」
 ナマエはしっかりと頷いて、微笑みを浮かべた。糸雲は顔を背け、いずこかへと行ってしまった。その後ろ姿を眺めていたナマエに、紅泉が抱き着いてくる。
「ナマエ! 案外ちゃっかりしてるんだからもう! やるじゃない」
 笑い含みながら怒ってみせる紅泉に、ナマエは笑い返すしかない。
 女子たちはいろいろと言い合っているが、全体的には二人を祝う雰囲気に包まれていた。無限との関係を知っていてもらえれば、以前のように心無い噂が流れることもなくなるはずだ。
 女子たちに囲まれたまま無限を振り返ると、無限も微笑み返してくれる。
 とても胸が満たされる時間だった。

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