第三十四話 雨



 ふと気づくと、薄曇りの空からぽつぽつと灰色の雫が降り出していた。
 ナマエは開けていた窓を閉め、窓枠に手を掛けたまましばらくその音に耳を傾ける。
「……無限様」
 今頃、どうしているだろうか。
 思いを通じ合わせてから、まだ少ししか経っていない。忙しい無限は、新たな任務を負って、小黒を伴って館を離れていた。
 別れてからまだ数日しか経っていないが、否が応でも想いは募る。
「……会いたい」
 ほう、と重い溜息が漏れた。ぱらぱらと窓に叩きつける雨の音が、無限との距離を想像させる。心を重ねたけれど、離れればやはり個別の存在。いつも胸に思っていても、面影は遠く寂しさがいや増す。
 薄暗い部屋の空気がどんよりとして感じるのは、きっと湿気のせいだけではない。
「無限様」
 もう一度、愛しい名前を呟いて、ナマエは胸元のペンダントを指先でなぞった。

 雨は数日続いた。冷たい空気に押し込められて、館全体がひっそりとしている。気晴らしに友と話してもどうしてか声を潜めてしまい、どうにも重苦しさは拭えなかった。
 だから久しぶりの青空には目を細め、心が浮き立つのを感じた。
 そして、きっとそろそろ会える、という予感がふいにときめいた。
 その予感に従って、ナマエは部屋から飛び出す。無限が掛かると言っていた日数はとっくに過ぎていた。
 転送門に続く道を、走り出さない程度に、だができるだけ早く、足を動かした。すると、向こう側からぱたぱたと軽い足音が響いてきて、ナマエは顔を上げた。
「ナマエー!」
 小黒が片手を上げて駆け寄ってくる。ナマエはしゃがんで小黒を待ち、「ただいま!」と猫の姿になって飛び込んできた小黒を抱き留めた。
「おかえりなさい、小黒」
 その後ろから、待ちに待った相手がゆっくりと近づいてくる。ナマエは小黒を抱え、彼を見つめながら、傍へくるのをじっと待った。
 無限はナマエの腕の中にいる小黒をちらりと見て、口をへの字に曲げた。
「無限様。お帰りをお待ちしておりました」
「……うん。今帰った」
 しかし、ナマエに声を掛けられるとすぐに口角を緩め、ナマエと目を合わせた。
 その表情の変化を、弟子は見逃さない。茶化すような口調で指摘した。
「あー、師匠、僕が先にナマエにただいまって言ったからすねた?」
「……すねてない」
 無限はむすっとして弟子から目を逸らす。小黒はくすくすと笑い声をあげた。
「あのねー、ナマエ。今回の旅でねえ、こんなことがあったんだよ」
 小黒は身軽にナマエの腕から抜け出すと、また人型に戻り、ナマエの手を引きながら話し始めた。無限は任務の報告のため潘靖のところに寄る必要がある。
「終わったら、そちらに行く」
「はい。お茶を用意しております」
「うん」
 ナマエの答えに満足げにして、無限は角を曲がっていった。ナマエは小黒を連れて、一足先に自分の部屋に戻った。

 夜、佇んで窓の外を眺める無限の横顔に、月明かりが落ちていた。黒髪が柔らかく銀色を反射して、輪郭がぼやけている。その横顔を見つめながら、ナマエはその隣にそっと寄り添った。無限はナマエと目を合わせて微笑み、その肩を抱いて近くへと抱き寄せる。ナマエは抵抗せず、小首を傾けて彼に寄り添った。
「先日は、雨が降っていた」
 ぽつりと、無限が語りだす。
「こちらもですわ」
 ナマエも小さく答えた。
「そうか」
 肩に置いていた手で、ナマエのすべらかな髪を梳き、無限は続ける。
「地面を優しく打つ音が、あなたの囁きを思い出させた。できることなら空を飛んで、あなたの元へ赴き、今聞きたいと。そう思った」
 ナマエは潤んだ瞳を煌々と照る月へ向ける。
「……私も、同じ思いでしたわ」
 身体は遠く離れていても、心は同じ音を聞いていた。
 それがわかると身が震えるような喜びがナマエの胸の内に湧き上がった。
 無限はそっとナマエの頬に触れる。ナマエは月から無限へと視線を戻した。無限の顔が近づいてくる。ナマエはそっと目を閉じた。
 ずっとそのまま触れていたいと願うけれど、唇は静かに離れていく。目を開けば、自分を見つめる熱い視線があった。
 この視線にきっと絡めとられたのだ。
 今まで出会った人々の中で、これほど情熱的でまっすぐな視線はなかった。心まで解かしてしまいそうな熱さに初めは戸惑ったけれど、いつしかそれを向けられて焦げ付くような想いに駆られることを望むようになっていた。
「無限様」
 ナマエは無限の胸元に手を添えて、そっと頭を傾ける。無限が身体を抱き寄せてくれる。体温の差が今は心地よい。窓から冷たい風が吹き込んできた。無限は窓を閉めると、ナマエの肩を抱いたまま椅子に座り、その膝の上にナマエを乗せた。ナマエは無限の手に手を重ね、少し低くなった無限の顔を見つめた。もう目を逸らさず、まっすぐに受け止めることができるようになっていた。その視線の意味がわからず、ただただ困惑していたころは、恥ずかしさでいっぱいになって、すぐ袖で顔を隠してしまっては無限に残念がられたものだ。
 部屋を照らすわずかな光の元では、無限の瞳は暗い深藍色に見える。耳の奥で、雨の音が聞こえるような気がした。
 無限が顔を寄せてくるので、ナマエはまた目を閉じる。見つめられているのも身体が震え立つような思いがするが、触れる唇もまた解けてしまいそうなほどに熱い。
「……はぁ」
 何度か角度を変えて啄まれ、ナマエは甘ったるい吐息を吐き出す。
 無限の呼吸もわずかに早くなっていた。無限の指先がナマエの頬を撫で、頬に掛かっていた髪を後ろへと払う。揺れる髪が光をきらきらと反射して、無限は目を細めてその影を追った。ひんやりとした彼女の頬は氷を直に触るほどには冷たくなく、柔らかい。自分の体温は彼女にはどう感じられるのだろうかといぶかしみながら、指の腹を当て、彼女の頬を包み込む。彼女は目をとろんとさせて、焦点が合わないような視線を無限に向ける。小さく開いた口は愛撫をせがんでいると見えて、無限は少し笑みを浮かべてそれに応える。ナマエはしっとりした唇の感触を受けて、心がとろりとまた融解していく感覚を覚えた。無限の身体はどこも熱を持っていて、ナマエの震える肌を突き刺して奥へ奥へと浸透していくようだ。
「熱くはないか?」
 目元を潤ませるナマエに、無限は掠れた声で訊ねる。ナマエは無限の手に自分の手を重ね、うっとりと目を閉じた。
「心地よいですわ」
 もう片方の手はナマエの背を支えていたが、ゆるりと上下に撫でるように動き、ナマエはこそばゆさに肩を揺すった。その拍子に肩に掛かっていた髪がさらりと流れる。
「無限様……」
 何度目かの吻を交えて、ナマエはそっと身体を離した。無限はナマエを自分の上から下ろし、すと立ち上がる。
 また高くなった目線からナマエを見つめると、控えめにも縋るように見上げてくるので、その頭をそっと撫でてやる。
「今夜はあなたの夢を見るだろう」
「私も……夢でお会いしたいですわ」
 名残惜しいが、いつまでもこの甘い時間を過ごしていることはできない。二人は戸まで寄り添ってゆっくりと、少しでも離れる時間を短くできるよう、ゆっくりと歩いていく。しかし狭い部屋のこと、ついには別れを告げなければいけないときがきて、無限の方から手を離す。ナマエは追いかけるようなしぐさを見せたが、謹んで自分の胸元に手を引き戻し、身を引いて戸を開けた。
「では、また」
「はい。また」
 その言葉に万感の思いを込め、ナマエは無限の背中から目を離せないままに音がしないよう戸を閉めた。
 そのまま戸に耳を当てると、彼が遠ざかっていく足音が聞こえる。それもすぐになくなって、耳の奥にはまた雨音が穏やかに響きだした。

[*前] | [次#]
[Main]