第二十九話 雪



 真っ白な雪が黒い屋根を覆い隠している。
 ナマエはちょっと立ち止まって、曇り空を見上げた。
 今、北にある館にナマエは来ていた。
 逸風は西に呼ばれたので、ナマエ一人でこちらにいる。仕事は終わり、帰っていいと言われたが、ナマエはこの館に留まっていた。北はもう冬だ。数日前にはもう雪が降り、地面も家々も木々も白く染めてしまっていた。
 仕事を終えた充足感と心地よい疲労感に包まれながら、白化粧の中庭を眺めるのは格別なものがあった。寒々しい空の下に生える緑も雪の重さに頭を垂れ、しんと静まり返っている。
 風息たちは寒い思いをしてないだろうかとふと心に過った。寝床以外何もない牢の石畳は見るからに冷たそうで、あんなところにいなければならないことを不憫に思う。だが罰は罰と風息たちは受け止めている。ナマエはただ早くその時間が過ぎてくれることを願うしかできない。みんなが解放されたら、どうしようか。そのまま、龍遊の館に住むのもいい。龍遊の外れにある森に移ってもいいだろう。もし風息たちが今の龍遊を受け入れられないというなら、いっそ離れて、あの島のような場所を探すのもいい。
 たとえそこがどんな場所であっても、弟たちが共にいるなら、どこであろうとナマエは心地よく過ごせるだろう。
「幸せに過ごしてほしい」
 風息の言葉が思い出された。牢にいる彼らのことを思い、くよくよしてしまうであろう姉の心をしっかり見透かされている。ナマエが彼らを想うように、彼らもまたナマエのことを想ってくれている。それはよくわかっている。では、今のナマエにとっての幸せとは何だろう。
 それもわかっている。
 ナマエは胸元に手を添えた。
 いつもつけている翡翠のペンダント。
 あの熱い視線にいっそ溶かされたいと思うほどに、思いは募っていた。
 無限様。
 もしかしたら、もう館に戻っているだろうか。もしそうなら、すぐにも帰りたい。ここの景色をもっと眺めていたいが、一人で眺めるのももったいない。美しい景色を共に見たいというこの欲求も、誰かを慕うということなのだろう。糸雲にこの気持ちを聞いてもらえて本当によかったと思う。そのおかげで、この思いを恋と呼ぶことに決めた。洛竹にはまだ打ち明けていない。祝福してくれるなら嬉しい。この思いをどう言葉にして、どう伝えようか。白い雪がナマエの心を映して、あの人に見せてくれたらいいのにと思う。
 昔、館にいるとき、いくつかの詩を習った。その中には恋を歌ったものがあった。あのときのナマエには、深い内容までは理解できていなかったが、今なら違った感想を抱くだろう。
 外廊を歩いて、渡り廊下に出る。白い雪の中に、焦げ茶の板張りが橋のように浮かび上がっている。中庭に植えられた竹も深い緑に沈み、笹の一枚一枚にさらさらとした雪を抱えている。
 ぎし、と対岸から軋む音がして、ナマエは顔を上げた。
 まるで夢の中の景色のように、慕い焦がれていた男が立っていた。
「……ナマエ」
 しんとした空気の中、名前を呼ぶ声がりんと澄んだ音を響かせる。
 ナマエはほとんど走るようにして渡り廊下に出た。
「無限様」
 渡り廊下の中央で無限と出会い、見つめ合う。
 周囲を包むひんやりとした酸素まで凍り付いてしまったかと思えた。
 白く秀でた額、墨で描かれたような意志を感じる眉、その下にある緑碧玉の瞳に、魅入られたように彼を見上げているナマエの顔が映り込んでいる。顎の下まで垂れた前髪を揺らす風もなく、見慣れた青磁色の袴が白くけぶり、際立っている。
 音もなく雪が降り出した。
 ナマエは胸元に添えていた手をきゅ、と握る。無限が垂らしていた腕を揺らした。こちらへ差し伸べてくるのを見るが先か、ナマエはもういてもたってもいられずに、その胸に頬を押し付けた。無限の身体が少し揺れ、しっかりとナマエを抱き留める。
 ゆるやかに背中に腕が回され、ナマエもすがるように彼の胸元へ掌を添えた。
 とくとくと、暖かな音が聞こえる。
 生命の音。
 無限の命の音。
 ナマエは深く息を吸い込み、陶酔したようにそれを吐いた。白い呼気が粉雪を舞い散らせる。
 夢を見ているようだ。
 けれど確かに、今無限の腕の中にいる。
 今まで二度、この腕に抱かれた。これからも何度でも、この胸に飛び込みたい。そう夢見る自分を自覚する。
「無限様。私は……」
 無限の腕の中から、無限を見上げ、唇を開く。あまりに静かで、紡ぐ言葉は雪に飲み込まれてしまいそうだった。
 その唇を、無限が塞いだ。
 重なった唇から、彼の体温が伝わってくる。
 無限の閉じた目を見て、ナマエも目を閉じ、身体を委ねた。
 どれほどそうしていただろうか。お互い、そっと離れる。無限は胸元にあったナマエの手をそっと握った。
「あなたが好きだ」
 そして、そう告げた。
 ナマエの目にみるみる涙が溜まっていく。ほろりと零れた雫は白く輝いた。
「あなたも同じ思いであればうれしい」
 ナマエは涙を流せるに任せ、頷いた。無限も目元を和ませ、ナマエの頬を指の背でそっと拭った。
 涙で彼の顔が見られなくなる。ナマエは何度も瞬きをして涙を散らし、なんとか彼の顔を見ようとする。そんなナマエの表情を、片時も逃したくないというように、無限が覗き込んでいる。やはりまだ気恥ずかしいが、その視線が嬉しくもあった。
「無限様。お慕いしております」
 それを聞いて無限はまたナマエを抱き寄せる。ナマエも濡れた頬を胸元に押し付けた。潤んだ視界に白がぼんやりと滲む。
「無限様……」
 いったいいつの間にこの想いはこれほどまでに膨らんだのだろう。
 自分でも気づかないままに、彼の愛の籠った視線を受けて、それが喜びとなっていた。胸を占拠するほどの大きな想いが、寝ても覚めてもナマエを捕らえて離さない。その想いの結実がこの胸の中にある暖かさなら、ずっと夢の中で揺蕩っていられるだろう。
 降り積もる雪のように音もなく、しかし確かな重さで、一粒一粒、六花を重ね、今はもうこんなにも白く染め上げられている。
 会えない時間があれば、より強く彼のことを想った。
 そして会えた時には、これ以上ないほどの喜びが身体中を駆け巡った。
 ずっとこうして寄り添っていたい。
 寄り添ったまま、夜を乗り越え、朝を迎えたい。
 銀の世界に、朱が差す。もう夕暮れ時だ。ナマエはようやく顔を起こし、無限を見上げる。
「こちらには、お仕事で?」
「ああ。だがもう終わった。あなたは?」
「私も終わったところです。ここの景色が美しいので、しばらく眺めてから帰ろうと思っていたところです」
「そうか。では、一緒に帰ろうか」
 帰ろう、という言葉の響きがとても嬉しいものとしてナマエの耳に響いた。
「はい」
 無邪気に笑って、ナマエは無限の手を握る。
「帰りましょう」
 無限もその手を握り返して、二人は寄り添って転送門へと向かった。

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