第二十七話 好



 二人ででかけたあの日から、ナマエの気持ちはずっとふわふわしていた。何をしていても身が入らない。冷気が溢れてしまうことはなかったので問題というほどではない。事件が起きることもなく、館でできた友たちと談笑し、お茶を飲み、手習いをする平和そのものな日々が続いている。その分手が空いているときは、すぐに無限のことを考えてしまうようになった。贈られたペンダントは、毎日片時も離さずつけている。無限は今、任務で遠くに行っている。数日会えていないだけなのに、窓の外を見ては溜息が唇から洩れた。
 部屋で鬱屈としているよりは、とナマエは外に出る。
 早朝の空気もひんやりしてきた。ナマエの好きな冬が近づいている。向こうから赤い裙子の女性が歩いてきた。
「……糸雲?」
 糸雲は相手がナマエだと気付くと硬直して足を止めた。ナマエは糸雲に駆け寄り、挨拶をする。
「おはよう」
「…………」
 糸雲は顔を背けて無言を貫いた。
「私、あなたと話がしたかったの」
 糸雲が去ってしまわないよう祈りながら、ナマエは話しかける。
「私は話したいことなんかないわ」
 やはり糸雲はそう言って踝を返そうとするので、ナマエはその手を掴んで止めた。
「なによ」
「無限様のことを」
「……っ」
 糸雲は顔を真っ赤にしてナマエを振り返った。ナマエは躊躇いながら伝える。
「その……こういうことは紅泉たちとは話しにくくて」
「どういう話よ」
 糸雲は手を振り払い、腕を組んでナマエに向き直った。ナマエはほっとしながら、胸元に手を当てる。
「糸雲は、無限様のことを……好きなの?」
「はっ……!?」
 糸雲は目を丸くして眉を吊り上げ、ナマエを睨みつける。ナマエは真剣そのものの表情で糸雲を見つめ返した。
 妖精の中でも、兄弟として、ではなく、夫婦として共に寄り添い、添い遂げるものはいる。それは知っていたし、そういう人に何人も会ってきた。だが、ナマエ自身がそういう相手と出会うことはなく、実感としてどのようなものかはわからなかった。
 冠萱とはそういう仲なのではと疑われたことがあったが、はたから見たらそう見えるのかとナマエは驚くだけで、実際そういう関係はまったくなかった。
 だから今、抱えているこの思いがそういう類のものであるのか、判断が付きかねている。物憂い溜息ばかり吐いていたら、ふと糸雲のことを思い出した。
「……っ、だったら何よ!?」
 そう答えた糸雲に、ナマエはぐいっと顔を近づける。
「それって、どんな気持ち?」
「どんなって……!」
 ぐいぐいくるナマエに、糸雲は上体を反らして距離を取ろうとするが、ナマエは離れない。糸雲はわかった、わかった、と手を振ってナマエを引き離すと、近くの椅子に怒ったように座り込んだ。
「なんでそんなことをあなたに話さなくちゃならないのよ」
「知りたくなってしまって。糸雲は、無限様を見つめてしまうことはある?」
「うっ……そ、そりゃああるでしょう! 館中の女がそうよ」
「そうなの……」
 あるのね、とナマエは頬を撫でる。無限がいると、館はたちまち色めき立ち、皆の視線は無限だけに向けられるようになる。
「たくさん話したいと思う?」
 ナマエは糸雲の隣に座り、その顔を覗き込む。糸雲は顔を背けた。
「できることならね。でも無限様はお忙しいから。煩わせてはいけないわ」
「そうね。では、どこかにでかけたいと?」
「思うわよ! できることならずっと一緒にいたいし、あの方の視線がこちらに向けられないかって、願ってしまうわよ……!」
 気持ちを高ぶらせて、糸雲は手のひらで顔を覆ってしまった。
「でもそんなこと叶いっこない。わかってるわよ。あの方が私を見たりなんかしないことは……!」
「糸雲。ごめんなさい。そんなつもりじゃなかったの」
 泣き出してしまった糸雲の背を、ナマエは狼狽えながら撫でてやる。
「あの方はずっと、館に寄り付かなかった。でも、近頃は違う……」
 糸雲は何かを言いかけたが、口を噤んで、一拍置いてから付け加えた。
「認めたくないけど」
 ナマエは目元を赤くした糸雲の激情に感じ入る。それだけ強い思いを、彼女もきっと抱えているのだ。
「私がいるかいないかなんて、あの方には何も影響しなかった。それを思い知らされて……」
 糸雲はしゃくりあげながらそう続ける。
 糸雲はずっと、無限を見て来た。一目見たときから惹かれ、館を訪れるたびに彼を出迎える妖精たちに混じり、一番前に出てなんとか彼の視界に入ろうと必死だった。そして、ずっと見て来たからこそわかる。無限の対応が違うことが。
「腹が立つわ。なんで私はこんな話をあなたにしなくちゃならないの?」
「あなたが強く思いを寄せてることはよくわかったわ。話してくれてありがとう」
「……礼なんか言われることじゃないでしょ。そんなこと知って、優越感にでも浸るつもり?」
 嫌な女、と糸雲は呟いた。ナマエはほうと息を吐いた。
「不安だったの。こんな気持ちになったことがなくて。でも、一人じゃないと知れたことは、嬉しいわ」
「は?」
「私……私、やっぱり無限様が好き、なのかしら」
 そう言って目を泳がせながら頬を染めるナマエを、糸雲はまじまじと見つめる。
「何言ってるの?」
「わからないの。思いばかり溢れて、どうすればいいのか……」
「それを私に言う?」
 呆れた、と糸雲は天を仰いだ。なんという大胆さだろう、この女は。恋敵とすら認識されていないのか、と糸雲は自虐的に笑う。
 そんな糸雲の心の動きを知らないナマエは、糸雲の涙が止まったことにほっとする。
「あなたが何を思っているかなんて、どうでもいいわよ。私に関係ある? しかもわからないって、いい年して子供のようなことを言って。呆れかえるわ。無限様もどうしてこんな女……」
「糸雲は、今まで誰かと情を交わしたことはあって?」
「……あるけど」
 話したくない、と糸雲はそっぽを向いてしまった。
「あなたはないの」
「……ないわ」
「あっそう」
 心底興味ない、というように糸雲は鼻を鳴らした。ナマエは胸元に添えた手をぎゅっと握り、それでは足らず、糸雲の袖に縋る。
「もう抱えきれないほどなの。どうしよう、糸雲」
「だから私に言ってどうするのよ。本人に伝えなさいよ」
「本人に……」
 ナマエははっとして、糸雲の裾を握っていた手を止める。考えつかなかった。この思いを、そのまま無限に伝えるなんて。
「そんな……いいのかしら」
「いいも悪いもないでしょう。伝えるか伝えないかだわ」
 私は……と言いかけて、糸雲は黙る。
 伝えるか伝えないか、とナマエは繰り返す。
 もし伝えたら、どうなるのだろうか。何かが変わるのだろうか。無限は、私と添い遂げたいと思ってくれるだろうか。
 添い遂げる、と考えて身体が沸き立つ。お互いが思い合い、寄り添う姿を想像した。あのアクセサリーを眺めていた男女のように、身体を密着させ合い、笑い合う。
 もしそうなれたら。
 ずっとこんな風に夢見心地で、心は雲の上にあるようで、足は水に絡めとられるような、暖かな思いの中に揺蕩っていられるのだろうか。
 いつか、そうなれたらいい。
 ナマエは素直にそう思った。
「人を想うって、こんな気持ちなのね」
 ナマエは胸元に手を重ね、目を閉じ、それを確かめる。
「……そうよ。思うだけで暖かくて、幸せで、苦しいの……」
 糸雲は小さな声でそう呟いた。そして、立ち上がる。
「もういいでしょう。私は行くわ。もうへんなことを話しかけてこないで」
「あ、ええ。またね、糸雲」
「……ふんっ。さっさとふられればいいわ!」
 糸雲は靴音高く歩き出し、颯爽と行ってしまった。
 ナマエはその場に残り、空を見上げる。日が少し高くなった。そろそろ皆が起きだしてくるだろう。
「好き……。無限様が、好き」
 そっと声に出してみる。唇を震わせて零れた短い言葉は、風に吹かれてそっと解けていく。

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