第二十六話 逢



「では、行こうか」
 部屋まで迎えに来たのは無限一人だった。小黒は外で待っているのかと思ったが、どこにもいない。
「小黒は?」
 なのでそう訊ねると、無限は「鳩爺に預けた」と簡潔に答えた。てっきりいつものように小黒も一緒に行くのだとばかり思っていたナマエは虚を突かれる。
「では……二人で……?」
「そうなるな」
 こともなげにそう言って無限が歩き出してしまうので、ナマエは慌ててついていった。二人きり。そう考えると動揺してしまった。
 二歩先を歩く無限の後ろ姿を追いかけながら、ナマエは心を落ち着けようとする。無限は今日も洋服を来ていた。襟元で髪をひとつにまとめ、黒いコートの裾をはためかせながら、ナマエを気遣う速度で歩いていく。ナマエはノースリーブのハイネックに薄紫のショールを肩にかけ、真ん中にスリットの入った紺のタイトスカートを選んだ。髪も合わせて緩いハーフアップにしている。出かける前、鏡の前で何度もおかしいところがないか確認した。洋服を着るようになってしばらく経つが、やはりまだ慣れない。この服装は、無限の目にどう映るのだろう。そればかりが気になった。
 館を出た後は電車で移動する。龍遊の都心へ向かうため改札を通るとき、ナマエはいまだに緊張する。無限が先導してくれるため、迷うことはなかった。まばらに空いた車両に乗り込み、ドア付近に立った。他の乗客たちの中で、浮いてはいないかとナマエは落ち着かなげに髪を撫でつける。見た目では耳が大きくとがっているところ以外は人とそう変わらないはずだ。ナマエは窓の外を眺めて気を紛らわそうとしたが、窓に映る無限の視線に気づいてどきりとした。
 ――また、見ている。
 無限の視線を意識するたび、胸がきゅっとなる。
「あの」
 視線は窓の外に向けたまま、ナマエは声を掛けてみる。
「どこか、おかしいでしょうか」
「ああ、いや」
 服装に違和感があるのかと心配になり訊ねてみたが、無限は首を振った。
「似合っているから、つい」
 見てしまった。無限は咳払いをして、ナマエと同じように窓の外へ目を逸らした。似合っている。その言葉が、ナマエの頭の中に反響する。似合っている。どうやらおかしくはないようだと安心し、同時に、胸が高鳴る。花を見るように……ナマエを見ている。この服を選んでよかったと、ナマエは頬が緩むのを感じた。
 中心部に近づくにつれ、人が増えて来た。空席は埋まり、立っている人で通路が塞がれる。無限は車両から降りようとして、ナマエが人に引っかかっていることに気付き、その手をそっと掴むと引いて道を作ってくれた。ホームにも人が多い。逸れないよう、その手は改札を通るまでナマエの細い手首を掴んでいた。
 その日は人間にとっても休日で、通りは人でごった返していた。
 無限は慣れた足運びでその間を縫っていく。ナマエは遅れないようついていく。
「大餅だ」
 無限は屋台を見付けると、右へ曲がってそれを買い、ナマエにも手渡した。
「ここのは特にうまいんだ」
 道の端に空間を見つけ、二人はそこでさっそくそれを食べた。表面はぱりぱりとしているが、中はふわふわだった。
「美味しい」
 大餅を頬張るナマエの顔を眺めて、無限は表情を綻ばせた。
「次はあれを食べよう」
 そう言って、歩き出す無限のあとをナマエは追いかける。あそこの菜包は具が珍しい、あの店の鮮汁肉包は人気だ、と無限はいろいろな小吃をナマエに食べさせてくれた。
「次は……」
「無限様、あの」
 さらに食べ物を買おうとするので、ナマエは遠慮がちに伝えた。
「ごめんなさい、そろそろ満腹で」
「ああ、そうか」
 そう言われてはじめてたくさん食べさせすぎたと無限は気付いた。無限にとってはまだ物足りない量かもしれないと思うとナマエは自分の胃袋の小ささが申し訳なくなる。
「小黒と一緒のときは、食べ物の店ばかり入ってしまうからな」
 しかし、無限はそんな風に茶化して、では、とナマエに向き合った。
「次はあなたの行きたい場所へ行こう」
「私の……」
 ナマエは少し考えて、通りの向こうにある百貨店を見上げた。
「では、あそこを見て回りたいですわ」
 紅泉たちとゆっくりウインドウショッピングをするのが好きだった。百貨店には服、靴、アクセサリー、本、雑貨、なんでも揃っている。いくら見ても見飽きない。歩けば腹ごなしにもなる。
 ナマエはさっそく好みの服屋を見付けて、店内を見て回った。店頭にはもう冬服が並んでいる。ナマエは防寒をする必要はなかったが、ふかふかの布地は目を楽しませてくれた。何件かを通り過ぎ、ふとショーケースに入ったジュエリーに目を奪われる。
「まあ、きれい」
 翡翠を使った様々なアクセサリーが目立つところに展示されていた。仲睦まじい男女が身体をくっつけ合いながらそれを眺めている。ナマエは少し離れたところからショーケースを覗いてみた。
「ご試着なさいますか?」
 すると店員がさっそく声を掛けてくる。せっかくだからと、ナマエはいくつか試してみることにした。その中で、小指の爪ほどの翡翠のペンダントが際立って細工がよかった。
「気に入った?」
 鏡に見入るナマエに、無限が囁く。
「ええ」
 ナマエは夢見るように答えて、それを店員に返した。無限が店員に何ごとか話しかけ、店の奥に行ってしまう。ナマエは名残惜しくショーケースを眺めながらその帰りを待つことにした。
「これを」
 しばらくして戻ってきた無限は小さな紙袋を手にしていた。ナマエは不思議に思いながらそれを受け取る。
「先ほどのペンダントだ。君に贈らせてほしい」
「まあ……でも」
 確かそれなりの値段がしたはずだ。ナマエは受け取ってしまっていいものか戸惑ったが、突き返すのも無礼な話だ。
「……ありがとうございます。うれしい」
 正直な気持ちだった。ナマエは思っていた以上にあの輝きに魅入られていたらしい。
「開けてみて」
 ナマエは言われた通り箱を開けると、ペンダントがひとりでに浮き上がり、ナマエの胸元に掛けられた。無限が金属を操ったのだと一拍遅れて気付く。
「やはり。きれいだ」
 それを無限は満足げに眺めた。ナマエは頬が染まるのを感じた。
 胸がいっぱいのまま、近くのカフェに入り、一服する。他愛もない言葉を交わしたが、何を話したものか、ナマエの頭はぼんやりとしていた。
 彼が隣にいて、落ち着いた声で話しかけてくれて、見つめてくれる。
 これほど長い間二人きりでいるのは初めてだった。今朝の緊張は嘘のように、気持ちは緩んでいる。
 彼の大きく骨ばった手がカップを掴む。彼の唇が僅かに開く。横に流した前髪が揺れ、目が合い、微笑む。動作のひとつひとつから、目が離せなくなる。
 見つめていると、ふいに恥ずかしくなり、つと逸らす。しかし、それも僅かな間で、また見てしまう。そしてまた、目と目が見つめ合う。
 たくさん話を聞いてほしい。たくさん私を知ってほしい。
 たくさん話を聞きたい。たくさんあなたを知りたい。
 気持ちは溢れてとめどない。際限なく昂り、他の何も見えなくなってしまいそうだ。
 それは怖い。
 膨れ上がった思いに飲み込まれ、溺れてしまいそうで、足がすくむ。
 風息に会いたい。
 ふと、そう思った。

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