第二十五話 噂



 数日館で過ごした後、無限は任務に行ってしまった。だが、今回は三日で戻れるということなので、またすぐに会えるだろう。
 お菓子作りの方も再開した。女子たちと顔を合わせて話すうちに、また一緒に作ろうという流れに自然となって、今は西洋のお菓子の作り方を共に学んだりしている。しかし、糸雲と話す機会は訪れなかった。どうも糸雲の方からナマエを避けているようだった。
 今日は無限が出かけてから二日目だ。
「それで、無限様はどうしたの?」
 ナマエは請われるままに、無限のことを話した。遊園地に行ったこと、紅葉を見たこと。
「そうしたら、無限様は……」
「なによ、ひけらかして」
 つんとした声の主は糸雲だった。彼女は挑むように座っているナマエを見下ろした。
「そんなにあの人と過ごしたことがご自慢?」
「私は……」
「やめなよ、糸雲」
 答えに困っていると、隣の紅泉が立ち上がり、糸雲に向き合った。
「突っかかるなんて、みっともないわよ」
「誰が……っ、だいたい、この女は料理もろくにできないのよ!」
 言い争いに発展しそうではらはらしているナマエを指さして、糸雲は罵る。
「そんな女があの人に相応しいわけないじゃない!」
「それについても、考えたんだけど」
 紅泉は声を荒げる糸雲に対して、冷静に返す。
「料理を焦げ付かせて、やる気をなくして食材を全部捨てて、焦げた鍋もそのままにして帰ったって言ってたけど」
「えっ……?」
 紅泉から出た言葉は寝耳に水だった。糸雲と料理をしたあのときの話をしているはずだが、ずいぶん実際と違う。思わぬ話に、ナマエは呆然とする。
「考えてみたけど、やっぱりナマエはそんなことする人じゃないよ」
 そうよ、と女子たちから同意の声が上がった。「だいたいあなた火属性じゃない」と誰かが非難し、ますます糸雲は眉を吊り上げる。ナマエは話の成り行きがどうなっていくのかわからず右往左往するしかない。紅泉は腕を組んで糸雲をねめつけた。
「ナマエの評判を下げるために嘘ついたわね」
「なっ、そんなことするわけないじゃない! どうして新入りの方を庇うのよ! 私のことを信じてくれないの!?」
「悪いけどね」
 紅泉は首を振った。
「ナマエが妬ましいのはわかるけど、こういうやり方はどうかと思うわ」
「なにを……っ。私は別に、ナマエのことなんかなんとも思ってないわ!」
 糸雲は顔を真っ赤にしてナマエを睨みつけた。
「ただ、哀れに思ってるだけよ! あの人は術が狙いなだけなのに……!」
「糸雲!」
「……その話、俺も気になる」
 騒動を遠巻きに見ていた妖精の一人が、沈黙を破って前に進み出て来た。
「ちょっと、ややこしくなるから入ってこないでよ」
「いや、そうはいかない」
 紅泉が止めたが、別の男まで立ち上がって、何人かの男たちがナマエに物言いたげな視線を向けた。
「なんのお話でしょう……?」
 話の中心はナマエであるらしいのだが、話の流れからすっかり置いてきぼりをくらっている気分だ。
「無限のことです」
「無限様の?」
 男たちは顔を見合わせ、最初に手を挙げた男が代表して口を開いた。
「あの男は、治癒術を使えるあなたを奪って、人間たちの利益にするつもりではないのかと」
 ナマエは絶句した。まさか、そんなことを言われるとはまったく想像もしていなかったので、衝撃に耐える時間が必要だった。
「……待ってください。なんのお話ですか?」
「決まっています! あなたの身をお守りするという話ですよ!」
 そうだそうだ、と男たちが声を揃えた。
「あの男はあなたに近づいてよからぬことを企んでいるんです! あいつはどうせ人間だ。だから俺たちが……」
 そう言った男は、この間新入りの妖精を紹介してくれた緑の肌の男だった。
「おやめください」
 なおも言い募ろうとする男たちに、ナマエは手を翳して黙らせた。伸ばした腕から、冷気が降り、床に這う。
「無限様を、愚弄するというのですか」
「……っいや」
「あ、あなたのためです! あなたの力がどれほど貴重なものか」
 ナマエに目を向けられると、緑の男は黙り込んだ。ナマエはしっかりと男たちひとりひとりの顔を見て、言った。
「私のことは好きなようにおっしゃっていただいてかまいません。ですが、無限様を悪し様に言うようなことは看過できません。訂正していただきます」
 ナマエは冷気を抑えて、姿勢を正した。
「あの方が私の術を狙うなど、あり得ません」
 そう断言する。
 きっぱりとした、力強い物言いには、さきほどまで狼狽えていた影は微塵もなかった。
「どなたが言い出されたことかはわかりませんが、事実無根の虚偽を吹聴するのはいかがなものかと思います」
 誰も何も言えなかった。
 誰もが、ナマエの見せた気勢に圧倒されていた。
「今後そのようなことをおっしゃる方がいたら、訂正していただけますか?」
 ナマエに念を押され、男たちは目配せをし、しぶしぶ頷く。それを見てナマエは小さく笑みを浮かべた。
「……っなによ……」
 うまく場を治めたナマエの影に隠れてしまった糸雲は、白くなるまで握った拳を震わせる。
「私が……っ」
 その拳を開いて、振りかぶった。
「私の方が先に好きになったのに!」
 しかしそのまま静止し、振り下ろされることはなかった。
「あ――」
「無限様」
 ナマエは糸雲の腕を掴んだ人物を見て驚愕の声を上げた。
 無限は糸雲の身体から力が抜けたことを見て取ると、手を離した。
「なぜ、このようなことを?」
「……っ違います!」
 糸雲は涙を隠して顔を背けると、走り去っていってしまった。
 一度にたくさんのことが起こって、混乱していたこの場は、無限の登場によって緊張の糸が切れたかのように弛緩した。
「無限様、帰ってきたんですね!」
「すごいタイミングです、無限様!」
「聞いてください、無限様!」
 ナマエが声を掛けるよりも早く、女子たちが無限を囲んでしまった。そのどさくさに紛れてどこかに行こうとした男たちをしっかり押さえて、紅泉は無限にことのあらましを説明した。
「――というわけで。実は、この噂自体はもう少し前からあったんです」
 紅泉はナマエを気遣うように目を配りつつ、無限に伝える。
「最初は、どうせ無限様のことをやっかんでる男たちの虚言だろうと思っていたんですけど。思ったより、信じてしまう妖精が多くて……」
「……そうか」
「でも! 今後はちゃんと毎回否定して、もう広まらないようにしますから! そうよね?」
「はい」
 紅泉にすごまれずとも、男たちももうすっかり反省していた。
「確かに、俺たちは無限に負けた恨みがある。だが、それを信じたのはそれだけナマエさんを心配していたからだということはわかってほしい」
「それは、理解する」
 無限はちらりとナマエを見てから、頷いた。ナマエの持つ術が妖精たちにとっても人間にとっても貴重な種類のものであることは重々わかっている。この噂が広まったことで実害は出ていないし、それ以上追及するつもりはなかった。
 男たちは何度も無限に頭を下げ、引き上げていった。
「じゃあ、私たちも行きましょうか」
 女子たちも顔を見合わせ、そそくさと立ち上がる。ナマエと無限だけがその場に残された。
「お疲れのところ、申し訳ございません」
「いや。私こそ、すまない。配慮が足りなかった」
「いえ……」
 そこで言葉が途切れ、沈黙が下りる。だが、いやなものではなかった。無限の視線を肌で感じ、ナマエは目を伏せ、そっと微笑む。
 その揺れない視線が、心地よいとさえ感じ始めている。
「お茶を淹れてきます」
「ああ」
 無限はすと立ち上がり給湯室へ向かったナマエの後ろ姿を目で追いかけた。予定より早く仕事を切り上げて館に戻ってきたところだった。館長に会いに行く前に先にナマエの顔だけでも見ようと階段を上がっていたところ、怒号が聞こえて何ごとかと飛び込んだら、いまにもナマエが打たれそうになっていて、考える前に飛び出していた。今度はどうやら間に合った、とほっと息を吐く。館長のところに行くのは、お茶を飲んでからでもいいだろう。
 ほどなくしてナマエが戻ってきた。卓子に茶杯を置き、茶壷から茶を注ぐと、湯気と香りが立ち上った。
 無限はそれを一口飲んで、ほっと小さく息を吐く。
「うまい」
 館に好んで来たいと思えるようになる日が来るとは思っていなかった。妖精たちとの蟠りを解消できればとは考えていたが、そう簡単にはいかないだろうことも理解していた。今日のようなことも、起こりうることだった。もう少し慎重に行動するべきだった。ただ心配なのはナマエのことだ。自分と関わることで、ここの妖精たちとの関係が悪化することは避けなければいけない。ここが彼女の居場所なのだから。そこが少しでも居心地よければと願う。
「すまなかった。気付かなくて」
「……いえ。私こそ、庇っていただいてありがとうございました」
 一歩遅ければ彼女の頬が赤く腫れていたかもしれないと思うとぞっとする。無限は丁寧に頭を下げる彼女の肌が、いつも通り白く透き通っていることを確認した。
「今回のことは、館長にも伝えておく。今後、同じことが起きないように」
「はい」
 ナマエの手元にある茶杯は湯気を立てていなかった。やはり温い方が好みなのだろう。ひとつ、彼女のことを知れた。そして、もっと知りたくなった。
「もし、次の休みが取れたら」
 茶杯を置いて、彼女の方を見る。洛竹にああ言われてなるべく見つめすぎないように気を付けているが、やはりどうしても、自然と目が彼女の姿を映そうとしてしまう。
「どこかへでかけないか」
「はい」
 彼女はそっと袂で口元を隠し、頷いた。顔を隠してしまうのは惜しいが、そんな彼女の奥ゆかしい所作も好ましい。
「あなたが行きたいところに」
 今までは、小黒に見せてやりたいところを選んで、小黒と共に出かけていた。だから彼女の望みを訊ねるのは初めてだ。ナマエは私の、と考え込む。
「……それなら、街へ行ってみたいですわ」
 そして、遠慮がちに言った。
「無限様が街でどう過ごされているのか、教えていただきたいのです」
「……そうか」
 そう言われて、胸の奥がむずむずした。
「では、決まったらまた」
「はい」
 もう茶を飲み終わってしまった。名残惜しいが、これ以上ゆっくりもしていられない。無限が立ち上がると、ナマエも一緒に立ち、無限を見送った。
「また、あとで」
「お待ちしております」
 ナマエはまた頭を下げた。潘靖に早めに休みをくれるよう伝えよう。無限は逸る気持ちを抑えて館長の元へ向かった。

[*前] | [次#]
[Main]