第二十四話 朝



「ねえねえ、無限様と、どんな話をするの?」
 穏やかな日差しが差し込む午後、ナマエは館の妖精たちとお茶を楽しんでいた。もっとも、女性たちはお茶よりもナマエから話を聞き出す方に熱を込めている。
「無限様はどんなお菓子が好き?」
「無限様、白茶は好きかな」
「無限様って、普段どんなことをしてるの?」
 聞かれるのはもっぱら無限のことだった。館に来たときから、無限を支持する妖精もいることは知っていたが、女性たちの熱の入りようは想像以上だった。
「なんでも美味しそうに食べてくださるわ。そうね、おそらく……。普段は、小黒を遊びに連れて行ってあげていらっしゃるわね」
 そのひとつひとつに答えながら、ナマエは今まで接してきた中で気付いたことを伝える。そのたびに意外、だったりやっぱり、だったり、様々な反応で色めき立った。
「いいなあ、無限様とそんなに話せて」
「私達じゃあねえ」
「やっぱり術が……」
「やめなさいよ」
 何かを言いかけた妖精を、他の妖精たちが窘める。ナマエは彼らの方が無限に詳しいだろうと思っていたので、その反応は予想外だった。彼女たちは唇を尖らせたり、髪をいじったりして視線を泳がせる。
「だって、無限様あまり館にいてくれないんだもの」
「そうよね、まったく、あの方を疎む人がいるなんて」
 女性たちはそばを通り過ぎようとしていた男性陣をここぞとばかりに睨む。男性たちはぎくりとして、何も聞かなかったような顔で通り過ぎていった。
「今度は、何を作ろっか」
 話題は次に作るお菓子の話に移ろっていた。いつも数人集まって作り方を習っている。
「もうお菓子もだいぶ作り慣れただろうし、そろそろおかずを作るのはどう?」
 身を乗り出してきたのは、糸雲だ。大勢で話すとき、たまに顔を見かける程度で、いままで一緒にお菓子作りをしたことはなかった。
「明日の午後一緒に作りましょう」
 彼女は一方的にそう約束をとりつけた。幸い、明日の午後なら予定は開いている。ナマエは特に訂正せず、頷いた。

「材料はこれね」
 こう切って、と言われるままにナマエは野菜や肉を切っていく。肉を切るのは少し抵抗があったが、教わる立場でいやとはいえない。ナマエが切り分けた食材を、糸雲は慣れた手つきで中華鍋に放り込んでいく。今回糸雲が声を掛けたのはナマエだけだったようだ。他の人たちも来ると思っていたので、二人きりと思うと少し緊張した。
「あ、ねえ、ちょっと鍋見ててくれない?」
「え?」
「すぐ戻るから」
 糸雲はナマエに鉄杓を押し付けると、そのまま台所を出て行ってしまった。
「えっと……」
 炒め物をするため火力は強めだ。ナマエは見よう見まねで鍋をかき混ぜる。次第に食材が黒ずんできた。どうしよう、と迷うころには焦げ臭い煙が立ち上り、ナマエは咳き込んだ。
「ちょっと! 何この匂い!」
 やっと戻ってきたと思ったら、糸雲はナマエから鉄杓を取り上げて、火を止めた。
「けほっ! やだ、焦げてるじゃないの!」
 目を吊り上げて、糸雲はナマエに鍋を突き付けた。
「見ててって言ったのに」
「ごめんなさい、扱いがわからなくて」
 項垂れて弁解するナマエに取り合わず、糸雲は怒ったまま鍋を水に浸け、たわしをナマエに押し付けた。
「ほら、磨きなさいよ」
「はい」
 ナマエは大人しくそれを受け取り、鍋にこびりついた食材をこそげ落とす。こうなっては、料理どころではない。
「あーあ。食材こんなに無駄にしちゃって。まさかこんな腕であの人に取り入ろうなんて。信じられない」
 ぶつぶつ言いながら糸雲はせっかく切り分けた食材をゴミ箱に捨ててしまった。
「あ……」
「なによ。あなたが無駄にしたのよ」
「それは……」
 ナマエは言い返せなかった。こんな有様では、やはり火を扱うのはよした方がいいのかもしれない。蒸し料理なら、火を一定に保っていればよかったからなんとかなったが、炒め物となるとどうしても火力が必要になってしまう。大きな火を前にすると、どうにも腰が引けてしまった。
 ずっと天虎に甘えていた証左だ。
「せっかく教えていただいたのに、今日はごめんなさい」
「いいわよ。もう教えないだけだから」
 片付け終わり、改めて謝ろうとしたが、取り付く島もなかった。糸雲はナマエの目の前でぴしゃりと戸を閉めてナマエを追い出してしまった。
 ナマエは意気消沈して部屋に戻った。

 翌日、ナマエは気が重いまま外へ出た。いつもの場所で、女性たちが集まっている。糸雲の姿はなかった。
「あ、おはよう、ナマエ!」
「おはよう」
 よく話す妖精の紅泉が先にナマエに気付いて声を掛けてくれた。
「昨日、なんかたいへんだったみたいね」
「知っているの?」
「糸雲に聞いたよ」
 女子たちはね、と目配せし合う。昨日のうちに糸雲が事の顛末を皆に話していたようだ。
「まあ、失敗しちゃったことはしょうがないよ」
「最初なんだから、仕方ないわ」
「ええ……」
 そう言って慰めてもらうと、ナマエの心もいくぶんか持ち直してきた。ただ、糸雲がまだ怒っているのではないかということが気がかりだった。できれば一度話したい。しかし、その日糸雲と会う機会はなかった。

 その日から、一緒にお菓子を作ることは自然となくなってしまった。
「もう一通り教えたし、ひとりで作れるでしょ?」
 とうち一人に言われてしまった。教えてもらうというよりは、一緒に作ることを楽しみにしていたのだが、そう言われると仕方ない。ナマエは一人で台所に立つ。
 無限と小黒はまだ戻ってこないので、食べてもらう相手はもっぱら洛竹だ。たまに冠萱や逸風、若水や鳩爺が加わる。風息たちに差し入れできないかと館長に掛け合ってみたが、だめだと言われてしまった。
 少しだけ、作る張り合いがなくなる。ナマエは生地を捏ねる手を止めて、窓から外を見た。下の階から、楽し気な笑い声が聞こえて来た。ナマエは気合を入れなおして、お菓子作りに励んだ。

 廊下を歩いていると、きゃあという歓声が聞こえ、足を止めた。
「無限様だわ!」
 その名前を聞いて、ナマエも浮足立つ。久しぶりに会える。そう思うと心がときめいた。すぐに館長に会いに行くだろうから、そのあとで部屋を訪ねてくれるかもしれない。その前に、一目。
 そう思って、ナマエは階段を下りて行った。
「ナマエさん!」
 その途中、名前を呼ばれた。顔見知りの妖精たちがナマエを待っているので、ナマエはそちらへ向かう。
「なんでしょうか」
「こいつが、新しくこの館に住むことになったんで、紹介させてください!」
 緑の肌をした妖精が、膝ぐらいまでの背の高さの妖精を紹介してくれた。そのあともいろいろと話しているうちに、無限の名を呼ぶ声は聞こえなくなってしまった。きっとどこかへ移動したのだろう。仕方なくナマエは自分の部屋に戻ったが、その日に無限が現れることはなかった。
 ナマエは暗くなった窓の外を見る。
 いつもなら、戻ってきたその日に顔を見に来てくれたのに。
 こちらから探しに行こうか、とも思ったが、どの部屋に滞在しているかわからないし、わざわざ誰かに聞くほどのことだろうかとも思う。迷っているうちにすっかり暗くなってしまって、こんな時間になってしまった。溜息を吐いているうちに洛竹が帰ってきたので、食事の準備をする。その間も、気はそぞろだった。

 次の日は朝早く目が覚めてしまった。
 どうしても気になるのは無限のことだ。もしかしたら、ここには泊まらずすぐに発ってしまったのかもしれない。だから会いに来なかったのではないか。どうして会いに来てくれなかったのか、その理由ばかり探してしまう。もし館長に会えれば、無限について聞くことができるかもしれない。そう考えると落ち着かず、ナマエは静かに部屋を出た。
 まだ周囲は静かだ。そっと足音を忍ばせて、欄干から外を見る。館を取り囲む雲は黄蘗色に染まっている。空は明るいのに、館自体はしんと静まり返っている。ナマエは落ち着かない足の向くままに、外廊を歩いた。
 歩く間も、考えるのは無限のことだった。
 仕事で何かあったのだろうか。立て続けに仕事が入って、休む暇もないのだろうか。考えても答えはでないのに、考えることをやめられない。一目でも会えれば、きっと落ち着くだろうに。それも望めない時間帯だ。
 ここなら大丈夫だろうか、とナマエは辺りを見渡す。
 人気のない広間で、ナマエは冷気を広げた。床の表面に霜が付き、粉雪が舞う。身を乗り出して、水面にも冷気を落とす。表面に薄氷ができ、朝日を反射してきらきらと輝いた。
 たまにこうして発散しないと、冷気を抑えるのも限度がある。久しぶりに羽を伸ばせたようで、ナマエは心が凪いでいくのを感じた。
 ふと、背後に視線を感じた。
 ぴりっとするような、背筋が伸びるような。
 この、まっすぐな視線は――
 振り返れば、無限がナマエを見つめていた。
「あ……」
 ナマエはすぐに冷気を戻す。無限は地面を薄く覆っていた氷が溶けていくのを名残惜しむように追いかけ、ナマエの爪先、裙の裾、帯、胸元、そして顔へ、ゆっくりと目を上げた。
「ナマエ」
 名前を呼ばれるだけで、どうしてこんなにも気持ちが解けていくのだろう。ナマエは目を潤めて、無限を見つめ返した。
「無限様」
 こんな時間に出会うなんて、という思いは同じだった。
 無限は近くの椅子を示し、二人で座った。
「お帰りに、なっていたんですのね」
 ナマエは袖を口元に引きつつ、そう訊ねた。
「ああ。昨日」
 答える無限の言葉は短いが、まだ続きがあった。
「訪ねるには遅い時間になってしまったから、あなたに会いに行けず……。朝、あなたのことを考えていた。そうしたら」
 あなたがいた。
 ナマエは無限の方を見れず、右の頬辺りに彼の視線が注がれているのを感じながら、裾で隠した口元がほころんでしまうのを止められなかった。

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