第二十話 灯



「足元、気を付けて」
 日も落ちて、闇が周囲に満ちて来た。ナマエは無限に手を支えてもらいながら、小舟に乗り込んだ。
「わあい」
 揺れる小舟の先頭に陣取って、小黒は楽しそうな声を上げる。小舟を動かすのは無限だ。暗がりとはいえ周囲の目もあるため、今回は金属は使わず櫓を漕ぐ。
 無限が桟橋に櫓を押し当てると、小舟は音もなく滑り出した。黒い水面に星灯りが落ちて、ゆらゆらと形を変える。
「ナマエ、見て! 魚がいるよ」
「小黒は目がいいのね」
 二人が小舟の右側に寄るので、少し前方が沈む。無限はバランスを取りながら、静かに小舟を漕いでいく。他の人たちも、それぞれ距離を保ちながら、川の中央付近へと漕いでいく。しばらくすると、小舟の上に小さな灯りがぽつぽつと灯り、するすると川面を流れ始めた。
 無限も櫓を漕ぐ手を止めると、用意していた蓮花灯にマッチで火をつける。ひとつを小黒に渡し、ひとつをナマエに渡した。小黒は薄い紙越しに揺れる炎を大きな瞳に映しながら、それを川へと流す。ナマエも見よう見まねでそれに習った。
 川の上には灯を乗せた蓮花が地上に落ちた星のように輝いている。
 あの火が冥府へと帰る先祖たちの道しるべになるのだと無限に聞いた。人とは、儚い生き物だ。妖精には先祖はいない。血を分けた存在というのはどういうものだろうかと、ナマエは流れていく仄赤い火を見送りながら思いを馳せる。
 やがて水面は蓮花灯でいっぱいになった。空を埋め尽くす星よりなお明るい。これなら迷わず帰れるだろう。
「無限様のご先祖は、どのような方でしたの?」
「そうだな……」
 無限が語ってくれたことは、ほとんどナマエには理解できないことだったが、彼が今は亡き人たちを大切に考えていることはよくわかった。
「これは、私の家族のために」
 無限はそう言って、四つの蓮花灯を持ち、小黒に二つ流させ、自分も二つを流した。家族、という概念は、ナマエが弟たちに向けるものとはまた違うのだろう。けれど、似ている部分もあるはずだ。
 ナマエは厳粛な思いで、それらの花が流れていくのを見送り、その魂の安息を祈った。

 蓮花灯を眺めるナマエの横顔を、無限は盗み見る。揺らめく小さなろうそくの火たちに照らされた瞳は天の向こうに広がる真空よりも奥深いように思われた。蒸栗色の上着に透けた丁子色の上着を重ね、下に向かって薄くなる露草色の裙の姿は目にも涼しい。実際、彼女のそばにいると周囲の温度が下がることを感じる。
 この昏い水底に、彼女は何を見るのだろう。
 袂を持ち上げて火が移らないようにしながら、小黒に新たな蓮花灯に火をつけてもらい、ナマエはもうひとつ、川へ流す。その火にどんな思いを乗せているのか、無限には窺い知れない。
 無限が館の執行人となる前に、館で暮らしていたと言っていた。その後、龍遊に戻り風息たちと出会ったと。ではその前はどのように暮らしていたのだろうか。自分の霊域に招いたときに触れればわかることだったが、あのとき彼女に触れることは躊躇われた。今改めて霊域に招くと言うことも決してしない。自分を信頼し飛び込んでくれた彼女の誠意を無碍にすることだ。
 そこまでして知りたいというわけではないが、今知らなければ知れなくなる可能性があること、あのとき嫌でも理解した。
 風息が命を絶つ決心をしたあの瞬間、迷わず飛び込んでいった彼女に届かなかった手がどれほど無力に思えたか。
 彼女が永遠に失われてしまったという事実を飲み込んだときの喪失感。小黒をみすみす奪われてしまった悔恨から、立て続けに己の失態を突きつけられる思いだった。
 だから彼女が風息と共に姿を現したときの喜びといえば、言葉に言い尽くせないものだった。
 そして彼女への思いが決定的に変化したのを自覚する。
 初めは、子供の頃のあこがれだった。
 あの夢のような邂逅は長じるのちも心の片隅に残り、銀景色に焦がれた。雪の中に立つ氷の妖精から感じた霊質の強さ、冷たさ、どこか悲しみを湛え伏せられた瞳。
 思えば、森の中にただ一人立つあの人のそばにいたいと、子供心に願ったのかもしれない。
 執行人になったあと、偶然立ち寄った山奥で雪の冷気とは異なる冷たさの霊質を感じたとき、すぐにあの人だと気付いた。
 逸る心を抑えて斜面を飛び、とうとう彼女にもう一度会うことができた。氷の玉座に座る彼女はやつれ、その青い影が落とす陰影すら美しく、魅せられた。
 風息たちと行動を共にしていると知った時には驚いた。彼らは館の法を犯し、追われていた。そんな彼らが、あれほど弱った彼女を連れて移動できるとは思えなかった。
 島に彼らがいると知らされたとき、もしかしたら彼女がいるかもしれないとは思ったが、どこか別の場所で療養しているとも考えられた。結果、彼女を悲しませることにはなってしまったが。
 島の気候は彼女に優しく、病んだ身体を清浄に癒したおかげか、顔色は見違えるようだった。だが、伏せた瞳に色濃く落ちる哀しみは変わってはいなかった。
 何がそれほどまでに彼女に影を落とすのか。どうか顔を上げてほしいと、手を差し伸べずにはいられない、そんな衝動が己の中にある。
「これで最後だ」
 小黒は身を乗り出して花を流し、縁に捕まったままそれらが遠くへ流れていくのを見送った。初めの方に流した分は、もうずいぶん下流へ行ってしまって、夜空の星と見分けがたくなっている。
「戻ろうか」
 気が付けば周囲の人たちはほとんど岸に戻ってしまっていた。無限はゆっくりと漕ぎだす。
 岸に戻ると、小黒は身軽に桟橋へ飛び移る。ナマエがそのあとへ続く。無限はその後ろを、事故がないように気を張って見つめる。いざとなれば彼女も身を浮かせることができるので、手を貸す必要などないと言われればそれまでだが、それでも彼女がバランスを崩したとき、咄嗟に無限は手を差し出してしまうだろう。そして、それが自分以外のものであることはいやだ、とも思う。
 初めはただ、優しさの奥に悲しみを湛えた彼女の瞳に魅せられていた。今は、その顔を上向けて、笑顔で満たしたいという欲求が現れた。誰かの隣ではなく、自分のそばで。
 その感情が何を起こすのか、まだ判然としない。だが、もうずいぶんと膨らんでしまっていることを自覚する。こうして同じ時間を共有すれば、もっと大きくなるのかもしれない。できればゆっくりと育てていきたい。だが、急がねば失うこともあるのかもしれないと急かす声もする。どうするべきか、考えはまとまらない。
「師匠ーっ」
 考えながら歩いていたためか、小黒たちから少し遅れてしまっていた。小黒の隣で、ナマエが振り返り、微笑みを浮かべて無限を待っている。
 無限は小走りで、二人の元に戻った。

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