第十九話 疑
「無限様、おかえりなさーい!」
飛びついてきた子狐の妖精、若水の頭を撫でてやりながら、無限は久方ぶりの館を見上げた。夕日に照らされた館の窓には、ぽつぽつと明かりが灯っている。そのうちのひとつを探して無限は視線を彷徨わせた。
「任務、お疲れ様です」
「ああ。大きな問題はなかったよ」
若水が淹れてくれたお茶を飲みながら、無限は潘靖に一通りの報告をする。
「それはなにより。こちらも今は頼むことはありません。しばらくはお休みください」
「ありがたい」
少し時間ができた。小黒を連れてどこへ行こうかと思考を巡らせる。彼にはたくさんのものを見てほしいし、それを共有できることは何よりの喜びだった。
「あ、冠萱さんとナマエさんだ」
ふと、若水が遠くへ視線を向ける。
外へ伸びた廊の先に置かれている楼閣の外に置かれたこの卓子から、館の中心の建物が見える。朱色の欄干のそばに、確かに二人の姿が見えた。何か話をしているようだ。
「やっぱりお似合いですよねえ、館長!」
それを見て、やけに嬉しそうな声を上げる若水を、潘靖が窘める。
「よしなさい、変な勘繰りは」
「えー、だってあんなに仲がいいんですよ? ね、無限様。館中でも噂になってるんです。ナマエさんと冠萱さんのこと!」
ぱきん、と無限の手の中で茶杯が割れて、中身がその足に掛かった。
「きゃーっ!? だだだ大丈夫ですか無限様!」
驚いて悲鳴を上げる若水と慌てる潘靖をよそに、無限はああ、と唸ると破片を避けて、しみ込んだ茶を操って袴を乾かす。水分は飛ばせるが、肌に触れた熱さはどうしようもない。しかし、今の無限にとってそんな痛みなどどうでもよかった、というよりほとんど感じていなかった。
それ以上にショックを受けていた。
「火傷しちゃうっ……あ! ナマエさん呼んできますね!」
若水は垂れた耳をぴんと伸ばすと、無限が何も言わないうちにくるりと向きを変えてナマエの元へ走って行ってしまった。
「……すまない」
脳内は混乱を極めていたが、なんとか潘靖の茶器を壊してしまったことを謝罪する。潘靖は「それは構いませんが」と言いながら、茶杯を壊してしまうほどの動揺を見せている無限を訝しく眺めた。
「いかがなさいましたか。何か、ご心配でも」
「いや」
足で割れた破片を端に避けて、無限は椅子に座りなおした。目を上げると、若水が冠萱とナマエの元に到着したところだった。若水の尻尾が忙しく上下して、一生懸命事態を説明している様子がうかがえた。ナマエは向こう側を向いているので、表情はわからないが、若水に腕を引かれてすぐにこちらへと駆け寄ってきた。
肩にかかった髪が跳ね、裾を翻して走り寄ってくる彼女の姿から目が離せない。氷を細くすいて梳かしたような艶やかな髪が夕焼けの光を反射して、きらきらと輝いているのが遠くからでもよく見えた。
「無限様、火傷をされたとか」
駆け付けたナマエの髪は少し乱れ、白い肌にかかっていた。無限はその表情に一瞬見惚れ、彼女が足元に跪いたことで我に返った。
「じっとして」
無限が何も言わなくても、彼女はその力によって患部を正確に見抜いていた。火傷した範囲にぴたりと氷が張り付く。氷は熱を発散して解け、それと同時に痛みもまるでなくなってしまった。肌を見れば、赤くなっていたのがうそのように思えるだろう。
「これで大丈夫ですわ」
「……すまない」
にこりと微笑んでくれたナマエに、いまさらながら申し訳なさが募った。これだけのことで、わざわざ走らせてしまった。
「髪が乱れてしまった」
何も考えず手を伸ばして、前髪を整えてやろうとすると、弾かれたようにナマエは立ち上がって、袖で顔を隠しながら自分で髪を整えた。
「す、すみません。慌てていて……」
「いや、私が走らせてしまって」
「無限様、大けがじゃなくてよかったです」
成り行きを見守っていた若水は胸をなでおろした。あとから冠萱も追い付いてきた。
「無限様、火傷を負われたとか」
「今ナマエさんに治療していただいたよ」
冠萱に潘靖が答えてやる。
「火傷には氷! と思ったら、ちょうどよくナマエさんがいたから……ありがとう、ナマエさん!」
若水は丁寧にナマエに頭を下げた。そして冠萱を申し訳なさそうに見上げる。
「大事なお話の途中でしたよね、ごめんなさい」
「いや、構わないよ。ちょっとした立ち話だったから」
「いやーでも、お邪魔でしたよねえ」
若水はけろっとしてにやりと冠萱とナマエを見比べた。
「ほらほら、二人だけのお話、どうぞ続けてください〜」
「ああ、それなら代わりの茶器を用意するからみんなで飲もうか」
潘靖はそう提案して、冠萱に茶器を人数分取りに行かせた。
無限は素直に命令に従い戻っていく冠萱を横目に、ナマエを見る。ナマエは若水に椅子を勧められ、遠慮しながら座っていた。
「無限様、お帰りになっていらっしゃったのですね」
「ええ。さきほど」
若水を挟んでひとつ隣だ。丸い卓子を囲んだここからだと、袖で隠した頬と、耳、うなじのあたりしか見えない。どうしてか、ナマエはよく袖で顔を隠してしまう。話すために小さく震えるすぼめた唇や、僅かに下に向けられた透き通った瞳、それに繊細な影を落とす睫毛の揺れ、細い眉の微かな動き、柔らかな頬の輪郭、そういったものを、もっとよく見たいと常々思うのだが、これがなかなか叶わない。
「任務終わったから、しばらくお休みなんですよね! 無限様、お休みの間、どこかお出かけされるんですか?」
「そうだな。そのつもりだ」
若水の無邪気な問いに、無限は答えた。そうだ、小黒とどこへ行こうか考えている途中だった。
あと数日で処暑だ。夏も終わり、風も涼しくなってくるだろう。
「小黒を放河灯に連れて行ってやろうかと」
ふとそのころに行われる行事を思い出し、そう言うと、ナマエが不思議そうに尋ねた。
「放河灯とはなんでしょう?」
「灯籠を川に流し、先祖の霊を弔う」
先祖、とナマエは小首を傾げる。
「人間は、先祖……自分の親の、その親の、さらに親……と、連綿と続く血縁の霊を大切にしています。中元には彼らの霊が帰ってくるといいます。彼らが道に迷わないよう、灯籠を流し、水底を照らす、ということですね」
無限の簡潔な説明に、潘靖が詳細を付け加えてくれた。
「人間の行事なのですね」
ナマエは深く頷きながら、その光景を想像してみた。
「さぞ、美しいことでしょう」
「あなたも見るか」
考える前に口から出ていた。ナマエは袖を口元より下に下げていたので、その意表を突かれたような表情がよく見えた。
「けれど、大切なことなのでしょう? 私のようなものが加わってよいものでしょうか」
「だからこそ、知ってもらいたい」
口に出してしまったあとには、ぜひ彼女にあの光景を見せたい、という思いが無限の中で強くなっていた。
「私の……私達、人間のことを」
そう言い直して、ナマエの答えを待つ。ナマエはまた鼻の辺りまで袖を上げて目を伏せる。
「そう、おっしゃっていただけるなら……」
そのとき、茶器を持って冠萱が戻ってきた。ナマエと無限に茶杯が渡され、冠萱もひとつ持って席に着く。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
冠萱はナマエと潘靖の間に座った。もともと、そこしか席は空いていない。無限は二人をじっと窺った。
「そうだわ、冠萱さん、先ほどの話なのだけれど」
「ああ、洛竹さんのことですよね」
「ええ。少し悩んでいるようだから、どうかお願いいたします」
「そんな、もちろんですよ。私でお役に立てることなら」
なんの話をしているのだろう、とつい聞き耳を立ててしまう。いつもならなんの話ですか、と口を突っ込みそうな若水は、無限の隣でにこにこしながら菓子を頬張っている。そしてナマエと冠萱を見比べるので、なんとなく無限には面白くなかった。
「洛竹の様子はどうですか」
「お陰様で、毎日楽しく過ごしておりますわ」
潘靖に訊ねられ、にこやかにナマエは答えた。洛竹が今自由に動
けているのは、潘靖の計らいのお陰だ。彼が楽しそうに街で働いている姿を見るのが、今のナマエにとってなによりの慰めだ。
「花屋だったか」
無限が訊ねると、ナマエは頷いた。
「ええ」
「お花屋さん! 私も何度か顔を出したけど、お客さんからの注文にもちゃんと答えててすごかった! 女性客が増えたって店長も喜んでたんですよ」
若水は身を乗り出し、ふさふさの尻尾を左右に振りながらナマエに報告した。
「そのようね。私もちょっと働きぶりを見ていたけれど、きっと彼に合っているのね」
「すごく似合ってますもんね!」
若水のその言葉に、冒頭のやりとりを思い出して、無限は膝の上で拳を握った。茶杯から手を離しているときでよかった。
――お似合いの二人。
――館で噂の。
「……噂」
意図せず声に出てしまった。え、と全員の視線が無限に集まる。無限は目を逸らしながら続けた。
「若水が、さきほど」
「……ああ!」
そう言われて思い至った若水は、いやいやーと笑う口元を手で押さえながら、冠萱とナマエの顔を交互に見る。
「……ねえ?」
「若水、やめなさい」
見かねて潘靖が若水を諫めるので、何ごとかとナマエと冠萱は顔を見合わせる。
「でも、今ってはっきりさせるいいチャンスじゃないですか?!」
こうなると俄然張り切るのが若水だった。おもむろに立ち上がって、両手を胸の前に持ってきて、期待たっぷりに言った。
「お二人は、付き合ってるんですかっ?」
「え?」
「え」
ナマエはぽかんとして、冠萱は耳まで赤くなった。
「い、いえ、まさか僕たちはそんな……っ!」
「若水ちゃんたら、冠萱さんを困らせないで」
「えへへ! だって〜最近周りはその噂でもちきりなんですよっ」
若水は悪びれず尻尾を振る。楽しそうな若水に対して、ナマエの表情は呆れ気味に無限には見えた。
「皆さんもそんな誤解を? どうしたものかしら」
「えー、違うんですか? だってだって、お二人いつも仲良くお話してるじゃないですか?」
「仕事の話ですよ」
冠萱はすっかり恐縮して早口で否定する。
「ごめんなさい、冠萱さん。おかしな噂が広まってしまっているようで……」
ナマエはしおらしく頭を下げるので、ますます冠萱は恐縮した。
「いえいえ! ナマエさんは何も悪くありませんよ!」
「こういう類は、本人たちの意志など関係ありませんからね」
長年の経験から滲み出る渋みを仄めかせながら潘靖が溜息を吐く。
「では、違うと」
無限はナマエを見つめて短く問うた。
その瞳に捕らえられて、ナマエは一瞬硬直したあと、目元まで袖で隠して答えた。
「……はい」
無限は握り締めていた拳をようやく解いた。
「そっかあ……違うのか……ざんねん」
「あまり無責任なことを言うものではないぞ」
しょんぼりした若水に、潘靖は釘を刺しておいた。
その後は談笑して和やかな雰囲気で解散となった。
椅子から立ち上がったナマエは、つと無限の傍へ来る。
「火傷の方はもう大丈夫ですか」
「ああ。綺麗に治してもらったから」
よかったです、と微笑むナマエにまた見惚れる。彼女がそばにいると、意志を向けるよりも前に自然とそこへ視線が吸い寄せられてしまう。まるで彼女自身が光を放っているかのように、眩い。
「お出かけ、楽しみにしております」
視線を下に向け、伏せ気味の瞼がやけに白く見えた。
「……ああ」
少し頭を下げて去っていくナマエの後ろ姿を見送る心の内は、暖かさに蕩けていた。
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