第十八話 未



 抱きしめられた腕の中、とても安心したことを覚えている。
 それから、片時も見逃したくないというようにじっと向けられる視線。
 安心感と、焦燥感。相反する思いが、同時に湧き上がって、胸がいっぱいになってしまう。こんな風に持て余す思いを抱いたのは初めてで、ナマエにはどうしていいものか皆目見当もつかない。
 行き場を失った思いは、物憂い吐息としてナマエの口から洩れた。
「ナマエ姉〜」
 洛竹の声が、思考の波に揺蕩っていたナマエの意識を引き上げる。ナマエははっとして目の前に座っている洛竹の顔に焦点を合わせた。洛竹はそんなナマエの顔を、心配半分、興味半分といった様子でしげしげと眺めている。
「ええと、ごめんなさい。なんの話だったかしら」
 ナマエは素直に途中聞いていなかったことを謝った。
「いや。何って言うか。なんてこともないんだけど」
 洛竹は歯切れ悪く答えながら、何かを考えている様子だった。ナマエはその視線にまた無限の瞳を重ねていることに気付き息を吐いた。近頃、どうもぼんやりしてしまうことが増えた。
 無限は任務のためまた館を離れている。もう数日は会っていない。特に会って話すべきことがあるわけではないのだが、心のどこかでいつ帰ってくるだろうと待ち望んでいる自分がいる。ただ、こんなことがあった、あんなことがあったと、他愛もない話をしたいと思った。最近は、手が空いているときにお茶に合う菓子の作り方を習っている。なので、もう少し練習して上手くなってから帰ってきてくれれば、それなりのものを振る舞うことができると思う。それを食べて「美味しい」と言ってくれるといい。そのときの表情を思い浮かべると、自然と生地を捏ねる手つきにも力が入るというものだった。
 今、彼は何をしているだろう。どこかでまた戦っているのだろうか。小黒はどれくらい上達しただろう。二人で、またお祭りなどに出かけているんだろう。師弟というよりは親子とも思える二人の姿を想像するだけで、心が暖かくなる。
 しかし、いざ顔を合わせて話そうというとき、またあの視線を向けられて平静でいられるだろうかということが気がかりだった。あまりにもまっすぐで、少しも逸らされることのないひたとした視線。あの視線を向けられると、目を合わせることができず、袖で顔を隠して身を背けたくなる。困っているナマエの気持ちを知ってか知らずか、それでも彼はひたすらにナマエにまなざしを向けてくる。
 その瞳の色を思い出すだけで、ナマエの心は高鳴って、落ち着かなくなり、周囲の気温が冷えていく。
「っくしゅん」
 洛竹のくしゃみに、またナマエは意識を引き戻された。さっき洛竹に謝ったばかりだというのに、再びナマエは思考の井戸に落ちてしまっていた。
「ナマエ姉、ちょっと寒い……」
「あら? ごめんなさいね」
 しかも、冷気が溢れてしまっていた。慌てて霊質を律して、周囲を平温に戻す。
「どうも最近、周りを凍らせやすくて……」
「すん。まだ本調子じゃないのかもな」
 洛竹は鼻を啜った。
「それで、どう?」
「どうって?」
「館での暮らし。だいぶみんなとも打ち解けてきたよな」
「ええ。楽の音を合わせたり、お菓子の作り方を教わったりして、よくしてもらっているわ」
 そうだ。話題は館に馴染んできたというものだった。洛竹は紫羅蘭の花屋で一緒に働いている。街については、もう洛竹の方が詳しいだろう。あちらこちらにバイクに乗って配達に行っているそうだ。逆に、ナマエは別の館にも行って治癒をしたり手伝いをしているので、広く妖精たちと知り合うことができている。
「この間も、冠萱さんと一緒に南の館に行ったの。そちらで美味しいお茶をいただいたから、今度取り寄せてみようと思って。あなたにも飲んでほしいわ。あ、冠萱さんも気に入っていたから、おすそ分けしましょう」
「ふーん」
「どうしたの? さっきから」
 ナマエは気が散り勝ちではあるものの、そこは慣れ親しんだ仲、洛竹の態度がどうも煮え切らないでいることに気付いている。何か言いたげというか、探っている、というか。
「ナマエ姉、冠萱さんの話よくするなと思って」
「そう? でも、一番お世話になっているから」
 ナマエの術の関係上、一緒に行動することが多いのは冠萱と逸風だった。逸風とは手分けして事に当たることになるのがほとんどで、その場合冠萱はまだ経験が浅いナマエの方を気に掛けてくれる。自然と頼りがちになっていたなとナマエは改めて思う。
「冠萱さんにもお菓子の差し入れをしようかしら。うまくできたら……」
「最近、凝ってるもんな」
「いろいろ作れるようになったのよ」
「それで頑張ってたんだ」
「それでって?」
 今の会話で何かを納得したらしい洛竹はうんうんと頷いているが、ナマエにはなんの話かわからない。
「俺はいいと思う。あの人、いい人だし」
「それは、そうね」
「ナマエ姉には幸せになってほしいって、俺、いつも思ってるから」
「それは……前にもそんなことを言っていたわね?」
 わざわざ口にするまでもない。ナマエにとっても、弟たちが幸せになることが何よりナマエにとっての幸せになる。
「へへ。ナマエ姉最近すっごくかわいい」
「えっ!?」
 突然へらっと笑顔を崩したと思ったら、そんなことを言い出すので、ますますナマエの頭は混乱する。洛竹の考えがいまほどわからないと思ったのは初めてかもしれない。
「な、なにを言い出すの」
「いやーこうさ、ときおり遠くを見てる視線とか……かと思えば、胸に手を添えて何かを噛みしめてるようなふうだったり……それに笑顔も増えたし。幸せそうだ」
「そ、そうかしら……?」
 洛竹にいろいろと観察されていたことにまったく気付いておらず、恥ずかしくなってナマエは顔を袖で隠す。いまさら、遅いのだが。
「だからさー、俺も幸せ!」
「もう、へんなことを言わないの」
「いいじゃん。照れなくても!」
「照れてないわ」
「ナマエ姉、かわいい」
「もう、からかうのはおやめなさい」
 咳払いをして、緩む頬をなんとか引き締める。こういうとき、洛竹は悪のりせず素直に弁えてくれるのでありがたい。
「ごめんごめん。ただ、これはほんとに。冠萱さんなら、俺も大歓迎ってことは言っとこうと思ってさ」
「冠萱さん?」
 唐突に出された名前に、ナマエは照れもどこかへ行った。確かにさきほどまで彼の話題は出ていたが、今の話の流れでどうして彼になるのかがわからなかった。
「え? そうでしょ?」
 洛竹の方もあれ、という表情で首を傾げる。右側に流した前髪がさらりと揺れた。
「冠萱さんにはお世話になっているけれど。それだけよ」
「え? あれ? そうなの?」
 照れ隠しでもなく淡々とそう答えるナマエに、洛竹は想定がすっかり崩れてしまったようで、身を乗り出してきた。
「じゃあ、誰なの!? ナマエ姉の好きな人!」
「そ――」
 それは。
 今心に浮かんだ名前は誰のものだろう。ぽかりと浮かんだそれは、目の前の驚いている洛竹の顔に焦点を合わせたとたんぱちんと消えた。
「そんな人、いないわ」
「えー!! 絶対恋煩いだと思ったのに!!」
「どうしてそうなるの……」
 ナマエは深いため息を吐く。どうやら知らぬ間にすっかり誤解されていたようだ。洛竹はまだ納得いかないように腕を組んで、ナマエの顔を覗き込んでくる。
「じゃあ、ほんとに好きな人、いないの?」
「どうしてそんなこと気にするの……」
「いやぁ、花屋やってるとさ、結構そういう話聞くんだ。好きな人に花を贈りたいから、ブーケを作ってくれとか。だからさー。てっきり最近ナマエ姉がへんなのはそのせいだと思ったのに……」
「もう、今はそんな余裕はないわ」
 龍遊での事件から、まだそれほど日にちは経っていない。洛竹はちょっと口を閉じたが、その空気を払拭するようにあーあと伸びをする。違うのかぁ、と続けられたのはがっかりというよりは安堵の声音だった。
「それならそれで、ちょっとほっとしたかも……」
「どうして?」
「まだ、ナマエ姉が誰かのものになっちゃったら寂しいからさ……」
「まあ」
 ナマエは子供っぽいわがままを言ってみせる洛竹に、顔を綻ばせる。
「かわいい子。私はずっと、あなたたちの姉ですよ」
「うん!!」
 洛竹もめいいっぱいの笑顔で応えてくれた。
 しかし、まさかそんな風に見られていたとは思わなかった。他の妖精たちにはどう見えているだろう。外ではあまり放心しないよう気を付けているつもりだが。
 放心。
 そう、洛竹が心配する程度には、ナマエも近頃心ここにあらずという状態になりがちであることには気付いている。自分で気付く前からそうだっただろう。そういうとき、考えているのは無限のことである。あの事故のせいだ。あの日から、ナマエは彼のことばかり考えてしまっている。あの瞳に囚われている。どうすれば気を紛らわせるのかわからない。ふとしたときには物思いに耽ってしまう。忘れることなど無理だ。生活に支障は出ていないから、無理に忘れる必要はないかもしれないが、現に洛竹に心配をかけてしまった。
 それに、ぎゅっと胸が締め付けられたり、感情が高ぶって霊質が溢れ、周囲を冷気に晒してしまうこともある。……それこそが支障、といわれればそうなのかもしれない。
 どうすれば、この心は収まるのだろう。
 ナマエには、まだわからない。

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