第十七話 傷



 ナマエが部屋で休んでいると、扉を叩くものがいた。
「ナマエさん」
 訪ねて来たのは冠萱だった。
「事故が発生しました。おいで願えますか」
「はい、すぐに」
 ナマエはその意図を察して立ち上がる。さきほどからどうも騒がしいと思っていた。今動けるものが現場に向かおうと準備しているのだろう。
「では、まずは我々で対処します」
 転送門前に集められた十数人を連れて、冠萱は現場に移動した。
 そこは山の中腹だった。数日続いていた雨により地盤が脆くなり、崩れてしまった。それに民家がいくつかと、道路を走っていた車が飲み込まれてしまっている。
「ナマエさん、地面がこれ以上崩れないよう抑えてくれますか」
「わかりました」
 ナマエは飛び上がり、下の方から氷を造って支柱とした。数キロに及ぶ道を保護し、さらに上部の崖も氷でコーティングする。二次被害が起きないよう注意を払いながら、他の者たちが土砂の中から住民を救出していく。幸いなことに、災害が発生したとき近くにいた妖精がほとんどの住民を避難させることができていたので、救難者はそれほど多くはなかった。問題は崩れた土砂がさらに流れて山の裾野にある街まで落下してしまうことだ。今はナマエの氷でなんとか抑えているが、修復する必要がある。
「怪我人がこっちにいる! 誰か手を貸してくれ」
「今行きます!」
 瓦礫の下から呼ぶ声がして、ナマエはすぐにそちらに向かった。氷で瓦礫を持ち上げ、下敷きになっていた人を救い出すと、怪我をしている箇所に手を当てて治療を施した。
「ナマエ、こちらも頼む」
「はい! あ……無限様」
 館の外で任務に当たっていた無限も呼び出されていたらしい。ナマエは一瞬頭が真っ白になったが、目の前の怪我人を見てすぐに意識を引き戻し、手当をした。
「無限様」
 冠萱が無限に被害状況を伝えると、無限は頷いた。
「ありあわせの金属で補修する。ナマエ、手を貸してくれ」
「はい」
 無限と並んで飛び上がると、無限は崩れた道路を支えていた金属を引き延ばし、格子状に崖にかぶせていく。ナマエは金属の邪魔にならないように氷を溶かしていく。
 そうして粗方の工事が終わると、念のため他にぬかるんでいる場所がないか点検をすることになった。
「私が様子を見る。あなたは離れて全体を見ていてくれ」
「わかりました。気を付けて」
 無限は頷いて、木々の中へ入っていった。ナマエはどこかが崩れださないか注意しつつ、無限が向かった辺りをはらはらしながら見守る。もし急な土砂崩れに巻き込まれてしまったら。そう思うといてもたってもいられなかった。
 無限は身軽に木々の間を飛び、亀裂が入っていないか確認していく。ふと、みしみしという音を耳で捉えて、機敏に振り返った。
「ナマエ!」
 地面から根が盛り上がり、横になっていた大木があった。残りの根が重みに耐えかねてゆっくりと沈んでいこうとしている。ナマエもそれに気付いて、氷を張ろうと身構えた。
 ナマエは森の中に飛び込み、氷を張る。大木の根本はみるみる氷に覆われ、やがてぴたりと動きを止めた。だが、まだ軋む音は止まっていない。大木の枝が折れ、地面に落ちる。
 ナマエは咄嗟に手を伸ばした。その枝の先に、動けなくなった兎がいた。木の枝はナマエの右手首の先を砕いて方向を変え、兎は氷が割れる音に驚いて茂みの中に飛び込んでいった。
「ナマエ、無事か!」
 空中でよろけたナマエを無限がすかさず抱き留めた。
「なんて無茶を」
「兎は無事ですわ」
 ナマエはにこりと笑って見せる。氷でできた身体だ、痛みはない。しかし、無限は眉根を寄せたまま俯いてしまった。
「間に合わず、すまない」
「とんでもないことですわ。さあ、他の場所も点検しませんと」
「いや、あとは私が見る。あなたは冠萱の元に戻って休んでくれ。その身体ではうまく飛べないだろう」
「腕はすぐに治ります」
「それでも」
 無限はナマエをその胸深く抱きしめた。
「これ以上、あなたを危険に晒したくない」
 驚きのあまり、ナマエは何も答えられなかった。さあ、と促す無限に異を唱えることはできず、ふわふわとした心地のまま冠萱の元へ戻った。
「ナマエさん! どうしたんですか、その腕は」
「いえ、これは平気です。ただ、足手まといになってしまいますので……残りは無限様が見てくださると」
「わかりました。あなたはこちらで休んでください」
「ありがとうございます」
 冠萱にすすめられるまま、ナマエは腰を下ろした。砕けた右腕が抉れたあとには、むき出しの氷があった。数時間もすれば元通りになるだろう。しかし、その途中の姿を無限に見せるわけにはいかない、とナマエは思い、先に千切れた服の袖だけを霊質で造り出し、傷を隠した。
 あんな風に取り乱す無限を見るとは。あの事件で小黒が倒れたときにも、責任を感じてとても心配な様子をしていたが、今もそれと同じくらい、顔色が変わっていた。それが何を意味するのか、ナマエにはうまく想像できなかった。

 すべての点検を終え、あとは人間たちに任せて、妖精たちは館へ帰った。ナマエが自室で休んでいると、無限が訪れた。
「お休みのところ、すまない」
「いえ、もう回復しましたから」
 ナマエは元通りになった右腕を無限に見せる。無限はそれを見てほっとし、じっとナマエの顔を見つめた。ナマエはこういうとき、どうしていいかわからなくなる。鼓動がどきどきと高鳴り、胸が甘く締め付けられる。ナマエを見つめる無限の視線は言いようもなく、深い愛情を湛えている。ナマエは耐えきれなくなって目を反らしてしまった。それでも、無限の視線がナマエの頬辺りに向けられていることを肌で感じる。見られていることが恥ずかしくて、袖の裾で顔を覆った。
「あの……ご用件は」
「無事を、確認しに」
 無限はようやく視線を外してくれた。ナマエはこっそりほっと息を吐く。
「この通り、なんでもありませんわ」
「それを聞いて安心した」
 しかし、無限は部屋を出ていく様子はなかった。
「あの……お茶でも」
「いえ」
 さりげなく奥へ移動しようとしたナマエを、無限は引き留める。
「もう少し、お顔を見せてほしい」
「え……」
 無限はまた、袖越しにナマエの顔に熱い視線を向ける。ナマエはどうしていいか困って、手を下ろしたが、どこを見ていいか迷い自分の足先や無限の肩に視線を彷徨わせた。
「あの……無限様も、お疲れでいらっしゃるでしょう? 座ってはいかが?」
「……ええ」
 ナマエはようやくそう言って、無限に椅子をすすめ、自分もその向かい側に腰かけた。
「明日から、またお仕事に行かれるの?」
「ああ」
「お忙しいですわね」
「いえ。だが、任務が終われば、また来る。……お顔を見に」
「……あ、ええと……」
 ようやく普通に話せるようになったと思ったら、また詰まってしまった。
「その、……おいでいただけたら、嬉しいですわ」
 やっとの思いで、ナマエはそう告げた。声が擦れ、上手く伝わったか心配になる。だが、無限の表情を見ればそれが杞憂であることがわかった。
「美味しいお茶と、お菓子を用意しております」
「それは、楽しみだ」
 無限の笑みを見ていると、ナマエの心も暖かく解けていくようだった。

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